2006年12月9日『東京タワー』

 来年2月に出す予定のアルバム作りをしている。
 どこのレコーディングスタジオを使うかは担当ディレクターによって異なるが、今回は東京タワーのそばになった。
そばというより、ほとんど真下。小さな道を隔てたビルの地下にあるスタジオへ出入りするたび、そびえ立つ東京タワーを見上げる。
 正面入り口あたりは、夜になるとキラキラと飾りつけられたツリーやベンチやオブジェなど、もうすっかりクリスマス気分。
時間を決めて特別なライトアップショーもあるらしい。もう全体がいそいそしている。
 ベストセラーになった本の影響もあるのだろうか、若いカップルも沢山やってきては、携帯電話のカメラを取り出している。東京タワー、クリスマス、恋人たちと、幸せの三題噺のようで、正念場のレコーディング最中でも、ふらりと気分転換に出かけては、そのおすそわけにあずかる。
 今回のアルバムは1970年代の歌たちを中心にしている。
日本中が右肩上がりの勢いで走った時代の歌たちは、それ以前にはなかった文学的歌謡曲やフォークソングなど、少し口ずさんでみるだけで「あの頃」が、それこそ歌の文句のように、鮮やかによみがえる。
 先日の録音では、アレンジャーもミュージシャンも、はたまたレコーディングエンジニアも、その「あの頃」の歌たちをリアルタイムで作っていた人たちが集まり、さながら「同窓会」のような雰囲気になった。
 今ではお腹もせり出し、すっかり白髪になったオジサンたちが、煙草をくゆらせながら弾くギターの音は、やはり紛れもない「あの頃」の音たちだった。
 昭和33年生まれの東京タワーより若いディレクターは、その音たちを感に堪えぬように聴いている。
 2011年に向けて新しい電波塔が建つらしい。
「お古」の東京タワーはやはり寂しい。


2006年11月25日『万物流転』

 ア、と思ったら遅かった。ゴチャンと化粧ビンが手から洗面台の中に転がった。
 どうもモノを落とすタチであるらしい。こんなものにも遺伝が関係するらしく、これはれっきとした父親譲りである。
 テーブルの上から口までの間に、色々なモノが落下するので、その受け皿として食事中のエプロンは欠かせない。年が年だけに、この様はちょっとアブナイ感じではあるが仕方がない。まったく、どうしてこんなにこぼすのかと母親はいうが、私にもわからない。
 クミちゃんが座ったところってすぐにわかる、と友人にいわれたとき、父親と自分がピッタリと重なった。なるほどこういうことだったのか。
 他の人間と同居していれば、突然足の裏に突き刺さるように乾いて固い米粒や、パン屑やおせんべいのかけらを、まったくしようがないなあとブツブツいいながら拾うこともできるが一人暮しではそうはいかない。原因は全部自分だから、拾うときには何だかナサケナイ。自分で自分の介護をしているような気になる。
 冬場は乾燥しているので、ただでさえ手にあるモノはすべりやすくなっているのだろうし、化粧品のビンなど何回落としたところでこれまで何ということもなかったと、タカをくくっていたせいもあるのだろう。確かにヒビの入った洗面台に呆然とした。
ア、やっちゃった。思いもかけない事故の時に人が思うであろうこと。ア、転んじゃった、ア、足はさまれちゃった、ア、指切っちゃった、ア、線路に落っこちちゃった。こんな風に、ある日突然死んじゃうのかもしれない。
 昨日までそこにあったモノが今日も同じにあるとはかぎらない。あわてず騒がず受け入れ生きていかねばならぬ。
粗忽者はいったん捨てたホーローのカケラをゴソゴソ探しながら、長い人生に思いを馳せたのである。


2006年11月11日『秋の日の結婚式』

 仕事からの帰り道、ちょっとお茶しようと、かねてから行ってみたかった由緒正しい建物に入った。
 ここは結婚式場でもあるので、花嫁花婿がいても不思議ではないが、ワンサといる。
白いウエディングドレス姿があっちにもこっちにもいて、どうやら一番の撮影スポットであるらしいらせん階段あたりは順番待ちのよう。
次から次へとカップルがやってきては、参列者の前でポーズをとる。
 今日って大安なのかなあ、結婚式をしたこともないオトコと、結婚式はしたが結婚生活の続かなかったオンナが、月餅の添えられたお茶をズルズル飲みながら、まのびした顔でまわりを見渡す。
 「フォール・イン・ラブ」、恋って確かに落っこちるものらしい。落ちたままならいいけど必ずはい上がろうとするからままならぬ。
一人だけはい上がり、後ろの穴をしげしげ見つめ、ああサッパリしたとか、ついでに後ろ足で砂かけちゃおうとか。あるいはもう一回落ち直してみたいが、落ち方を忘れてしまっているとか。
 いずれにしても、落ちている間の幸せは、生きててよかったと思わせる熱く濃い時間ではある。こんな楽しみがなけりゃ人生やってられないよと思う。
 らせん階段の中程で並ぶ新婦の体にまきつけられた新郎の手つきを、アレってセクハラっぽくないかなどと、人の幸せの舞台に、この中年のオジサンオバサンの物言いときたら。本当なら自分の娘や息子を送り出す側にいてもおかしくはないのだ。
 そういえば私が結婚したとき、母は今の私と同い年だった。あれから26年。どうやら、十年一日というのはホントのことらしい。
 みなさんお幸せにね、秋の冴えた陽ざしの中、参列者の脇を、ジーパン姿のオバサンはジャマにならぬよう立ち去ったのだった。


