| 2005年12月17日『イエローカード』 |
子供の頃、ボール蹴りとしか思っていなかったサッカーが、野球をしのぐ人気スポーツになって登場した時、一番興味を覚えたのが「イエローカード」だった。 「警告」という意味を持つこのカードを知ってから、いたる所でコイツに貼ってやりたいという衝動にかられるようになった。 休日の夕方、それでなくとも狭く作られた地下鉄の車両に大きな男が乗ってきた。 ドスンと私の向かいの席に座ると、やにわに持参したスーパーの袋に手を突っこみ、 鶏のから揚げを取り出した。 ボソボソと二口で食べ終えるとまた取り出す。 またたく間に一パックがカラになった。 透けて見えるビニール袋の底にはコロッケが横たわっている。 カラアゲ男はミネラルウォーターでひと息つき、今度は別の袋に手を突っこんだ。 出てきたのはゴマ団子らしい。 一串食べ終えるごとに水を飲み、そうして三本をアッという間に平らげた。 ベタベタした指先を持て余すようにポリポリ体をかく。 これらすべてを無表情のまま淡々と行っていたカラアゲゴマダンゴ男が突然笑った。 声なくニンマリと。 その視線の先には、真新しい箱を抱えた男の子二人の、懸命に説明書を読む姿が。 フンフン、そんなもん買ったの、そんなのチョロいよ、といわんばかりの屈託のない笑いは、30代半ばの男を巨大な赤ん坊に見せた。 赤ん坊はどこでも泣く、どこでも寝る、どこでも食べる、赤ん坊はそのまんま、 外の世界など、ない。 こんなやつばかりだ。 すっかり定着した化粧オンナも、おじゃまシャガミ族も。 国民一人一人にイエローカードを配り、不快な時にペタンと貼るなんて、こりゃいいアイデアだと思ったが、いざ帰宅した時、自分の背中に山のように重なったカードを想像するとやっぱりこわい。 |
| 2005年12月3日『壊れる人々』 |
尊敬する天野祐吉さんとご一緒した時のこと。 打ち上げの席で、私の前に座られた天野さんがポツリと。 「こんな世の中になっちゃって、ボクはもうホントにいやになっちゃったよ」 つぶやきにも聞こえるその言葉に、私はうろたえた。 最後の砦を守る人がいなくなってしまう。 天野さんがそんなこといったらダメです、 私もがんばりますから、天野さんもがんばってください、 青くさい青年が援護射撃をするように、思わずいいつのったのだった。 でも確かにこの世の中は「いやになっちゃう」世の中になっている。 地震が来れば必ず壊れるマンションを作って売っていた人たちを見ても、 もうこの世の中は相当にひどいものになっていることがわかった。 しかし不思議だ。 わざわざまずいラーメンを作って客に出したいと思うラーメン屋があるだろうか。 つまらない歌を聴いてもらおうと唄う歌手がいるだろうか。 すぐに崩れる家を建てようと釘を打つ大工さんがいるだろうか。 人は良い仕事をして喜びたいと思うのである、 人はより良く生きようと思うものである、 それが人が人たる所以である、 そんなことはもう常識ではないらしい。 「矜持」なんてものはすでに死滅した言葉であるらしい。 先だって見た「平成職人の挑戦」というドキュメンタリーの中で、 山車の飾り職人がいっていた。 千人に一人、わかる人がいる、その人のために手を抜かないのだ。 モノヅクリの喜びに彼の目はキラキラと輝いていた。 手を抜かない仕事は、手を抜かない自身の人生のため。 いいかえれば人が人としてあるため。 私も思わず背筋を伸ばした。 インタビューを受ける建築士の空洞のような目を見て、 ふとあの「宮崎勤」を思いだした。 この人はもう壊れてしまったのだなあと思った。 壊れるマンションを作り続けるうち自分の中が壊れてしまったのだなあと思った。 |
| 2005年11月19日『大人の恋』 |
一年ぶりに新曲を出した。 「さよならを 私から」というタイトル。 「大人だからできる恋」などとうたってはいるが、 実のところ「恋」に大人と子供の違いがあるのかないのか、よくわからない。 ただ、作詞をした覚和歌子さんによると、 自分から潔く別れを切り出せるオンナってかっこいいと思う、というのである。 そして、クミコさんなら、さよならを自分からいえると思う、というのである。 確かに離婚は一回経験している。 以前、取材された新聞紙上で離婚2回と誤記された時は口惜しかった。 どうせなら5回くらいにしてほしかった。 とはいうものの人と別れる時に使うエネルギーは大きい。 負のエネルギーはココロにこたえる。 できるなら「お別れ」などしたくない。 覚さんには申し訳ないが、私はフラれるのが好きだ。 これからボクには大切な仕事があるからとか、 家には可愛い娘が待っているからとか、 君の存在は荷が重すぎるからとか、 そんな身勝手なヘリクツでフラれるのがいい。 あんまりバカバカしくてサッパリする。 フラれれば後を追う気はしない。 別れのエネルギーも少なくて済むというものだ。 口説かれるのも好きだ。 オレのオンナになれとか、イッパツやらせろとか、 ひと時代以上も昔のマドロスかヤクザみたいにいい寄られたら、 素直に「ハイ」といいたいと思う。 まあ、要するに「来る者は拒まず、去る者は追わず」なのだが、 その始めと終わりの真ん中が、人生の醍醐味でもあり正念場でもある。 新曲の詞にあるように 「愛しても愛してものどの渇きはつのるだけ」 のような恋愛の砂漠状態が人を鍛えていく。 すべてまるく収まらないのが世の常で、あっちにもこっちにも行き止まりのサインが見え始めた時にどうするか。 この年になってもジタバタしているのだから、恋は永遠の修業なのかもしれない。 |
| 2005年11月5日『骨になって』 |
