2004年12月17日『魂の言葉と音楽』

 観ているうちに、何度も何度も頷いている自分に気づいた。
これじゃ、テレビの公開番組に来ているオバサンとおんなじだと思いながら、またも頷いているのだった。
 「林英哲」という有名な太鼓奏者のドキュメンタリー映画「朋あり。」を近くのミニシアターに見に出かけた。
冬にしては生暖かい夕暮れだ。
そんな生暖かさも手と腕がスクリーンに大映しされた瞬間、冷たい風が吹くように消え、思わず背筋を伸ばしていた。
 「林英哲」という人がどうやら孤高の音楽家であるらしいとは知っていた。
太鼓という人間の鼓動に近い楽器を使って様々なコラボレーションを続け、国内外で高い評価を受けていることも知っていた。
ただまだ見たことがなかった。
聴きにいったことがなかった。
それなのに映画を先に見てしまうなんて、何だかこれじゃ本末転倒、全く失礼な話だなあと思いながら見ていくうち、「英哲」って本当によくした名前だなあ、こんなに名は体を表した名前ってめったにないなあ、それに体だって顔だって「英哲」そのものだもんなあ、そしてその「英哲」さんの口から出る言葉たちにホントにそうだホントにそうだと、いちいち頷いているのだった。
何をどういっていたのか、ようくは思い出せないのに、確かにその言葉たちは同じ音楽を志す者にとって、いや「いのち」を見失っている今という時代を生きる者にとって最高にモットモな言葉たちなのだった。
 何種類ものバチをきちんと揃え、太鼓の皮にじっと手をあて目をつぶる姿は、神に捧げる芸能から音楽は始まったのだと再確認させられる。
聞くところによると、「英哲」さんはお酒もほとんど飲まず、そういえば映画の中でもミネラルウォーターで乾杯していたが、山の中を走り、自らを律し、太鼓に向かう、ああかくあるべしと深く反省したものの、映画館を出て向かったのは知人宅。
この日揚がったフグを食べさせてくれるというのだ。
フグの白子酒が悪魔の微笑みのように脳裏に浮かんだ。


2004年12月3日 『青春の長い旅』

 「マスコミ」という文字にだまされたか、送られてきた大学時代のサークル「マスコミ研究会」のハガキに、
こういうもんには顔出しといたほうがいいと、事務所の社長がキッパリといった。
 出席してみると、はたしてそこには知らない顔ばかり。
「宴会要員」として籍を置きマスコミの研究などミジンもしていなかった者の居場所などあるはずもなかった。
受付で渡された漢字五文字の名札さえ、まるでヒトゴトのようなありさまでどうにも心細い。
そんな訳でやや遅れて会場に入ってきたKさんを見つけた時には心底ホッとした。
Kさんは当時サークル一番のハンサムで、まっ白いジャケットを手にさっそうと歩く姿には「キャンパス」という文字が浮かび、バンカラでならすこの大学とは不似合いな格好良さだった。
案の定その後、アイドルだった女性と結婚し、子供も3人いると聞いてはいたが、実際会うのはおおよそ30年ぶり。
貫禄こそついてはいるがやっぱり格好良い。
 そのKさんの笑顔のまわりに、あの頃小さな部室でゴロゴロたむろしていた人たちの顔が重なってくる。
ハイライトやロンピーの煙の中、酒に酔い、議論をし、「ただあなたの優しさがこわかった」という歌の文句に「女にそういわれたら、どうすりゃいいっていうんだ」と憤慨し、みんな自分がナニモノかであると思っていた。
そして自分が結局ナニモノでもないとわかるまで、私はそれから20年以上もかかったのだ。
 「あなた、どっちかっていうと番頭さんね」。
小さな会社の社長をやっているという同じテーブルの人の名札を見ると3年も後輩。
先輩の暴言にニコニコしている。
この人もその昔はポックリサンダルに長髪で「ガロ」やっていたんだろうか。
紺地の前掛けが似合いそうな小太りのカラダを見ながら、人それぞれの「ナニモノか」への旅の長さを思った。