2006年10月28日『食と心』

 集団で1人の子をいじめ倒す話など、ニュースで聞くたび一体おまえら何食って育ってきたんだと、道理のわかるようなわからぬような怒りで身が震える。
 オバサンの子供のころは、ハンバーガーだってピザだってなかった、スパゲティといえばあの真っ赤な、とここまで怒ったところで思いだした。世にも不思議なスパゲティナポリタン。
 あれは高校のころだったか。
駅近く唯一の洋食屋に入ったときのこと。出てきたスパゲティを一口噛んで、口も手もそのまま停止した。これはスパゲティというものだろうか、ここはレストランだからスパゲティなのだろう、しかしこれは本当にスパゲティなのだろうか、スパゲティとはこういうものだろうか。自問自答のまま飲み込んだ。
 早い話「ゴム」なのだった。輪ゴムを太くしたような。アメリカのコメディーによくある、せっけんをチーズと間違えて食べブクブク泡を吹く男の姿が浮かんだ。
 今もってアレが何だったのかよくわからない。アルデンテじゃないのとか新種じゃないのとかいわれてもわからない。深い謎だ。
 先日ベトナム料理屋に行った。日本でも草分けの店のはずだったが、20年近くたった店はすっかり変わっていた。驚いたのが豚耳の一品。酸味の加わった、とは聞いていたがまさかラッキョが乗っかってくるとは思わなかった。その辺のスーパーでポリ袋に入って1袋200円ほどの甘ラッキョが丸のままゴロンゴロンしている。
 世も末だ。料理人も経営者も、もう誇りなどドブに捨ててしまったらしい。これならまだあの悲しいスパゲティナポリタンの方が許せる。
今はイタリアだってベトナムだってみんながスイスイ飛んでいく時代なのだ。モノの豊かさが人の心を貧しくした。これだもの、人の痛みもわからないガキどもがいても不思議はないと、また怒髪衝天。


2006年10月14日『おばあちゃん』

 「おばあちゃん」に弱い。
90歳とか100歳とか、見事に齢を重ね、しかもうっすらと微笑んでいられたりすると、ただもうありがたくて涙がこぼれる。
 夫がいたころ、その夫のおばあちゃんもそういう人だった。敬虔なクリスチャンの彼女の前に出た途端、涙がドドと流れた。ザンゲしたこともないのにザンゲしたくなって困った。
 昨日、またそんなおばあちゃんの記録映画を見た。独り暮らしを続けていたおばあちゃんが、息子家族と同居するため、古い家を取り壊す様を追ったものだ。
 おばあちゃんは、血管の浮いた細い手で、毎朝トマトとリンゴとニンジンをジューサーにかけ、納豆をはさんだパンを2枚食べる。パンの耳の固い部分はジュースにヒタヒタして食べる。
トマト切ったり、ニンジン切ったりジューサー洗ったり、そんなこと毎日続けるのは容易なことではない。だからどこの家でもホコリをかぶったままのジューサーを、このおばあちゃんはいとおしむように胸に抱える。
おばあちゃんはまたハギレの入った箱も大切にしている。捨てようとする息子に、体が動かなくなったときの楽しみに、その時何か作るために取っておくのだといいはる。なのに死んだおじいちゃんの使っていたオチョコなどはさっさと捨てようとするので、息子はあわてて拾い上げなければならない。
「おばあちゃん」は人間の中でも、超弩級(ちょうどきゅう)クラスの生き物らしい。以前見た映画の中でも、自閉気味の少年が、主人公の美しい女性をおばあちゃんと呼び、ついこの前には現実に、ハンバーガー屋の角っこで、取り締まりの警官に向かっておばあちゃん、おばあちゃんと叫ぶ柳みたいな青年を見かけた。
「おばあちゃん」とは何者であるのか、これからが楽しみでならない。女に生まれてきてよかった。


2006年9月30日『誕生日の幸せ』

 「お誕生日会」なるものをしなくなってから久しい。
誕生日に人に会っても、それをわざわざ伝えることも、もちろんないので、一人暮らしの身には、ただの1日として過ぎ去っていく。
 それが今年、52回目の誕生日。夜中の12時を回った途端、居酒屋のテーブルを囲んでいた人たちが一斉に「誕生日おめでとう」といってくれたのだった。
 シャンソン歌手の人たちも、あるいは芸能界の人たちも「バースデーコンサート」を恒例とする人は多い。が、もともと何かの節目みたいなことが苦手の私、無縁のことと思っていた。
この年で今さらということではなく、ただ何となくおっくう、といった方がいい。
 そんな訳で、誕生日前日のライブも意図したわけではなく、たまたま。ところが、終了間際、やにわに暗くなった店内に、ロウソクの並んだケーキが現れ、ハッピーバースデーの歌声に合わせ52本のペンライトが振られたときは驚いた。
 お礼のアンコールとして「この素晴らしき世界」を唄う間にも、ペンライトの光は右へ左へと揺れ動く。ちょうどこの朝、31年ぶりの「つま恋コンサート」の模様をテレビで見て胸を熱くしていたこともあって「時」を共有する人たちと居合わせる幸せをつくづく感じたのだった。
 そういえば、ロウソクを吹き消すなどという行為も久しぶり。フーッと吹いても思うように消えないありさまに、肺活量の衰えを感じ、次にはもっと気合を入れて吹き直す。まったくこんなことにも気の抜けない年齢になっているのだ。
 居酒屋のテーブルに、サワーに入れる生グレープフルーツが運ばれてきた。ったく、こんなもの絞るのは疲れると文句をいっていると、年若い友人がさっさと手を伸ばしてくれた。ありがたい。