新潟の中越地震から一年、奇跡的に救けられた男の子の、母親と姉の納骨の模様がテレビに映された。 一年たった今頃になってやっと墓に骨を納められるということで、腕白そうな男の子のはしゃぐ姿がよけいに哀しい。 でも、骨と一緒にいられて良かったね、と思った。 残された遺族の人たちが、一年の間かたわらにある骨にどれだけ話しかけ、想いをかけつづけたことか。 なされたであろう骨との対話が、少しでも慰めになっていたならいいなあと思った。 「骨まで愛して」という歌があった。 ぶ厚い唇の歌い手がなめるように唄っていた。 骨まで愛するということがどういうことか、小学生の私たちには皆目わからなかったが、 遠足のバスの中、みんなで唄った。 ホネまでえ、ホネまでえ、ホネまでアイしてほしいのよおー。 大人になるのは大変なことらしいと思った。 骨まで愛さなければ愛したことにならないらしい。 肉を愛することも知らない子供は、肉を飛び越して、骨への愛を想像した。 「焼きあがりました」という合図で、これまで何人もの人の骨を見て来た。 これこれは元のどの部分で、これこれの変色しているのが病のあった所でなどと、係員の親切な説明に、とり囲む人たちが感に堪えたように頷く。 骨壷に収めると思ったよりその骨が多かったり少なかったり。 そしてその度、またみんなは、アア、アア、と頷き合う。 この夏に亡くなった叔父の納骨は土地の習慣に従い、告別式の当日だった。 つまり、4、5日前にはこの世で息をしていた人が、4、5日後には骨になって石の墓の中に入ってしまうということだ。 ついこの前まで触っていた人が、もう永久に触れない所へいってしまうということだ。 どしゃ降りの中、納骨から戻った男の人たちのワイシャツはどれもビショ濡れで肌が透けて見えた。 叔父の息子のカラダは一段とたくましく美しい。 叔父はもうこの中にいるのだと思った。 |
| 2005年10月22日『時代の女神』 |
ミソラとミヤコを間違えて人生が変わってしまったアナウンサーの人もいたが、 それは確かにありえると、同じステージ上で、思わずミソラといいかけた時思った。 同じミの音から始まるとどうしても次の言葉がヤよりソにいきやすくなる。 でも実はそれほど緊張しているということなのだ。 「都はるみ」さんは、黒いパンツに黒いセーター、化粧気のない恥ずかしそうな笑顔で楽屋に私を迎えてくれた。 その姿はあの「都はるみ」ではなく、まるでパリの実存主義の唄い手のようでもあって私の体は少し震えた。 「クミコです、はじめまして」。 いい終えた時、体中が熱くなった。 三日間、私がホステス役を務めた公開収録の番組。 お招きするゲストの方々は皆さん、厚意以外の何ものでもないように、 忙しいスケジュールをさいて出演して下さった。 宮川彬良さん、イッセー尾形さん、そして都はるみさん。 「都はるみを聴きながら、ゲバ棒振り回してたって人が何人もいますが」 というぶしつけな私の問いに 「でも私はあの頃、好きになったひとぉー、なんてバカみたいに唄ってたんですよ」。 その瞬間、民衆を率いて戦う女神を描いたドラクロワの名画が頭に浮かんだ。 小気味よく体をひねり、腕をつき上げ、うなりを入れた独特の節回し、 その奔放さに戦う青年たちは「自由」を見たのだろう。 「都はるみ」は時代の女神に違いなかった。 そしてその女神はいつも自身が闘っていた。 闘い続けてきた。 その来し方を思い、さらに私たちは唄うために生まれてきたのよ、という言葉に、私の両眼はショボショボしてしまうのだった。 収録後、再びご挨拶に楽屋を訪れると、都はるみさんはまた黒の上下の、静かな水面のような人に戻っていた。 |
| 2005年10月8日『みんな生きている』 |
以前、ステージで鳥羽一郎さんとご一緒した時のこと。 「クミコです、よろしくお願いします」 「あ、う、どうも」 という感じの対応にすっかり魅了されてしまってから、 鳥羽という所には、こういう純朴な男らしい漁師のような人がたくさんいるに違いないと思い込んでしまった。 その鳥羽にいった。 船の上で唄うという初めての仕事、翌朝には船はもう鳥羽沖に留まっていた。 通船に乗り岸壁に向かう。 下船しウロウロしているとオジサンが話しかけてきた。 どうやらどこかの客引きらしいが、私たちが逆にコンビニどこですかと尋ねると、 ウッとつまりそれから 「エート、あっちに三百メートル位行くとあるよ」 と何だか照れくさそうに教えてくれる。 コンビニでケータイの電池を買い、目当ての鳥羽水族館に向かう。 2400円の入場料は高いと文句をいい合っていたのに、中に入った途端、海の生き物たちのトリコになってしまった。 チョコマカ動く魚やモワンと浮かぶ怪魚や、ここの目玉らしいラッコやジュゴン、アザラシや海亀や、はたまたメダカやヒトデやクラゲやヤモリや。 この地球で生きとし生けるモノはすべて神々しい。 神様は何ひとつ無駄には作ってはいないと確信する。 動物園もそうだが、水族館でも色々な生き物を見て回るにつれ段々と謙虚な気もちになってくるのが不思議だ。 いたる所に「哲学者」がいるせいかもしれない。 じっと動かないミシシッピーワニやヒキガエルの姿には、もう「哲学者」としかいえない風格が漂っている。 ハア、おみそれしましたと頭を下げてしまいたくなる。 ぼくらはみんな生きている、と鼻歌まじりで水族館をあとにすると、船着き場近くの看板の下あたりで、あのオジサンが腰かけていた。 私たちを見るや、ちょっと恥ずかしそうに目をそらすオジサンの顔は真っ黒に日焼けしている。 やっぱり鳥羽の男に違いなかった。 |
| 2005年9月24日『人生は片道』 |