2004年11月19日『朝の儀式』

 「窓を開ければ港が見える」と唄ったのは淡谷のり子さんだったが、朝起きると部屋中の窓を開け放つ習慣がついてから、もうだいぶになる。
開けるだけではなくて、東の空に向かって手のひらをかざす、大きく息をする、それから手を合わせる。
 「もしもこの世に私が必要であれば、どうか今日一日生きさせて下さい。そして唄わせて下さい、この世に私の歌が必要であるあいだ…」
みたいなことを心の中でつぶやく。
なににいっているのかはよくわからないが、とりあえずこの儀式を行うと一日の始まりという気がしてくるから不思議だ。
 3年ほど前になるだろうか、スタイリストの友人が、そのまた友人のホロスコープ、つまり星占いをする人を紹介してくれた。
占いなんてと腰がひける私に、まあ人生の傾向と対策みたいなもんだから心配いらないと、生年月日、出生地、出生時間をファクスするよう指示をし、数日後ドキドキしながら一緒に出かけたのだった。
 行ってみると、その人はごく普通の女の人で、黒いベールもかぶっていなければ、怪しげなモノを持つわけでもない。
ただチャートと英語で書かれた図表を何枚か並べ、その一枚を、これがクミコさんの生まれた時の星の位置ですといった。
まさか何十年もたってから自分の生まれた時の天空と対面できるとは思ってもいなかった。
何だか懐かしくなってしまった。
 その時彼女が言ったこと、私が全く集団に向かない一人でモノをする人間であること、これから仕事がいい方向に向かうこと、そして絶妙なバランスで保たれている私生活が徐々に破たんしていくであろうことなど。
そして、すべてがその通りになった。
いい仕事にも恵まれたし、私生活もちゃんと破たんした。
思ってもみなかった形で。
ただ、寿命のことまでは聞いていないので、毎朝大草原のプレーリードッグよろしく朝陽に向かって頭を下げるしかないのだ。


2004年11月5日 『わたしは青空』

 台風の日に生まれたせいか、どうも「雨オンナ」になってしまったらしい。
なにかというと雨になる。
今では、いくら晴れていても私のコンサートには必ず折りたたみ傘持参というヒトもいるくらいで、申し訳ない。
 そんな私が出した新曲のタイトルが「わたしは青空」。
今月3日発売のシングルで、時々「私の青空」、英語でいうところの「マイ・ブルー・ヘブン」に間違われるが、この曲の青空は誰でもない「わたし」自身なのである。
 詞はあの「千と千尋の神隠し」のテーマ曲「いつも何度でも」、そして私の唄った「わが麗しき恋物語」の日本語をつけてくれた覚和歌子さん。
「生きている不思議 死んでいく不思議 ゼロになるからだ」というコトバたちに出会って、この人と仕事がしたい、この人のコトバたちを唄いたいと思ったのだった。
長くこの世にあればあるほど、生きていることも、死んでいくことも、やがてはゼロになっていくカラダのことも、そして結局は魂のことも、不思議で仕方がない。
特に昨今のように、どうしてこんなことがと思うような「理不尽」さでゼロになっていくカラダたちのことを思うと、切なさは限りなく、ただただ涙を流すだけだ。
 今年初夏、長崎の佐世保で起きた事件、遺族の気丈な会見にコトバを失う中、覚さんはひとつの詞を作り、それに作曲家の三木たかしさんがメロディーをつけてくださった。
それが「わたしは青空」。
つらい背景をもつ曲だが何回も唄っていくうちに「光」が見えてきた。
それは「いのち」の永遠、「魂」の永遠とでもいえるような力強いたしかなもの、生と死の境界線を結ぶ「光の道」とでもいおうか。
最後の詞の一節を。
 