2006年9月9日『生命の準備』

 窓の外を赤いトンボが飛んでいる。なんだかヘンナ格好。よく見るとふたつ連なって飛んでいる。
ハハーン、これがトンボの「交尾」ってやつかもと目をこらす。トンボたちは風になって後から後から左から右へと同方向に、青空を果てなく飛んでいく。
 仕事で出かけた札幌のホテル8階からの景色。遠くの山も近くの公園も、夏に近い暑さの中、やっぱり秋に向かっている。そしてトンボはといえば、ちゃんと次の世代への生命の準備をしている。
 ミンミンやジージーやオーシンツクツクと変化していくセミの声が、今年の夏はたくさん聞けた。
 近くに住む両親の家に向かう途中にある、大きな古い家の庭も、今年は一層にぎやかだった。その家のブロック塀に夏の初め貼り紙が出された。「危険なので近寄らないこと」。そしてそれから数日後、今度は玄関と勝手口の鉄扉に鎖がかけられ「関係者以外立ち入ることを禁ず」。
 春には春の、秋には秋の花々や果実で通る人々を楽しませてくれた、この大きな庭を持つ家の主は、おばあさんだった。きりのないほどの落ち葉や落花をおぼつかない足どりで掃き集めていた、そのおばあさんともう二度と会うことはないのだと知った。
 主がいなくなった古い家も庭も、初めは変わらず、でも今は明らかに荒れすさんで、ただセミだけが鳴きつづけている。地上での10日間のため7年間地中にいたセミが、再びこの庭の木で鳴けることはおそらくないのだろう。
 来年の夏、この庭にはきっとマンションが建っているに違いない。たくさんの木と、木でできた家のかわりに、コンクリートの箱が現れるのだ。
 君たちの生命の準備はむだになるね、そんな申し訳なさで、通るたび立ち止まって木を見上げた。


2006年8月26日『人生の定点観測』

 高校野球が終わると夏も終わり、毎年そんな感じになる。
これは誰しも思うことらしく、もう夏の決まり事といってもいい。
 とはいうものの、食い入るようにテレビ観戦していたのは学生時代、それも選手たちと同年代位までで、それ以後はよほどのことがない限り見ることもなくなった。
 37年前、決勝の再試合という前代未聞のでき事があったときの興奮は、今でも鮮やかに思いだせる。
美しい太田投手に胸をドキドキさせ、大体がそうであるように、心を寄せる方が負けてしまい悲嘆にくれたあの日。
涙をふいて翌日出かけた学校の朝礼で、校長先生は異例の訓示をした。
 昨日の試合のねばり強さを見習い、皆さんもこれからの受験の云々、といったものだったが、普段何のかかわりもない校長先生の口から、選手たちの名前が飛び出すのがとても不思議で、ああ、この人も私たちと同じドキドキするココロを持っているんだとミョーな感動をしたのだった。
 高校野球の選手は、いつまでたっても高校生だ。当たり前の話だが見ている方は違う。お兄ちゃんがやってる、から同級生が、弟が、子供が、孫が、へ変わっていく。
 そうか、今の自分はこんな年になっているのだと球児たちを見て年ごとに確かめる、いわば「人間の定点観測」みたいなところが人気のひとつにあるのかもしれない。目に見えない「人生」をわかりやすく見せてくれるのが高校野球なのかもしれない。
 そして今年の決勝再試合。故郷がなくアッチコッチ転々としていた私など、どちらを応援してもいいようなものだが、ここはやはり出身校つながりということで。いや本当をいうと歌舞伎役者みたいな斎藤投手のクールな立ち姿のせいで早実を。
 こうして37年たっても、何も変わっていないことが分かった。いつまでたってもミーハーなのだった。