井上芳雄さんのコンサートにおじゃました。 井上さんは今年26歳、ミュージカル界のプリンスともいわれている人だ。 芸大出身という確かな技術に裏打ちされた天性の美声と、ペパーミント系の爽やかハンサム。 客席はさまざまな年齢の女性でいっぱいだ。 井上さんが私のオリジナル曲「わたしは青空」を唄ってくれていると聞いてはいた。 そしてステージでもパンフレットの中でも、彼はこの曲への想いを熱く語ってくれていた。 東京の東武伊勢崎線で起きた踏切事故で彼の近しい人の奥さんが亡くなられたこと、 この曲を聴いて、先に逝ってしまった人の想いを自分も唄いたいと思ったこと。 うれしかった。 親子ほど年齢の離れた人に子供のように育てた「うた」を唄ってもらえたことで肩の力が少し抜けた気がした。 「うた」と「ココロ」を次の世代に手渡せたような気がした。 26歳の私はジタバタしていた。 もしかしたらスターになれるかもなどとチョロく夢見たコンテストにも落選し、 やることも、やれることもないまま人生浪人を始めていた。 親と同じ家にいることがどうにも不自然に思え一日も早く出ていけることを考えた末、 八方円満な方法「結婚」を選んだ。 相手も同じ夢破れた仲間、よっしゃこれから心機一転、二死満塁逆転ホームランを狙うのだと、新たにバッテリーを組むような気もちだった。 けれど目を見張るような一発は出ぬまま何年も過ぎ、気がつくと相方はいなくなっていた。 終演後、濃紺のガウン姿で現れた井上さんは、びっくりするほど背が高く、やせてはいてもたくましい青年だった。 たとえどんなにお金や名誉があっても若者にはかなわない、 だって彼らには「時間」があるからといった知人の言葉を思い出した。 でも若い時に逆戻りしたいとは思わないなあ、 こんな大変な人生もう一回やり直すのはまっぴらだ、 人生は片道に限る、深いため息と共にそうつけ加えたのだった。 |
| 2005年9月10日『イマジン』 |
「黒人だとなぜブッシュはすぐに助けないのか、どうも怒りっぽくなって困る、年のせいか」 というメールが来た。 いやいや年のせいではない気がする。 すぐさま救援物資を、と日本の高官がいうのを見て不思議な気がした。 だってアメリカじゃない、スマトラじゃないじゃない。 アメリカって世界一お金持ちじゃない。 子供の頃、まだテレビが白黒だった頃、アメリカから来るホームドラマに私たちはため息をついた。 フカフカのソファ、おっきな犬、冬でも一枚だけかける毛布、ガラス瓶から注がれるまっ白な牛乳、庭で揺れるブランコ。 プルプル弾むベッドにも驚いた。 ちょうどその頃私の家には居間はソファとして使えるという組み立て式のフランスベッドがやって来た。 でもどうしてもテレビドラマのように弾まない。 ピョンピョンはねてみても、何だか違う。 親に聞いてもわからない。 1960年代に入ったばかりの日本にアメリカの「豊かさ」の想像はできなかったのだ。 前回のアメリカ大統領選挙の時、ブッシュを支持するというアメリカ南部、 普通の家庭の主婦のインタビューを見た。 まだ若い彼女たちは屈託のない笑顔でいった。 確かにイラクで殺される人たちはかわいそうだけれど、仕方ないわ、だってむこうが悪いんですもの。 彼女たちの広い家の周りでは明るい陽光の下、木がそよぎ鳥がなき風が穏やかに吹いていた。 ある日突然、それまであった家がガレキになり、村中が死に絶える生活が、 今別の国にあるのだと、まったく想像もできないという晴れ晴れとした笑顔だった。 イマジン、想像する力、 これしか人と人がつながる道はないように思う。 人が人を救える道はない気がする。 大体がモノをたくさん作って使って、 それで何でもうまくいくなんて想像力のなさが、こんな地球にしちまったんだ、ベラボーめ! 年のせいか、私も腹の虫がおさまらない。 |
| 2005年8月27日『ウソの中のマコト』 |
試写会はこわい。 特にその映画についての文章を後日寄せねばならないなどという時はなおさらだ。 ギリギリにトイレに行っても、上映後しばらくするともうナンダカという不安な感じになってくる。 ワンシーンとて見逃してはならぬと思えば思うほど益々不安になってくる。 試写会場が小さい特殊な場所であればもうそれは「監禁」といった趣で緊張は一気に高まる。 そこへいくと、先だっての新聞販売店のサービスによる上映会などは気楽なものだった。 真夏の昼下がり、三々五々集まってくるお客さんで大きなホールは一杯だ。 北海道開拓をテーマとした内容のせいか年齢層も高め。 ところが始まってみると色が変だ。 全体がくすんだトウキビ色をしている。 音も悪い。 ワンワンしていて、響きのある男優の声など何いっているんだかわかりにくい。 でもまあタダだからねと、それぞれが納得するうち物語は進んでいった。 どうも大作らしいとは知っていた。 これだけの俳優を集めて大作でなければ困るだろうと思っていた。 そしてそれは確かに大作のようではあった。 二時間半余りの間、時々は目頭が熱くなったり、北海道に住む友人を思い尊敬したり。 が、終盤に近づくにつれどんどん居心地が悪くなってくる。 お尻がムズムズしてくる。 主人公の母と娘が手を取り合い大空にむかい「希望」といった時には、正直逃げ出したくなっていた。 これって何かに似てる。 昔よくあったプロレタリア風芝居、あるいはなぜか偶然が重なって大団円を迎える二時間テレビドラマ。 西日の当たる帰り道、表現することの難しさを思った。 言葉は悪いが、歌も映画も芝居もしょせんは虚構(ウソ)、だましてナンボってやつなんだろう。 ウソの中でどれだけホントを見せられるかが勝負。 そのウソがバレるほど居心地の悪い不幸はない。 演者にとってもお客にとっても。自戒。 |
| 2005年8月13日『根なし草』 |