 青空 過ごした時間の長さじゃ はかれぬ仕合せ
 青空 あなたに出会えて ほんとによかった
 青空 いつでもここから あなたを見てる


2004年9月10日『目は口ほどに』

 「目は口ほどにモノをいう」というが、ドーピング問題を起こしたハンマー投げの選手をテレビで見るたびになるほどと思った。
「やっぱりウソじゃん」と思った。
金メダルをもらった表彰式の時から、どうも目にチカラがなかった。
自分のしてきたことへの疑いは、自分が一番よくわかっているはずで、さぞやツライことだろうと同情までしてしまう。
 おんなじようなヒトをまたテレビニュースで見た。
ブッシュ大統領だった。
共和党大会でおのれの正当性を訴えながら目が虚ろである、と私は思った。
アメリカが強いチカラで世界の平和を守る、アメリカのやってきたことは間違っていない、と泳ぐ目で叫ぶ姿に、
「やっぱりウソじゃん」と思った。
 「アオミドロ」みたいな目をしたヒトに出会ったことがある。
まだ20代の頃、酒場のピアノ弾きの仕事を終え、雑踏の中、切符が券売機からポトンと落ちた途端、横から手が伸びた。
なにするんですか、叫んでその手をつかむとホームレスのオジサンだった。
私の勢いに毛圧されたか、最初は威勢のよかったオジサンは、そのうち「こんな体じゃ働けないんだ」とぐちり始めた。
アオミドロ目が徐々に水気を帯びてくる。
もう、いいや、チカラが抜けた。
「ヒトは働いて金を得るべきである」
とホームレスのオジサン相手に説教をした私はもう、そのオジサンの年の頃である。
 先週、新しい使い捨てコンタクトレンズの購入時、カルテに「コンタクト装着期間」を30年と書き入れた時クラっとした。
痛くて拷問のようなハードレンズ、厚くてモコモコしたソフトレンズなど、「今は昔」の商品たちが思い出される。
「30年、ですね」。
店員が驚いたように確認する。
 そう、あなたが生まれる前から使ってんの、そんな昔からコンタクトってあったの、ソフトレンズにいたっては使用を誤るとこうなるって白目中に赤い血管が走っている写真まで見せられてね、まあ開発間もないから私たちが人体実験ってことらしい、すごいでしょ、と口には出さず店員の可愛い顔をみつめたのだった。


2004年8月27日『マットウな怒り』

 父親が怒っているという。
まったくトシをとるとつまんないことで怒るんだからと母親が憤慨している。
聞いてみると、まず「長嶋ジャパン」。
このネーミングが気に入らないらしい。
日本の代表チームでなんで「長嶋」なんだ、というわけだ。
確かに世の中に長嶋ファンは多いけれど、そうでない人もいるわけで、うちの父親のように長嶋ギライの人間にいたっては不愉快きわまりないということになる。
うーむ、これはマットウな怒りであると感心する。
 次に昨今の若い女の子のヘソ出しルック。
人前で恥ずかしげもなくヘソを出すなど言語道断、親の顔が見たい。
ヘソ出しどころか、後ろから見ると、お尻まで見えそうな女の子もいて、こっちがドキドキしてしまうことを思えば、今年76歳の父親の怒りは、これまたマットウな怒りといっていいような気がする。
 理不尽な怒り、というのもある。
何であんなことになったのかと後悔する怒り。
数年前のこと、スーパーのレジで順番を間違えた女性に一言注意した。
すると相手が思いがけず反論してきた。
その瞬間、目の奥がシューッとすぼまるような怒りが体を突き上げ、口からは勝手に言葉が出ていた。
「これはジョーシキですよ、ジョーシキ!こんなこともわかんないんですか!」
 当時同居していた人間との確執に疲れ果ていら立つ毎日だった。
自分の口から飛び出す言葉に自分で驚きながら、昔読んだ童話、醜い心を持ったお姫様の口から次から次へと飛び出すヘビやカエルたち、というのを思いだした。
そしてこうして憎しみは連鎖されていくのだなあ、と思った。
世界を覆う大きな「憎悪」の一端を引っ張ってしまったような重い後悔でスーパーの袋を提げトボトボ帰った。
 できることならマットウな怒りだけで生きていきたい。
マットウに生きてマットウに死にたい。
あのおっきなクジラのように。
 あ、ありゃマッコウか。