2006年8月12日『なぜ戦うのか』

 遠くレバノンとイスラエルの間では、無差別な攻撃がつづいている。
アメリカという大国を背景にしたイスラエルは、あくまで強気だ。
 先だってのボクシング試合の判定をめぐり世の中がもめている。
この正否はともかく、物事を快・不快でとらえるとすれば、あの青年が、彼のいう「ブサイクな試合」をしてくれてよかった。
でなければ、パフォーマンスと称する、その不快な言動行動を、マスメディアがどれだけ許し、持ち上げたかと思うとゾッとする。
 強けりゃいいんだろう、強けりゃ。
確かに強くなくちゃどうにもならないスポーツ、ハングリーという、今では死語になってしまったような精神を一番必要とされるボクシングというスポーツ。
 私は青年の家族のことに興味がないので知らないが、その「家族愛」が人気であるらしく、だから青年がリング上で「オヤジ」と呼び抱き合う姿が、とても不思議なものに見えた。
それまでライオンだったものが急にネコに代わってしまったような。
そして、まだ幼顔の残る青年の向こう側に、見覚えのあるヤツが透けてみえた。
 「小さな者」が「大きな者」に取り込まれていく、あるいは「個人」がいつのまにか消え「大義」に寄りかかっていく構図。
他人にはどんな無礼もする者が、その存在の後ろ盾としているもの。
それはあるときは「会社」であったり「組」であったり「天皇」であったり「宗教」であったり。
 青年はまだ若い。
昨日までアメだったものがムチに、いともたやすく変わる世の中で、何が揺るぎないものなのか。
何のために戦うのか考えればいい。
 人は愛するもののために戦う。愛するもののために強くなる。
でも戦う相手もまったく同じなのだ。
燃えさかる戦火を見て思った。「強さ」って何なんだろう。


2006年7月29日『水利権』

 「例年にない大雨によって」から始まる水害のニュースは、この時期、毎年どこかで必ず流れる。
そんな中、信州に出かけた。
 カフェオレ色の水がごうごうと山を走る。
マイナスイオンが何万個も存在するという大滝は、そのしぶきが白い煙のようになって、あたりの緑の中に漂う。
 その深い緑の木々の根元あたりに、何本もの黒い管のようなものを見つけた。
電線がもっともっと太くなって、数本の束になり横たわっている感じ。
周りの自然とのあまりのそぐわなさに、案内してくれた地元の男性に尋ねてみた。
 「さっき、ここへ来る途中のふもとに、食堂があったでしょ。あそこに水を引いているんですよ。以前水害が起きたとき造った、この『堰(せき)』のために、きれいな水をこうしてもっと上から引かなきゃならなくなったんです。『水利権』てやつですよ。どんなにお金がかかっても、たった一軒のためでも、この水利権は守らねばならないんです」
 黒く太い管の束は、はるか上流の森の中から、コンクリートの堰をくぐり、あれあれと驚く場所に姿を現しながら、最後には、その食堂へと確かに引き込まれていた。
 「水利権」、初めて聞く言葉に辞書を引いてみると「特定の企業者、公共団体、一定地域内の住民、耕地や森林の所有者が、独占排他的に継続して、公水、殊に河川の水を引用し、または水面を利用しうる権利」。
 つまり、その食堂は昔から、その場所で川の水を引きながら営業していたので、どんな状況になろうと、きれいな水を引いてもらう権利を有するということらしい。
そのためにかかったであろう膨大な費用を想像しながら食堂を見ると、店先でアルバイトらしい男性が「流しそうめん」の機械をふいていた。家庭でも簡単に本物の気分が味わえる、という謳(うた)い文句で売られていたまん丸な「流しそうめん機」にとてもよく似ていた。


2006年7月15日『キス上手』

 ポルトガルの若い選手が、サッカーボールにキスをして地面においた。そして蹴った。
神を宿らせたかのように、そのボールは一直線にゴールに突きささった。
 サッカーがこんなに官能的なスポーツだとは知らなかった。
どうりで世界中で愛されるわけだ。
 それにしても最後になって、なぜ頭突きをくらわせなくちゃならなかったんだろうと、
哲学者的風貌のジダン選手のことを考えながらスイカをパカンと割った。
どうみても甘くなさそうな淡いピンク色の果肉の中に黒いタネがびっしりと並んでいる。
ペッペッと吐き出しながら、今どきこんな面倒な果物、売れないなあと、時々はゴクリとタネを飲み込んでしまう。
 ふとサクランボのことを思いだした。サクランボというより「チェリー」。
プリンとかクリームソーダにそえられてくる、あの真っ赤でブヨブヨしたやつのことだ。
若い頃、喫茶店でこれが出てくると、必ず誰かがいった。
「ねえ、口の中だけでこの枝みたいなとこ結べる?」。
意味ありげにいうので、意味を問うとキスのことだという。
舌の使い方がうまいとうまいキスができるという。
うまいキスのために、こんな技が必要なのかどうかわからなかったし、うまいキスとまずいキスの違いも知らなかった私は、ただ、キスも奥深いものであるらしいと思った。
色恋の「奥義」というやつかもしれんと思った。
 おっと、イカンイカン、飲み込もうとしたスイカのタネをはき出した。これじゃあ、まるでオヤジだ。
この年になっても、いやこの年になったからこそ、ここはきちんと丁寧に舌を使ってタネを取り出すくらいのことはするべきなのだ。
 キス上手の多そうなイタリアとフランスの間でのワールドカップ決勝戦。
PK戦のあと黄金色に輝くトロフィーにキスをしたのは、イタリアの主将だった。