セミが一匹、ジジジーと鳴いてピタリと止まった。 私の住む場所では夏のセミもせいぜいがこのくらいのものなのだろう。 夫がいた頃は、夏休みのたび夫の生まれた家に帰っていた。 神戸の異人館の立ち並ぶファッショナブルな街、ところが朝の5時になるとジンジンジンと爆発するようなセミの鳴き声で飛び起きた。 本当に待ってましたとばかり一斉に鳴き始める。 セミは庭の木のどこにでもいるようだった。 セミが木になっているようだった。 夫の家は戦前に建てられたもので、重厚な木造のその二階は、 夜になっても一向に温度が下がらない。 夫の部屋だったという一室でそれこそ汗の中、ほとんど眠れず迎えた朝のセミの鳴き声は、 ひ弱な私を笑っているようだ。 隣にいる夫は東京と同じようにぐっすりと眠り込み、 その姿に呆然としていた私も翌日にはたくましく眠ってしまっていた。 前夜洗って手で絞っただけの下着がカラカラに乾いて揺れている。 という訳で、その家にクーラーというものはなかった。 開け放たれた窓や縁側から風が通り抜けるだけ。 庭に面したおばあちゃんの部屋からは、毎晩聖書に関するラジオが静かに流れ、 セミの鳴く頃はもう祈りの時になっているようだった。 違う場所の違う生活、夫のせいでそれを経験できたことは幸せだった。 なるほど、こういうのを地に足が着いた生活というのだと思った。 私はといえば、若い頃地方から東京へ出てきた両親の下あちこちと居を移しながら育ち、 いつのまにか根なし草の感覚を持つようになっていた。 どこの地にも足が着いていない。 どこにいても「仮」という気がする。 あげくは人生そのものが「仮モノ」と思えてくる。 震災があった翌年、夫だった人の家の前に立った。 石の塀が少し崩れていたものの家はしっかりとそこにあった。 深く一礼した。 |
| 2005年7月30日『人生ウマくは…』 |
すれ違いざまに女の人が「ア」とつぶやき、私の顔をまじまじと見る。 どこかで会った人だったか、はたまた私が唄い手であると気づいたのか、 と思ううち「ひたいのあたりから光が出ています」という。 続けて「あなたには今、転機が来ています」。 なるほど、そういうことか。 あいまいな笑顔で通り過ぎる私に、ぜひこちらにお越し下さいと電話番号を書いた紙を渡した。 こんなことが続いたので、帰宅してから鏡でおでこのあたりを確かめたりしたのだが、 どうやら知り合いのシャンソン歌手の人もまた、そういう目にあっているらしいと聞いた。 50歳を過ぎたシャンソン歌手がみんなこの手の人たちに狙われやすいわけでもあるまいし、 初めてこんな風に声をかけられた時はまだ30代、それも美容院帰りだったことを思い出しても、どういう基準で声をかけるのか、逆に聞いてみたい気さえする。 未来は不安だ。 生き続けることも、その先のことも、世界のことも、地震のことも、みんな不安だ。 こんな時、モノゴトをきっぱり言いきってしまう人に、人は心ひかれるものらしい。 その人が占い師や霊能者であったりすればなおさら。 傍若無人な発言に怒るどころか拍手喝采する。 そのサマは、ちょっと前に世間を騒がせていた野球監督婦人の場合と似ている。 近年人気者とされる占い師と、その夫人とどこが違うのか、 これまた教えてほしい気がする。 人はみんな弱い。 弱くてグラグラ揺れている。 自分にはいい事ばっかり起きてほしいし、回り道なんてしたくない。 モノゴトはきっぱり直線で効率よくこなしたい。 余計な心配も労力も使いたくない。 そーんな、うまくいきませんぜダンナ、 そんなことこれまでの長い人生でイヤっちゅうほどわかってるでしょうが。 また天の声が…。 |
| 2005年7月16日『ステキな人生』 |
コーヒーショップの窓から見える笹竹に短冊がいくつも下がっている。 「病気が治りますように」−ふむふむお大事に。 「借金が早く返せますように」−こりゃ大変だ。 「ステキな人生になりますように」−なんだこりゃ。 子供の頃からミョーなことに引っかかる性格(たち)だった。 ある時大人と一緒にテレビの時代劇を見ていて胸が痛くなった。 主人公のサムライがバッタバッタと敵を斬り倒すシーンである。 バッタバッタと斬り倒される人たちのことが気になった。 この人の家には小さな子供がお腹を空かせて父親の帰りを待っているかもしれない、 故郷には病気の母親が寝たきりになっているかもしれない。 この人はちっちゃい頃どこかの小川でトンボとりをしていて川にはまったかもしれない、山道に分け入ってウサギを追いかけていたかもしれない。 そしてこの人もあの人もきっと、こんな風に虫みたいに殺されるために生まれてきたわけではない。 未来も希望も持った人生を生きてきたはずだと。 こうなるともういけない。 網戸の網目とおんなじで、ナイものとすべき「その他大勢」の人生で頭の中がいっぱいになる。 今朝も若き日のマツケンに斬られる人たちに同情を禁じ得なかった。 将軍様と知りながら、いわゆる上司の「斬れ斬れ、斬ってしまえ、殿でもかまわぬ」というメチャクチャな命令の下、ただ斬りかかり当然のごとく返り討ちにあって果てる。 これじゃ何のためのサムライだかわからない。 あの世にいっても浮かばれない。 こういう人生はやだなあ、子供の時にも思ったものだった。 それにしても「ステキな人生」ってどういうもんなんだろう。 なぜか「ステキな人生」と書かれたピンク色の小箱が連想される。 やっぱりピンク色のリボンを解くと箱の中からはヘビだのカエルだの。 パンドラの箱じゃないんだからと箱の底を見ると「ハズレ」。 こんなとこかもしれない。 |
| 2005年7月2日『神に捧ぐ歌』 |