2004年8月13日『音が欲しい』

 去年の冷夏の時とはうってかわって、今年のセミは元気がいい。
窓から見える大きな木でもジンジンだのミンミンだの鳴いている。
 音楽をナリワイにしているわりには、音のない生活をしている。
一度に二つのことができないので、メールを打つ時も、新聞を読む時も無音のままである。
そうすると、こんなザワザワした都会の片隅あたりでさえ、木を通る風の音や、スズメの声、春先には…あれれウグイスの声か…ってな具合に様々な音が聞こえてきて楽しい。
 そんな私を最近落ち着かなくさせるのが、テレビ付き携帯電話のコマーシャル。
居酒屋あたりで、ケータイに映るゲームに声をあげる若者の図は恐ろしい。
それでなくても、若者の多い飲み屋は「禁区」に近いありさまの中、なおこの上、ボージャクブジン人間を増やそうというのか。
ますます生きにくくなるなあ、とため息がでる。
 そういえば、何年か前、立ち寄ったレンタルビデオ店で腹の立つことがあった。
同じ店の中、アッチとコッチで違う音楽が流れている。
そのまん中あたりに立つと気が狂いそうになり、モノを選ぶなどという知的作業はまったくできなくなってしまう。
これではかえって商売の障りにもなるだろうと、
 「ねえ、これって頭ヘンにならない」
とレジの若者に尋ねてみたところ、キョトンとしている。
どうやら質問の意味が飲み込めないらしい。
 音のナイのには慣れているはずの私だったが、一昨年の末、ちょうどクリスマスの頃、それまで住んでいた家を出て、ナンにもない部屋に越した時は悲しくさみしかった。
テレビもラジオも、もちろんオーディオもない部屋にポツンと座っていると、徐々にまわりの闇が侵食してくるようで心細い。
ああ、音が欲しい、痛切に思った。
早くいなくなればいいと思っていた口うるさいツレアイを、突然なくした亭主の気分、とでもいおうか。
ポッカリ空いたココロにこそ音は必要なのだと思ったのだった。


2004年7月30日『真っ赤な爪』

 トシのせいかミョーなことが引っかかる。
「冬のソナタ」を見ていても、ヒロインのお母さんは、なぜいつも家の中でアンサンブルを着ているのだろうとか、
ヒーローのお母さんは、入院している時もなぜ口紅が真っ赤なのだろうとか、
恋敵のお母さんの顔、その昔流行った整形の典型的スタイルだとか、
お母さんカンケイでもこれだけあるのだから、毎回飽きるということがない。
 先だって、30年ほど前の映画「追憶」をテレビで放送していたので、あの頃感涙にむせんだ懐かしさもあってチャンネルを合わせた。
若き日のロバート・レッドフォードとバーブラ・ストライザンドのラヴストーリーは「第二次世界大戦」や「赤狩り」をはさんで切なく展開していく。
 ふと、ミョーなことが引っかかった。
バーブラの爪である。
ボンヤリみていたのでいつからそうなのかは判然としないのだが、手入れの行き届いた真っ赤な爪は、指先よりはるかに長くとがっている。
政治に目覚めた「活動家」のオンナという設定にしては、どうも不似合いな気がする。
そしてその赤い爪に気づいてからは、もう目が離せない。
愛する男の背に回す時はもちろんだが、声高にスピーチする時も、出産のため入院しているベッドの中でさえ、いつもおんなじカットのおんなじ赤。
バーブラという女優を持て余す監督の姿さえ浮かんできて、もう何を見てんだかわからない。
 赤い爪で思い出すのが越路吹雪。
バーブラの爪にも似たクッタクのない赤い爪でマイクを握る姿は艶やかで華やかだった。
今のようなマット感もパール感もない、ただただキラキラと光るその爪は「時代」を映すようにまぶしい。
 今月28日、その越路吹雪が唄い踊った、60年代や70年代に想いを寄せたカバーアルバムを出した。
タイトルは「イカルスの星」。
ジャケット写真で赤いドレスを着た私の爪はというと、これがスッピンのように無色なのである。