2006年6月10日『パリから来た女』

 行きつけの美容院に入ると、店長がニコニコして「Hさん、来てますよ」という。
Hさん?
 Hさんというのは、もしかしてあの「Hちゃん」のことかと指さす方を見ると、
確かにそのHちゃんがいる。
 もう6年前になる。カタロニア民謡「鳥の歌」を唄いに行けという突然の指示で訳のわからぬまま出かけたスペイン。
そこで大層お世話になったHちゃんがどういう訳か今ここに座っているのだった。
 日本人だから日本にいても不思議はない。
どこに住んでるのと尋ねると「パリ」。
何てこった、スペインの次はパリか。
聞けば「サンジェルマン・デ・プレ」という、いかにもパリらしい、シャンソンにも度々登場する街にいるという。
行ったこともないのにサンジェルマン・デ・プレが目に浮かぶ。
フランスパン小脇に石畳を歩くベレー帽のおじいさんまで浮かぶ。
 そりゃ、いくらなんでもステレオタイプだろうと自分の想像力の貧しさにゾッとしながらHちゃん、オトコはどうしたと聞くと、今の恋人はモロッコにいるベルベル人だという。
惑星のような名前の人種が世の中にはあるのだ。
やはり世界は広い。
 そういえば友人のアーティスト、ヤドランカさんはクロアチア人だが、お父さんお母さん、お祖父さんお祖母さんとたどれば、イタリアだのロシアだのオーストリアだのドイツだのと、すさまじい血の混ざりかた。
これがヨーロッパでは普通というのだから、どうして国同士の戦いが起きるのか逆に不思議になってしまう。
 パリのオトコにモテる髪にして、と注文したHちゃんの頭は、デジタルパーマのセットで固定され、あと1時間はかかるという。
完成形を見ないまま別れてしまったせいか、それからどうも落ちつかない。
出不精の私が、どうしたことか広い海の向こうへ飛んでいきたくなっている。


2006年5月27日『つれづれ「MC」』

 「MC」というのは、どうやら業界用語らしい。
マスターズ・オブ・セレモニーの略だが、つまりのとこ曲と曲との間のオシャベリのことで、コンサートの進行表にMCと書かれている場合もあるし、私たちにとって普段使いの言葉でもある。
 フォーク系のアーティストには、これがベラボウにうまい人が多く、話してんだか唄ってんだか渾然一体となって、お客もまた、そのMCにヤンヤの喝采を送ったりする。
 音楽をやっている人というのは、本質的に内向的な人が多く、他人とうまくコミュニケートできないから唄ったり楽器を弾いたりしてるともいえるわけで、その内向性が外向性へとベクトルを変えた時が、もしかしたら「プロ」になった時といえるのかもしれない。
 かくいう私も、ひと昔前にはこのMCが大嫌いだった。苦手だった。
話さずに済むなら一言だって話したくない。
唄うだけ唄って終わりになるならどんなにいいだろう。
しゃべって唄うなんて私にはできないと文句ばかりいっていた。
 それが今では話し出したら止まらなくなる勢い。
先だってのコンサートでは、声の調子が悪いので二曲も減らしたはずが、終了してみるといつもより15分も長くなっていた。
小さなライヴにいたっては一曲ごとにMCをしてしまうので、ステージの時間など決めることもできない。
 こんなこと若い日には想像もできないこと。
これは自分ではないとか、これがホントの自分だとか、唄う自分と話す自分は相容れないとか、「自分」に縛られてばかりいた。
 なんのことはない。どれもおんなじ「自分」。
それがシッカリしていないからウロウロする。
一本通った強い芯があれば何だって平気。
アッチへいこうがコッチへいこうが、唄ってもしゃべっても、行きつ戻りつ丸ごと「自分」。
 こんなことが今頃やっとわかった。
歩みのノロい「プロ」歌手なのだ。


2006年5月13日『どっこい生きてる』

 太平洋側を走る東海道新幹線と違って、日本列島の背骨をくぐって新潟へ向かう上越新幹線では、トンネルを出るごとに風景が変わっていく。
 夏みたいに汗ばんだ東京を出てどのくらいだろう。
トンネルを抜けると、そこでは山のあちこちに雪が残り、駅前の雪捨て場らしき場所には氷山と化した雪の残がいが鈍い光を放っている。
また別のトンネルを抜けると、そこは一面の水田。
遠くや近くにポツンポツンとトラクターや人影。
昼食の支度だろうか、ポットを片手に道を急ぐ田植え姿の女性が見えた。
 ことの他長く苦しい冬だったことを思い、また新たに米を作り始める人間の営みを思い、
何十年も何百年も日本人はこうして生きてきたことを思い、地に足のついた生活かあ、とつぶやいてみる。
 4月半ばに始まったコンサートツアーも新潟で5ヵ所目になる。
福岡、大阪、東京、札幌と、一ヶ月も経っていないのに、ずいぶん長いことアッチコッチ行っている気がする。
流浪者、あるいはホームレスのような気さえする。
 この心細さはどうやら体調によるものらしい。
どうも声の調子が良くない。
何だかんだいっても体は大丈夫と思ってきただけにこたえる。
去年も今年もおんなじだと思っていた。
ひとつ年をとっていることを忘れていた。
 ベランダに出しっぱなしにしていた鉢をずらしてみると、そこにピーナッツを大きくしたような乳白色の物体が。
何だかわからないが、なぜかイヤな予感。
つまんで捨てるための割り箸をとって戻ると、案の上そいつはナメクジに形を変えていた。
一体何十年ぶりだろうナメクジに出会うなんて。
こんなもの、今の時代もう絶滅していたと思っていた。
 オットドッコイ生きている、
励まされるような気持ちで、そのナメクジ君をつまみ、丁寧に下の草むらへ落とした。