やっと見られる、と思ってビデオをセットするが 待てど暮らせど映像が現れない。 まさか、ビデオデッキを覗くと肝心のカセットが入っていない。 空回し録画をしていたということだ。 6月24日は美空ひばりの命日。 それに向けて様々な番組が作られていたが、 私が見たかったのもその中の一つ。 ドキュメンタリー風のもので、 若くして貫禄を身につけるにいたったのはなぜか、 みたいな新聞の紹介記事に、これはぜひとも見なければならぬと思っていたのだ。 需要と供給のバランス、という言い方をするなら、 私などはまさに需要のない唄い手に違いなかった。 たまにやるコンサートでもせいぜいが百人程度。 つまり世の中で私の歌を必要としている人間は百人ということになる。 通常の小さなライブハウス、いわゆるシャンソニエでは10人に満たない日もあった。 ウソかホントかお客が少なくなったので美空ひばりが唄いたくないといっている、 と聞いたのはいつだったか。 暴力団がらみの強いバッシングの少し後だったか。 美空ひばりは常に求められる唄い手だった。 あっちでもこっちでもお腹をすかせたヒナ鳥のように 民衆は美空ひばりを求めていた。 求める人に求められる歌を唄い続けること。 何千回も唄っている曲を決して崩すことなく 「楷書」の形で唄い続けることの難しさを思っても、 彼女はきっとお客の向こう側に「神」を見て唄っていたに違いない気がする。 いや、もしかしたらお客の形をした「神」たちに歌を捧げていたのかもしれない。 その命日、久しぶりに唄うシャンソニエで私はグチャグチャになっていた。 歌詞が出てこない。 ああ、これだからあの番組が見たかったのに、 見て美空ひばりの強い精神力の爪のアカでもと思っていたのに、 と悔やんだ。 いやこんなことで悔やんでるから何万年たっても美空ひばりになれないのだ。 |
| 2005年6月18日『カッコいい?』 |
ケータイメールが鳴った。見ると友人夫婦から。 「今見ているテレビ番組に化け物みたいな人たちが出てる」というのだ。 続けて「どうして年相応の人がいないんだろう」とある。 チャンネルを合わせると、それは懐メロもののようで、 私が学生だったころ流行った歌たちを、その歌手本人が次々と唄っている。 年相応かあ、なるほど登場している人たちにはやっぱりどこかムリしてる感じがある。 服装、髪形、化粧、といわゆる「若づくり」ってことなんだろうが、 久しく唄っていなかったムリのせいか、 「あのころ」に戻るためにとりあえず姿形だけでも戻してしまえ、 といったムリが何だかとっても困ったことになっているらしい。 以前、駅で人待ちしていたら、三人の親子がやってきてやはり人待ちをしている。 中学生くらいの女の子を連れたそのお母さんの姿に困ったなあ、と思った。 ジーパンの上にヒラヒラのスカートをはいている。 若い女の子がよくやっているスタイルだ。 若い女の子がやってもけっこう難しいファッションを、 このお母さんはなかなかうまくこなしているのだが、 やっぱりこれは困ったなあ、と思った。 若い娘さんを持つ母親によくあることだが、突拍子もない姿のオバサンというのは、 これまでにもたびたびあった。 若い人がしていることが流行、つまりカッコいいことだと思ってしまっているのだろう。 こういう人たちを見るのは居心地が悪く哀しい。 これまでそれぞれに積み重ねてきた大切な人生を何の役にも立てていないようでもどかしい。 かけがえのない時間をドブに捨て去ってしまっているようで切ない。 腰ではく、いわゆるローライズのジーンズのジーパンをはいていたら、どうも背中がスースーする。 うかうかするとおヘソまで見えてしまう。 「だあれも見たくないよ、そんなもん。」 天の声が聞こえた。 |
| 2005年6月4日『生きている?』 |
横浜でのコンサートを終え、翌早朝に福岡県の大宰府天満宮に向かう。 空港からの車の窓からの景色に、一体今自分はどこにいるのかフッとわからなくなる瞬間がある。 やっぱり北海道、北の大地だけのことはあると、ひどい錯覚までしている。 ほとんど寝ていないせいだけではない気がする。 自分のことを「芸能人」と思ったことはないが、大ざっぱなくくりでいえば当然そうなるわけで、それぞれの地方の主催者の方々にとっては「東京から来た芸能人」となる。 その「東京から来た芸能人」の中で、昨年福岡に来た何十人中、一番芸能人らしからぬ芸能人ナンバーワンになったときいた。 名誉なことか恥ずべきことかよくわからないが、あまりにフツーな私のいでたちは、時としてバンドメンバーを私と思ったか、彼女の荷物をいち早く持つ人がいることからも、何かしらモンダイがあるように感じてもいた。 若い頃には考えもしなかったドレスを今はステージで着ることが多い。 ドレスで唄うなんてオバサンのすることだと意気がっていた若い女も、その後きちんとオバサンになりドレス姿で唄っている。 ドレスの効用、利便性など今では充分納得ずみなのだが、その反面、ステージ以外の服装がどうでもよくなってしまった。 緊張をしいられる服装はしたくない、目立たなければ目立たないほどいい。 スポットライトの中、時に深呼吸をする。 緊張の中の深呼吸は、ああ今確かに生きているんだと確認する一時でもある。 客席にある何百という人生と私の人生が交差する濃密な時間は、それこそ先人に「ステージで死ねたら本望」といわしめる魔力に満ちている。 横浜と大宰府のステージで「生きている」実感を味わった帰路、羽田に着くともうここはどこだっけと考えた。 服装同様、アタマの方もどこかユルんでいる気がする。 ステージで死ぬどころか、そのへんでコケて頭でも打って終わり、てなことにもなりかねない。 |
| 2005年5月21日『ヘコタレナイ』 |