2004年7月16日『寒い!』

 「歌い手」としてはヒマな人生を送ってきた。
そのツケがまわったというのか、ここのところひどく忙しい。
いわゆる「移動」も多い。
もうすぐ50歳を迎えようとする身にはこれがけっこうこたえる。
 今の時期、怖ろしく、また辛いのは何といっても「列車」である。
 寒い。例外なく寒い。
外が暑くなればなるほど寒い。
親の敵のように寒い。
30分くらいの近場ならともかく東京から大阪までなど、何時間ものあいだ冷気と格闘する、それだけでクタクタになる。
土気色の顔でホームに降り立つと猛然と怒りがこみあげてくる。
一体、車内温度は誰のためのものなのだ。
誰を基準にしているのだ、と引いているキャリーバックをボンと蹴ってしまったりする。
できることならそのまま投げつけてしまいたいが、それではこっちが後で困る。
これ以上悔しい思いはしたくない。
 「しのぐ」とはよくいったコトバだと思う。
襲い来る冷気にジッと息をひそめ、ノドに負担をかけぬようハンカチで口を覆い、シート深く縮こまるように身を沈める。
つくづく「しのいで」いるなあと思う。
 「乗車券、拝見いたします」、乗務員の丁寧さも、このごに及んではただただ腹立たしい。
この愛想の良さは「しのぐ」身には火に油である。
こんなのがサービスっていうのか、ほんとのサービスってのは快適な車内環境なんだよ、夏にホッカイロを持たなくてもいいフツーに息のできる車内温度を作ることなんだよ、わかってんのかテメエ、と急にガラの悪いオバサンになっている。
 今、私は大阪で乗り換えて一時間、山に向かう列車の中で「しのぎ」ながらこれを書いているのだが、夜には夜で「夜行列車」という“未知との遭遇”が待っている。
一体どうなることやら、コトのテン末を書きたい気もするが、それまで果たして無事でいられるかどうか。
こんなのアリか、クソーッ。


2004年7月2日『イヌに迷惑な話』

 おばあさんに引かれた「おじいさんイヌ」だか「おばあさんイヌ」だかの柴犬が、道のまん中で止まってしまった。
その脇をモップみたいなミニチュアダックスが通りかかり、老犬を見るとシッポを振った。
ちょっと行った所ではシベリアンハスキーとシーズーが同じ飼い主につき従い、またその先ではトイプードルが黒いラブラドールレトリバーに突っかかっている。
 そんな光景を見るたび不思議でならなかった。
どうしてあのイヌたちは、お互いがおんなじ「イヌ」だとわかるのだろう。
あんなに形態が違っていて、あるものはネコより小さかったり、仔牛ほどもあったり。
 これをヒトにあてはめればエラいことだ。
全身が黒い長毛でおおわれた、鼻のひどくとんがったヒトや、まったく毛のない耳の折れまがったヒトや、シワだらけでどこに目があるのかわからないヒトや、立つと十メートルもあるヒトや、その膝小僧ほどのヒト…。
 これで果たしてヒトは「ヒト」を認識できるものだろうか。
イヌのように鋭い嗅覚もないというのに。
 ところが、どうやらここでヒトを助けるのが「言葉」であるらしい。
まったく違う「言葉」ではあっても、それを使うのは「ヒト」でしかないらしい。
十メートルのヒトと、その膝小僧ほどのヒトが、たとえ違う言葉を話していたとしても、それを理解しようとすることこそが「ヒト」であることらしい。
 今、世界で起きている、違う肌の色、違う文化、違う宗教の間で起こる戦いは、それだからムナシイ。
そのくらいの「違い」で相手を殺してしまおうというのは、もうヒトがヒトを認識できなくなっている、わからなくなっている証明かもしれない。
そこに「言葉」はない。
 「うちの子、自分がイヌだと思っていないのよ」とは、よく聞く話だが、イヌにとっては迷惑というものだ。
ヒトなんかと一緒にされてたまるか、そう思っているはずだから。