2006年4月22日『人生は過ぎ行く』

 「コーチャンがいなくなってから」
と目の前のご婦人が話し始めた時、一瞬コーチャンが隣りのオバサンのような気がした。
コーチャンは「越路吹雪」で、彼女が亡くなってから聴かなかった歌を、今回私のコンサートで聴いたのだと、CDジャケットが差し出された。
 大阪でのコンサート終了後のサイン会でのでき事。
その老齢のご婦人は、うれしそうに話しかけてくださるのだが、最後尾に近い彼女の順番からして、かなりの長い間立って待っていた計算になる。
あまりの申し訳なさとありがたさに腰が浮いてしまう。
 今回のツアーで「人生は過ぎ行く」という越路さんの十八番、極めつきの名曲をプログラムに入れた。
好きよ、好きよ、が延々とくり返される中、男に捨てられる女の姿が次第に浮かび上がってくる。
 約束の時間に遅れてやって来た男は、そばにいながら目も心も虚ろだ。
男が見ているのは、ただ別な場所にいる若い可愛い女。
問いつめる女に、男は後ろ姿を見せて去っていく。
 「捨てないで」とブザマに追いすがる女に自分自身が重なることなど考えられなかった。
 「若いのね、私より」なんて口がくさってもいえそうになかった。
 それを今唄っているのだ。
 「人生」がどういうもんか、どういう形をしているのか、結局のところ皆目わからないけれど、
この歌を唄っている時、そいつが見えた気がする時がある。
しっぽの先をつかまえた気がする時がある。
「どうしよう」ともだえ「助けて」と叫ぶ女を残し、闇の中に去って行く男の後ろ姿は、
取り戻せない時間そのものなのかもしれない。
逃げて行く若さ、想い出、希望、愛。
手を伸ばしても伸ばしても、しょせんは行ってしまうものたち。
 プラセンタの注射は若返りにいいそうですよとメイクの人に聞いた私は、
エ、それってどこどこ、と夢中で尋ねている。
 まったく往生際が悪い。


2006年4月8日『幸せな職業』

 今回で、この連載も3年目に入る。
期限は2年と勝手に思い込んでいたので、最終回のつもりの前回には、
お別れのごあいさつを考えていたくらいで、うれしい誤算になった。
 あいかわらず「居候シャンソン歌手」のまま唄っている。
先だっては、神宮球場のヤクルト対阪神の開幕戦で「君が代」を唄うことになった。
大向こうにそびえるスクリーンに「国歌独唱クミコ」という文字が現れた時には、
ここまで来たかというより、こんなとこ来ちゃっていいんだろうかと不安になった。
どこまでもハンパ者の私ごときが、事もあろうにプロ野球の神聖な儀式に参加していいんだろうかという根なし草のような不安である。
 昨年の覇者、岡田阪神と古田新監督率いる新生ヤクルトの選手たちが、私の控室のすぐそこ、人工芝のグラウンドで練習をしている。
熱気でザワザワした球場は、私には30年ぶり。
たった1回行った早慶戦以来だ。
あの時観客席にいたのは二十歳そこそこの私だった。
同行したディレクター氏は20年ぶりらしい。
クミコさんの頃は、早慶戦の後どこに行きました?ぼくたちは歌舞伎町ですよ、噴水にとびこんじゃったりして。
 きみらがそんなことするから、大学生の評判がすっかり悪くなったんだよと、
当時の新聞記事を思い出す。
何だかわからないけど胸が熱くなる、すべてついこの間のことのよう。
 驚いたのは私の仕事に「かこつけて」やってきた男性スタッフたち。
みんな少年の顔になっている。
モニターテレビに映る選手たちを見て何て幸せな職業だろうと思った。
大の大人を子供に変えてしまう仕事。
 かくいう私は今月15日、梅田の「シアター・ドラマシティ」でコンサートをする。
老女を少女に、老人を青年に変える「恋」をテーマに唄う。
お客さま1人1人の心のスクリーンにステキな映像が映るよう、願わくば幸せな職業といわれる歌が唄えればと思う。