コンサートにおける「失敗」、いいかえれば「失敗」とされるコンサートというのは、大体においてそんなには、ない。 一応プロたるもの体調が悪くても失恋しても、それなりに何とかまとめ、まあ、そんなに良くはなかったけど悪くもなかったとか、思ってたより面白くなかったとか、このあたりが限界かもねこの人は、とかせいぜいこの位の評価をお客様からいただく程度であろう。 ところがどうみても「失敗」とされるコンサートをしてしまった。 オイオイそんなこと自分からいってどうする、とオロオロする人達の顔も浮かぶが、これは「失敗」といい切らないとどうにもならない。前に進めない。 それに、歌詞やトークが聴きとれなかったコンサートを「失敗」といわずして何と呼ぶのか。 先月末、有名なクラシックホールでのコンサートには実に2千人近いお客様が来て下さった。 これまた有名なオーケストラからの20名余りの方々の響きに乗せて、まるで天国にいるかのような至福の時を、そのお客様方に提供するはずだった。 自身もまた、不慣れなクラシックスタイルの中で格調高く、ああやっぱりクミコさんの歌は弦楽器にピッタリね、などと称賛されるべく努力したつもりだった。 そしてすべては一年以上も前からの大切な大切な企画だった。 こうして「だった」は延々とため息のように続くのだが、今回、自分の力だけではどうにもならない「失敗」があることを知った。 そして責任の所在を追及することがどれだけむずかしいかも知った。 色々な要因が複雑にからみ合った「失敗」は、たとえば戦争の原因と責任にも似てモノゴトの成り立ちのむずかしさを教えてくれた。 「悔し涙」を初めて経験した私だが、ここはこのところ登場の機会のなかった座右の銘にまた出てきてもらおう。 「ヘコタレナイ」。 こういうことです。 |
| 2005年5月7日『「クミコ」が気になる』 |
「ミセスクミコ」という名のアジサイがあるらしいと聞いた。 ホントかなあと思って歩いていると、近くの花屋の店先にピンクとオレンジがほどよく混じり合った大きなアジサイの鉢が置いてある。 あまりの見事さに近寄り名札を見ると「ミセスクミコ」。 それからアジサイが気になって仕方がない。 これまでこの花は私にとって一番キライな花だった。 一年中で一番イヤな季節「梅雨」の到来を知らせる花、みんなで仲良く楽しくやっているのに、その人が来ると何だかすっかり面白くなくなってしまう、という類の人のような花、ややこしいが、まあそういったもんだと思っていた。 よりによってそんな花に自分と同じ名前が、でもミセスがついているからなあと、安心していたのだったが、先だってデパートの花屋で見つけたアジサイには「クミコ」とだけ書いてある。 それも初めに見た美しいものとは天と地ほどのみすぼらしさ。 ああ、こんな姿になってしまって、きっと水遣りや場所が悪いに違いない、管理に問題がある、かわいそうにと、もう他人事ではなくなってしまっている。 それ以後は、日々色あせていくこの花が気になって、どうしてもその店先を通ってしまう。 もうこれじゃ売れないなあ、とあきらめた日はさみしかった。 それにしてもアジサイが、こんな風に自分の人生と関わってくるとは想像もしなかった。 そうこうするうち今度は「クミコの幸せ」というお菓子があるらしいと聞いた。 ほうっておける名前でもないので、早速調べてみると、ある。 梅をベースにした「グミ」らしい。 なるほど、父も母も梅で有名な水戸の出身だしと、不可解な納得。 たかだか名前ごときでと思うのだが、これも斉藤久美子、高橋久美子、高橋クミコ、クミコと、まるで魚のように変遷してきた「唄い手人生」と、それに関わる様々な人への想い出のなせるワザ、とでもいうべきものかもしれない。 |
| 2005年4月23日『「高田渡」という光』 |
高田渡さんが亡くなったという。 フォークシンガーの草分けとして有名な、といってもそんなに彼のことを知るわけでもない私だが、独特な「間」のある歌と生き方に、いつもマイッタなあ、と思っていた。 初めてライヴを聴いたのが浅草。 たまたま行った浅草でたまたま通りかかった建物の入り口に「高田渡」の看板。 赤い提灯が列になって下がる古いホールの中、高田渡さんが唄っていた。 「エー、まあ酒飲んじゃダメだって医者にいわれてるんですけどねえ、エーでもねえ」と足元に置いてある缶ビールをグビッとやる。 体の具合が良くなさそうなことは、その姿を見てもわかるのだが、この人の飲むビールは実にうまそうで、うまいと思っているのなら体に悪いはずがないと、もう訳がわからない。 「エー、去年なんかねえ、収入なんてなくってねえ、12万だったかなあ、でも今やってるシチューの会社からシチューどっさり送ってきてねえ…」。 ちょうどその頃、シチューのCMで高田渡さんの歌が流れていたのだ。 これを聴いた時、いったいこの人は何者なんだろうと思った。 どうもタダモノではないらしい。 案の定、高田渡さんはタダモノではなかった。 タダモノどころか怪物だった。 怪物はすべてのモノを飲み込んでしまう。 それまで一生懸命考えてこう生きてこう唄ってるんですけど、なんていってる間に飲み込まれてしまう。 もう台風か宗教みたいで、うかうかしていると高田渡教の信者になりそうで怖かった。 見守る観客の中、マイクの前で酔っ払って眠ってしまった高田渡さんの姿を思い出して、まるで一本のろうそくみたいだなあと思った。 おっきな強い光じゃなく、でもあったかい身の丈に合った光で周りを照らす。 エー、もういいやってことでと、それを吹き消す高田渡さんのニヤッとした顔が浮かんだ。 |
| 2005年4月9日『だってナマモノだもん』 |