2004年6月18日『見覚えのあるオンナ』

 夜道を歩いていると、路地裏からヒョイとオトコのヒトが現れた。
プーンとシャンプーの匂いがする。
腰まで届く長い髪にジーパンの後姿。
ア、 ナントカ君、と呼びとめそうになる。
ナントカ君のナントカってナンだったっけと考える一瞬ののち、大きな間違いに気づく。
そのナントカ君に会ったのは、もうかれこれ二十五年も前の話だ。
ナントカ君はたしかバンドのベースを担当していて、その当時「青年」だったはずだ。
小説か漫画の一コマのように、私のまわりにグルグルと時空の渦が巻き起こったみたいだった。
 こんなことが、ずいぶん前にもあって、その当時私は大学生だった。
通学の途中、地下鉄に乗り込むと、どうも見覚えのあるオンナのヒトが座っている。
だいぶ疲れているようだ。
さり気なく、そのヒトの前の吊り革にぶら下がって思い出すうち、ハタと分かった。
「私」だった。
年をとった「私」だった。
まあ、どちらの話も、単に思い込みというか、錯覚というか、その程度のものなのだけれど、しばらくの間、頭の中がクラクラとして奇妙な夢の中にいるような気になる。
人生の「禁じ手」を犯してしまったような気になる。
 こういう商売をしていると、時たま「昔の友だち」というヒトが現れて、ヒョッコリ楽屋を訪ねてくれたりする。
あるいは「昔のオトコ」というヒトも声をかけてきてくれたりする。
古いところでは小学生の時以来、新しいところでも二十年ぶりくらい、といったところか。
「ハハン、なるほど」というヒトも「エ、どうして」というヒトもいて、その来し方の様々が、あるヒトは破線、あるヒトは直線、またあるヒトは曲線といった具合にみてとれるのがおかしい。
 電車の窓ガラスに映るオンナが、その昔出会った「私」に見える時はコワい。
こんなことでなるものかと身震いし、目に力を入れる。
「私」との戦いなのである。


2004年6月4日『「親」という世間』

 やれ、テレビに出るだの、ラジオに流れるだの、新聞に記事が載るだの、といったことを、いちいち親に知らせる必要はないものと思っていた。
もちろん親戚にも友人にも、それはいえることで、モノゴトが「世間」に認知されていくというのは、別段、本人が一生懸命通知せずとも、知らず知らずのうちに耳に入ってくるもの、それがいわゆる「有名」になることだと思っていた。
 おかげさまで、こんな私でも、三年前よりは、ほんのちょっぴり認知度も上がったらしく、ばったり出会った知人に「ずいぶん、ご活躍されていますね」などといわれ、恐縮する場面も出てきた。
 そうすると、自分の娘が何を唄っているのかもわからない、あるいは行きつけの花屋さんや床屋さんの「お宅のお嬢さん、昨日見ましたよ」という言葉にビックリさせるのも、あまりに親不孝のような気がしてきて、ここのところはマメに知らせることにしている。
 「世間」というものがはたしてどういうものなのか、シカとはわからないのだが、私にとって「世間」とはどうやら「親」であるともいえそうだ。
母親が突然、「自己責任」とかいいだし、「小泉さん頑張ってる」とか「この頃、時代劇が少ない」とかいっているのを、お茶を飲みながら聞いていると、まるで「世間」そのものに向き合っている気がしてくるから不思議だ。
 「そりゃあ、ちと違うだろう」と説得したり腹を立てたりしてみても仕方がない。
相手は「親」ではなく、世間なのだ。
逆にフームと感心したり驚いたりもする。
「世間」の奥深さはタダモノではない。
 先だって、ナマで唄う番組のあることを事前にいい忘れてしまった。
当日の新聞の番組欄に名前も出ていることだし、他の誰かから教えられることもあるかも、とタカをくくって放っておいたら、放送後もナシのつぶて。
全く知らなかったという。
 まだまだ「世間」は果てしなく広い。