2006年3月25日『ベルばら』

 「ベルばら」を観ることになった。
漫画にも宝塚にも興味のなかった私に、これまでこの作品とかかわるチャンスは一切なかった。
ところが、歴代の宝塚スターたちがかわるがわる演じ続けてきた伝説のこの舞台、それを今になって初めて観ることになったのだ。
 星組の男役スター安蘭けいさんがオスカルを演じるという。
門外漢の私でもオスカルがどういうものかはおぼろげに知っている。
男装の麗人てやつで、風になびく長い金髪、白いパンツに長革靴、マント付きの制服姿は、これほどまでにカッコ良くていいのかと思うほど。
それを演じるというのである。
 安蘭さんとは去年の夏、対談をした。
歌のうまさでは定評のある彼女が、あろうことか私の歌が好きで、テレビの対談相手として選んでくれたというのだった。
 盛夏というより酷夏のさなか、ホテルのスイートルームに現れた安蘭さんはほっそりと美しく、照明ライトで汗だくの私の隣、サッパリと微笑んでいる。
私も一応、舞台人としてひどい汗かきではないと自負していたが、彼女には負けた。
その背中に、宝塚という厳しい環境の中で鍛え上げられた「プロ」の来し方が見えた気がした。
 おおこれがフェルゼン、これがアンドレ、名前だけは知っていた登場人物が次々に現れフランス革命が進んでいく。
牢獄のシーンは暗いけど最後はまた明るくなるのよねと休憩時間、後ろのご婦人たちが話している。
 その通りマリー・アントワネットのギロチンへの階段から転じて、舞台はアッという間にレビューへと変わる。
余りの見事さに背中がスーッとする。
これが舞台のカタルシス、「プロ」の仕事、思い切り拍手をする。
開演から三時間近くで幕は閉じた。
ああ、きれいだったというため息だけが劇場に漂う。
 終演後の楽屋口、久々の再会に抱き合った安蘭さんの体はいっそう細く、白いガウン姿はまるですずらんのようなのだった。


2006年3月11日『息苦しい時代』

 息苦しくて仕方がない。
更年期のせいかと思っていたら、それだけではないらしい。
世の中を漂う良からぬ空気のせいらしい。
そりゃないだろうと思うことばかり起こるせいらしい。
 私のような歌い手の場合、どれだけ練習していても、これでもう大丈夫と思っていても、
生番組の本番ともなると、とんでもない所で歌詞を間違えたりするのだから、
本人の頭の悪さを考えてもやはり本番はコワい。
練習の百回が大丈夫でも大丈夫なことにはならない。
ましてこれがオリンピックであったら。
 ほとんど成功していないように見える四回転ジャンプが、本番ともなれば成功する確率は万に一つもないなあと思いながら、それでもナイことをアルことにさせたいらしいマスコミにあおられ見ていると、やはり転倒。
ンなこと、はじめからわかりきってるじゃん、とため息をついていると今度は、
よく考えりゃわかるそんな「ンなこと」にだまされた揚げ句、さっさと入院してしまうような政治家もいて、もうこの国ではきちんとしたオトコも絶滅に向かっているのだと思い知らされた。
 白っ茶けた気もちで迎えたこの春「ベストアルバム」なるものを出すことになった。
今週8日発売の「わが麗しき恋物語」で、ベストなどおこがましい、体のいい肩たたきかとも思われたが一応の区切りになったことは確か。
「高橋久美子」から「高橋クミコ」そして「クミコ」へと簡略化された名前のごとく、どんどんサッパリとしてきた51歳のオンナの歌が並んでいる。
そして同時に全然サッパリとしていない27歳の時の歌も入っている。
世の中をハスに構えたその声は、自意識と緊張で震えているように聴こえる。
音源は1982年の「銀巴里」。
客席からの拍手の音にそれからまもなく始まるバブル時代の予兆も感じられる。
 息苦しい時代は、今も昔もかわらず同じようにあるのだった。


2006年2月25日『人間という奇跡』

 子供の頃、他人からよくされた質問に
「お父さんとお母さんとどっちが好き?」というのがあった。
もちろん「どっちも好き」と答えた。
父にも母にも、それぞれ好きな所嫌いな所はあったが、それより、
この「比較」はしてはならぬもののように思えた。
 反対に、男の子と女の子とどっちが欲しかったの、と親に尋ねることもあった。
「クミちゃんがお腹にいる時は、みんなが絶対男の子だっていうし、近所のベテランの産婆さんも、男の子に間違いないって太鼓判押してたんだよ」
 でも産まれたのは女の子の私で、どっちにしてもこの私は二人にとってかけがえのない大切な子供なのだというのだった。
 先月の末、レコード会社の担当ディレクターI氏に赤ちゃんが生まれた。
出産の数ヶ月前から入退院をくり返した末に授かった赤ちゃんは、美しい名前を用意された女の子だった。ある日、I氏がホントは男の子が欲しかったんですよという。
そりゃあ、一緒にキャッチボールなどしたかったかもしれないが、それをいっちゃあおしまいよ、と押しとどめた。
 男と女はある日めぐり逢い、愛し合って、その間に一つの生命が宿る。
この広い地球の上で、この長い歴史の中で、同じ時代に出会い「想い」を分かちあう。
これは「奇跡」だ。
いや今こうしてここに自分があることからして「奇跡」に近い。
どこかの政治家がいうように、神代の昔からの日本固有の血筋が「奇跡」なのではない。
人間そのものが「奇跡」なのだ。
 ディレクターのI氏はその後、2、3時間おきに夜泣きをする赤ちゃんのおかげで寝不足ですといいながら、その後ろ姿は生命を引き受けた責任で一層たくましい。
 親になったことのない私は、その姿に自分の親を重ね合わせた。
子を持って知る親の恩かあと、つぶやいてみた。