“キロク”はやだなあ、モノは消えていってもらうほうがいいなあ、と思っていた。 でも歌を唄うという職業で、キロク物が残っていくのは当然、その時々にはできる限りの努力をしたキロク物が、後から聴けば聴くほど、悔やみ、空しく、怖ろしく、まるで四面を鏡に囲まれたガマのごとくになる。 クミコさんはやっぱりライヴが一番ですね、とはよくいわれていた。 耳だけからよりは、表情も動きも加わるのだからヘタッピーでも三割増し、決して誉め言葉とは受け取らず、ましてそれを公の形にする日が来ようなどとは思ってもいなかった。 ところが今月6日、生まれて初めてのコンサートライヴCDとDVDが同時発売された。 昨年11月に東京・渋谷で行ったコンサートをキロクしたもので、その一部は昨年末にNHKの衛星放送でも流されている。 「MC(曲と曲の間のおしゃべり)、ほとんどカットされているんだね」、一足先にDVDを見た知人が言った。一枚の中にすべてを押し込むんだからそりゃそうかもと思うと同時に「やっぱり」。 キロクしているのだから、少しは気をつけてしゃべればいいものを、そんなことおかまいなし。 お腹をポンポン叩いては「今いくよくるよ、みたいですね」とか「次の曲は『黒い鷲』です、『黒イワシ』ではありません」とか。 どうしてクミコさんはそうなんですか、と嘆くディレクターに申し訳ないと思いつつ、だってナマモノなんだもん、お客さんも私も、と心の中で居直っている。 予定調和ができるくらいだったら、そりゃライヴじゃない、一期一会こそがライヴの面白さ真髄である、と言い切ったところで、さて来週13日には大阪・シアタードラマシティでのコンサート。 今回で二回目。 平日にもかかわらず多くのお客さまが来てくれそうである。 桜の季節、イキのいいナマモノをお見せできるようまずは深呼吸、フーッ。 |
| 2005年3月25日『ケセラセラ』 |
「集団」が何より苦手で「集団」と名のつくモノには一切関わらないようにしていた私が今「合唱団」にいる。 「神楽坂女声合唱団」という名で、料理研究家の小林カツ代さんが「六本木男声合唱団」の向こうをはって作られたものだ。 小林さんとは、私がパーソナリティをつとめていたちっちゃなラジオ番組で知り合った。 思えばこのローカルな番組にそれこそビックリするような方々がゲストで来て下さった。 そしてその何人かの方とはその後もお付き合いさせていただいているのだから、人の縁というものは不思議なものだ。 食べ物にはそれぞれその時々の素晴らしい「生命」があって、それを私たちはいただいているのだと、マイクの向こう側で大根を切るような手つきで語る小林さんの言葉に私は一瞬ウッとつまって、それから涙がポロッとこぼれてしまったのだった。 それを見ていて下さったのかどうか、終了後その合唱団に誘われた。 そうそうたるメンバー。 政治家、医者、経営者、作家、女優など尻ごみするようなキャリアの方々の中に、はぐれた鳥のようにおそるおそる入ってみたら、案外と居心地がいい。 つかず離れずの程良い距離感を誰もが大切にしているせいらしかった。 先日、何人かでおしゃべりをしている時、ふと地震対策の話になった。 んなもん用意なんかするわけないじゃない、どこにいるかわかんないだから。 誰も水も乾パンも備えていないという。 ケセラセラの集団であるらしいことがわかった。 もちろん私もその類の人間なのだが。 「人間先のことはわからない」、神戸で地震が起こった時思った。 それ以前夫だった人が神戸の人で、東京から移り住めば一生大地震なんかにあわずにすむ、そう信じていたのだ。 そして今回の福岡。 誰も予想などしてもいない場所。 やっぱり先のことはわからない。 ケセラセラなのだ。 |
| 2005年3月11日『点滴』 |
唄い手殺すにゃ刃物はいらぬ、てなわけで声が出なくなることが何よりも怖い。 今の時期だと風邪。 どんな場所にもマスクで顔半分を隠すスタイルで出かけるのだが、モノを食べる時だけはどうしようもない。 ゴホン、ゴホゴホ、いやなセキをしている人が隣のテーブルに座っている。 セキをしながらピザを食べている。 やばいなあ、と思ったら次の日にはどうもおかしい。 よりによってレコーディングの日だ。 いわゆる「本チャン」ではなく「仮うた」だからいいようなものの、それでも思考能力は完全にゼロ。 おたまじゃくしは重なって見えるし、クミコさん、どうですかここと尋ねられてもフガフガ頷いている始末。 こんな時必ず連れていかれるのが点滴だ。 ギョーカイご用達ともいうべき即効力を誇るこの医者に、去年の冬は何回通ったことか。 東京青山表参道という一等地に居を構える医者は、少し笑ったキツネのような顔で今年もまた私を迎えてくれた。 カンコンといろんなアンプルの首を落としてはビニールの点滴袋に流し込む。 先生、少しおやせになりましたね、などと軽口を叩いていられるのもここまで。 とにかく痛い、苦しい。 去年はビタミンCが入り始めた途端悶絶した。 あまりに苦しいので医者にそういうと、何だ早くいってくれればいいのにと点滴スピードを遅くした。 今年もまた息も絶え絶えに苦しいというと、今日はクスリを倍入れちゃったからなあ、という。 風邪が辛いんだか点滴が辛いんだかわからない。 一時間後フラフラと外に出た時には、二度と風邪などひくまいと固く決意している。 点滴がそんなに体に合わないっていうのはクミコさんに「野性」が残っているってことよ、キムチを食べながら友人がいう。 どういうわけかその瞬間、人里に下りてきたため麻酔銃で撃たれ口から泡を吹いている熊や猪の顔が浮かんだ。 |
| 2005年2月25日『鉛色の怒り』 |