2005年5月21日『ヒトゴト?』

「洗顔」はそんなに必要ではないのだと、小耳にはさんでから、朝、顔を洗わなくなってしまった。
電子レンジでチンした蒸しタオルを顔に乗せプルプルとふくだけで終わり。
自家製皮脂クリームが顔に残っているのだから、わざわざ補給することもない、そのまんま。
このことを友人に話したら、あきれた顔で「クミちゃん、オンナやめちゃダメだよ」といわれた。
 合理的に思えることを実践するのが「オンナやめる」ことかどうかはわからないが、オンナがヒトゴトのようになってしまっていると感じるのがオッパイだ。
「ヌーブラ」なるものを使用し始めたことが原因。
仕事の性質上、どうしても背中のあいたドレスなど着ることも多いので、この新種のブラジャーが必需品となった。
 プルルンとした二つの固まりは、まさしくオッパイの形そのまま。
それをペッタリと自分のオッパイの上に張りつけるのだが、触り心地が、ミョーにリアルなのだ。
そして、困ったことは、これを着けた途端、もうそれが自分のオッパイであることをすっかり忘れてしまうことだ。
他人と話しながら、無意識に触っていたり、ポンポン叩いていたりする。
どうも口さみしさにガムをかんでいるのと同じ心持ちのような気がする。
 そこで思い出すのが、以前、男友だちに聞いた「究極の選択」というやつだ。
乳首はあるけれどまったくペッタンコのオッパイと、大きいけれど乳首のないオッパイのどちらがいいか。
しばらく考えた末、彼はやっぱり乳首があったほうがいいといった。
乳首がなければ、それはオッパイといえないのではないか、というのだ。
 「ヌーブラ」を着けたオッパイはオッパイもどきに変わり、たちまちヒトゴトになってしまう。
 この不思議な感覚をみんなに味わってほしいと思うのだが、男のヒトに勧められないのが何より残念で仕方がない。


2004年5月7日『怖いモノ』

 ずいぶん前、「口裂けオンナ」というのが流行った。
電車だかバスだかに乗っていると突然、同乗していたオンナのヒトの口がニューッと裂ける、というもので、当時の子供たちを大いに怖がらせたものだった。
 そんな「怖いモノ」たちも、もうこの時代には死滅したかと思っていたところ「車内化粧オンナ」というのが出現し、その不気味さ恐ろしさは子供のみならず大人をも震撼させた。
ところがここにきてまた新手の「怖いモノ」が登場したのだ。
「モノ食うオンナ」というやつで、初めて見たのは混雑した電車の入口付近。
林のように立っている他の乗客の真ん中、やはりスックと立ったまま、ひたすらメロンパンをかじっている。
ホームで、あるいは隅っこでコソコソ、というのには目が慣れていたが、そこだけ30センチ位のバリアを張り巡らせたかのように一点を見つめ、パンに食らいついている姿には、こうして描写している以上の恐ろしさがあった。
 ところが、これで驚いていてはいけなかったのだ。
そのわずか2、3日後のこと、昼下がりのスーパーマーケットをぶらぶらしていると、ちょうどカレー製品売り場あたり、商品を見ながら袋から引っぱりだしたパンをかじっている女性を発見してしまった。
ア然としながらも、取り乱さぬよう、混乱した頭の中を整理していく。
 エート、エート、「李下に冠を正さず」って諺があるよね、人に疑われることを慎むってやつ、だからこれってすごい度胸だよね、店の中で自分のパン食べちゃうんだから、でもいや待てよ、もしこのパンが店のパンだったらどうする、ヒョイと棚からパンを取ってお腹すいたからって食べちゃって、ついでにのど乾いたから牛乳も、なんて、店側だって「万引き」対策はしてるだろうけど、まさか店の中で食われちゃうなんて思ってもいないだろうし、お刺身だってリンゴだって跡形もなくその場で食べちゃったとしたら…。
どうやら世の中は大変なことになっているらしい。
もはや「常識」なんてものはないのだ。
黒と白が一気に引っくり返るオセロゲームみたいに、昨日の「常識」なんて今はクソクラエらしいのだ。
背筋がスーと寒くなってきた。
ああ、口裂けオンナが懐かしい。