ヒトはヒトを傷つけてはいけないこと、ヒトはヒトの命を奪ってはいけないこと、これだけが親が子に、あるいは学校が子供に教えることのすべてだと思っていた。 結局このことだけがヒトとして一番大切なことなのだと思っていた。 新聞を開くたび気持ちが暗くなるなんてよく聞く話ではあるが、まさしく今の私もそうだ。 遊ぶ金欲しさにヒトを脅し、揚げ句殺してしまう、この前まで可愛がっていた子供を、同居相手ができた途端うとんじ殺してしまう、こんなニュースが本当に「日常茶飯」になってしまった。 ココロの中が鉛色になっていくようで、ああこれはカンケーないこと、こんなの私とはカンケーないんだからと思おうとすればするほど、今度は体中がどんどん鉛色に侵食されていくようでオタオタし力が抜けていく。 この世に生きていく意味、生きている意味など何もないような気さえしてくる。 先日、友人が怒った。というよりキレた。 青ざめた顔で怒りの言葉を投げつける姿と、冷たく凍りついていく空気は、どうにも悲しかった。 たしかに怒りの理由は本人にとってマットウなものではあるが、だから余計に感情をそのまま撒き散らすことの危うさを思った。 目の前が真っ白になる怒りというのはある。 でも真っ白な時だからこそ、もっと周りをよく見なければならないのだろう。 吐いた言葉の行く先のこと、それを受けとめる人たちのこと、そして結局は自分自身のこと。 後で一番シンドくなるのは他ならぬ本人なのだから。 「怒り」はヒトとヒトを繋ぐ、分子構造の「手」みたいなものとスパッと切ってしまう。 元通りまた繋ぎ合おうとしても、なかなかうまくいかない。 ただでさえ気持ちの弱くなりそうな時代だからこそ、ここはもっと力強く手を繋ぎ合いたいと思うのはいい年をした大人のいうことじゃないんだろうか。 なんだか悲しい春だ。 |
| 2005年2月4日『長い髪』 |
待ち人がなかなか来ないまま、ビルの上を何気なく見上げるとそこにはガラス張りの美容室が。 愛想のいい男の人が女性客の長い髪をブローしている。 そういえば私もあんな髪だったこともあったなあと懐かしくなる。 大学の頃は「桃井かおり」を気取り、両側にかかる髪の間から斜めに顔を出しウツロな目つきをしてみたり、カーリーヘアのヒッピーもどきの時はギザギザとつっぱって歩いてみたりした。 まっすぐか縮れているかの違いはあるが、まあ基本的に「髪の長い女の子」ということだ。 若い時というのは頑固で臆病なものだから、その長い髪をバッサリ切るには、それなりの勇気や動機が要るのだが、私の場合は、たまたま飛び込んだ美容室の「事故」からショートヘアとのつき合いが始まった。 「この髪にしてください」と壁に貼られたパリジェンヌ風の写真を指し3時間後、鏡にはまぎれもないオバサン頭の私が映っていた。 どこをどうすればあの写真からこの頭になるのか教えてほしいと思ったが、切ったものが元通りになるわけもなし、これは「運命」なのだとあきらめるまでの焦りと苦しみは、その美容室をボーゼンと出た足ですぐさまカツラを買ってしまったことからもわかる。 ところが人間というのは不思議なもので、オバサン頭でもカツラ頭よりはやっぱり自分らしい。私らしい。 仕方なくそのままでいることにした。 こうしてすっかり観念した後は、ひとつの「カセ」がなくなったように頭も心も軽くなり、ある時は刈り上げ、またある時は緑色に染め親からカエルと嘆かれたりと様々なことがあったが、今までは心底あの美容室に感謝している。 あの「事故」がなかったらもしかして今だに長い髪にこだわっていたかもしれないのだ。 振り返るとこんな「事故」みたいなことで人生は紆余曲折するのかもしれない。 まさに「人生ゲーム」。 アガりがさっぱり見えないのも似ている。 |
| 2005年1月7日『ココロとコトバ』 |
ディナーショーをやるようになったら「唄い手」ももう終わりだと、若い頃思っていた。 金に魂を売り渡した証、とも思っていた。 そのディナーショーを一昨年は2回、昨年は大阪のみでの1回を終えたのだが、魂を売り渡すどころか、魂なしでステージに立てるもんなら立ってみろと、訳のわからぬ怒りがこみ上げるくらい、これはこれで奥深くむずかしいものだった。 若い頃というのは本当に頭デッカチなもんである。 飲んで食った後だから、などと侮ってはいけない。 客席は一様に華やいではいるものの、ステージが始まるとそれこそ息を詰めるように次々と「うた」たちを吸い込んでいく。 通常のコンサートとまるで同じだ。 私の「うた」の場合、いわゆるノリで聴かせる曲がほとんどないので、ひとつひとつのコトバに気持ちを乗っけ、それをひたすらお届けするという、極めて緊張を強いられ強いる展開になってしまう。 こんな緊張するショーにわざわざ来て下さるお客様にはただただ感謝するばかりだが、終了後のサイン会で一人の女性がいった。 「愛の讃歌」、オリジナルの歌詞で唄ってくれないんですね、普通のシャンソン歌手になってしまってガッカリしました。 がっくりと落とした肩で去りゆく姿に、今度また唄いますねと叫び、でもコレって一体どういうことだろうと考えた。 「約束はしないで 誓いも欲しくない」 で始まる覚和歌子さんが私のために作ってくれた歌詞、 おなじみ「あなたの燃える手で…」で始まる岩谷時子さんの歌詞、 どちらも私にとっては「愛の讃歌」だ。 その時々の気持ちを血と肉の間を通して口から出す、ココロを通したコトバを唄う。 コトバは「意志」であるけれど、やっぱり「記号」だと思う。 ココロを表すための記号。 この日、愛犬の死を迎えたピアニストの上條泉さんが打ち上げの鍋奉行を買ってでた。 他愛もないコトバたちが彼女を支えているようだった。 |
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