2004年4月23日『分かれ道』

 「ハイ、それではここでクミコさんの曲!」
といって流れてきたのが、フニャフニャと訳のわからぬロックもどきの歌声。
何だ、こりゃ、私じゃない!と身もだえするうち目が覚めた。
目が覚めても、まだ半分は夢の中なので、あの時のあのラジオ番組では、本当に「私の」歌が流されたんだろうか、とか、収録された番組は確かに放送されるんだろうか、ゴミ箱に捨てられたんじゃなかろうか、とかロクでもないことが頭をめぐる。
 「好きな歌だけを好きなように」といえば聞こえはいいが、結局のところ「好きな歌だけ好きなように」唄える場所しか持たずに生きてきた私が、今いろんな場所に行っては、いろんなヒトたちに向かって唄えるようになった。
これはちょっとこの前まで路地裏で細々やっていた八百屋が、突然デパートに進出するようなもので、急に太ったお腹やお尻に走るヒビのようなものが、ふとココロにも出るらしい。
それがこんな「悪夢」になったりするのだろう。ナサケナイ話だ。
 つい先だって行った大阪の放送局の玄関に出演者控室の案内ボードが光っていて、そこに「円広志」さんの名前を見つけた。
円さんといえば、「飛んで飛んで…」が有名だが、その曲が生まれたコンテストに、実は私も出場していた。
世界中から集まるアーティストに混じり、日本の予選を勝ち抜いて出場する数組の中に円さんも私もいたのだった。
「日本武道館」で行われる大会を前に、日本出場組の私たちは「つま恋」で合宿生活に入った。
仲間だけどライバル、この一直線に並ばされたようなミョーな緊張感の中、私は夜になると咳こんだ。
眠っているのに眠っていない、カラダもココロもずっと微熱を帯びているような毎日。
 「グランプリ!『夢想花』!」
まぶしいスポットライトの中、ステージに上がる円さん。
「飛んで飛んだ」円さんとは対照的に「落ちて落ちた」私は、暗い客席の中から、その背中を見つめた。
その時、ひとにはくっきりと「分かれ道」があるのだと知った。
「勝者」と「敗者」の分かれ道。決して入れ替わることのできない道。
その日から私の長い人生浪人の旅が始まった。
優勝メダルを首にステージで唄う円さんの姿は、今でも懐かしく、でも「あざやかな悪夢」のようによみがえる。


2004年4月9日「居候的シャンソン歌手」

「茶目子」というのは、大正末期から昭和初期にかけて流行った歌、「茶目子の一日」から取ったもの。
この主人公は尋常小学校に通う女の子で、目が茶色、というほどの形容からすると、
よほどスバシっこく、世の中を右へ左へと駆け回るように、自由にイキイキと生きている女の子に違いない。
 できれば、私もこんなふうに生きてみたい、唄ってみたい、そう思っていた。
今回、このコラムの題名に「茶目子」を使ったのも、クルクルと目を回しながら、世の中のアレコレを見たまま感じたまま書きつづっていければ、という思いからだ。
カラダ中の皮フをピーンと張って、ちょっとの風でも逃してなるものか、くらいの気概は持ちたいものだなあ、と思う。
 かくいう私は一介の唄い手で、「シャンソン歌手」とも呼ばれたりする。
シャンソンのレパートリーも少なく、フランスにもパリにも行ったことがない人間を、はたして「シャンソン歌手」といってしまっていいのかどうかはわからないし、この呼ばれ方から必死で逃げようとしていた時期もあったのだが、この頃では、ヒトサマの家の居候でも、ホームレスでいるよりはマシくらいの気持ちで使わせていただいている。
 こんなことになったのも、昨年、私が唄った「わが麗しき恋物語」という曲が、「聴くものすべてが涙する」などという、こちらが恐縮してしまうような取り上げられ方で世の中に流れ、何をかくそう、この曲がバルバラという女性の作った美しいシャンソンだったからだ。
本当に何がどうなってどうなるのか、先のことはわからない。
 今月18日、その「居候的シャンソン歌手」の私が、大阪でコンサートをする。
場所は梅田の「シアター・ドラマシティ」。
前半では、シャンソンを日本でこれだけポピュラーなものにした、類まれなる表現者「越路吹雪」さんの曲ばかりを唄う。
そして、それらの曲のほとんどの詞を作られた「岩谷時子」さん。
シャンソンを日本の曲のように生まれ変わらせたその言葉たちは何回唄っても飽きることがない。
このお二人もまた自由な「茶目子」のようだ。限りない敬意を込めて、これらの曲たちを唄いたいと思う。
 春のひととき、ぜひぜひお運びのほど。



<<< diary contents