2006年2月4日『マスクは風邪のためならず』

 風邪をひく人が増えている。
何万人も死んでしまうかもしれないというインフルエンザの予告まであったものだから戦々恐々で、どこに行くにもマスクが離せない。
 コイツの風邪だけはうつりたくない、と思う人間の、その風邪をもらってしまった時は悲劇だ。
友達を通り越して親戚になってしまったようなイヤな気持ちになる。
 知り合いならまだしも、電車やレストランなどで近くに居合わせた傍若無人なヤツ。
たとえば「ヘックシャーン」と大向こうに向かって叫ばんばかりにクシャミとシブキを連発するオジサンや、この寒空に何だってそんな格好でという、胸の大きく開いたTシャツとミニスカートでセキをしながら煙草を吸い続ける女の子や。
コイツらと親戚にだけはなりたくないとあわてて、またマスクを深く装着する。
 マスクは便利だ。
最近出回っているプリーツ式の使い捨てタイプは、大きいものだと顔半分も隠れてしまうので、スッピンでも平気で歩けるし、ちょっとした犯罪者や匿名の人の狡猾な気分を味わうことができる。
 かといって別に悪さをするでもなく、昨日あたりは肩から提げた大きなカバンを私にぶつけたまま知らん顔で地下鉄通路に立つ男の、そのパックリ開いたポケットから覗くケータイを引っこ抜いてやろうかとニンマリするくらいのことだ。
 そんな時は楽しい。
ホラホラ君の平和は他人の善意の上に成り立っているのだよ、と怪人20面相になってしまっている。
 私のように眼の悪い人間の場合、マスクはけっこう難しい。
すぐに眼鏡が曇ってしまう。
潜む快感どころか前が見えない。
鼻の低い私でさえこうなのだから鼻の高い外国人ならさぞ大変だろうと思うが、マスクの習慣が彼らにはないらしい。
そういえばちなみに家の父親もマスクをしない。
彼の場合は、朝食べた納豆とネギの臭いが充満してヘキエキするせいなのだが。


2006年1月21日『動く劇場の人々』

 運転もできないので、もっぱら電車に乗っている。
高名なラジオパーソナリティーの大沢悠里さんもそういえば、通勤は電車だと聞いたことがある。
電車の中では実に様々な人間を見ることができるからだそうで、確かに数々の人生が交差する車内は「動く劇場」のようでもある。
 今朝も、爪が指の半分ほども長くなっている女性を発見した。
人間の世界にいてはモッタイナイような見事な青い爪がキラキラと光っている。
一体どうやって日々の事ごとを行っているのだろうと思っていると、ヒョイとケータイ電話を持ち上げ、水平にした指の腹の部分でメールをしている。
指の腹といっても、これだけの長さの爪で触れられるところといえば、もうかなり手のひらよりになっていて、
自ら進んでこのような障害を備え生活するというのも、はなはだご苦労なことだなあと感心する。
 そうかと思うと、二日ほど前に向かいの席に座った50歳代とおぼしきカップルも、なかなかだった。
ピッタリ寄り添い、指と指をコネコネ絡めたり撫でたりしている。
「恋せよ 大人たち」というタイトルのツアーを始める私としては歓迎すべきことのはずなのに何だか居心地が悪い。
正視できない。
 腑に落ちないミスキャストな感じとでもいうのか、天からパラパラ降ってきた「ホレグスリ」が、たまたまこの二人の上にかかったのでたちまちのうちに恋に落ちこうなりました、といった必然性のなさが感じられてしまう。
ここまでの道とこれからの道が見えてこない。
これからこの二人はどうなるのだろう。
 まったく他人の行く末など心配しているどころではないのだが、こんなことも雪のない都会に住んでいればこそで、屋根に積もった凶器のような雪や、雪おろしの最中に亡くなった人たちを思えば、少し後ろめたい。
ドアが開いた途端吹き込む北風や、どうにもききの悪い車内の暖房のことなど文句をいっていてはバチが当たる。


2006年1月7日『渡り鳥』

 元旦の夕方、ふらりと近くの公園に立ち寄ってみた。
人かげも少なく、静かな園内の池でカモが泳いでいる。
どうやら二種類と思われるカモたちは、アッチコッチ行ったり来たりしながら、
時々体を水平にしてくちばしを開け水面をスイスイと突っきっていく。
そうしてプランクトンなど食べているのだろうか。
大したものだと感心していると、その中の一羽が他の一羽をくちばしで突ついた。
あわてて逃げる一羽の後を少し追って、また今度は別の一羽を突っつく。
 何が気に入らないのか、全く迷惑なヤツだ。
そういえば、こんなヤツはハトにも必ずいて、大きく体をふくらませS字型の体勢で、他のハトを追い回している。
ガンをつけるなどというのが鳥にはあるのかないのか、特定の一羽を執ようにいじめていたりする。
 が、基本的には平和なのである。
カモでもハトでも乱戦になって入り乱れたという話も、
死がいが累々と、という話もきかない。
それより、生きたままビニール袋につっこまれ埋められてしまうニワトリの映像の方が知られている。
 狂牛病の時には牛が、鳥インフルエンザではニワトリが、
それぞれ処分という大量殺りくにあっているが、延命だの天寿まっとうだのとは縁のないとされる生き物たちにとっては、
どっちみちおんなじといえるのかもしれない。
 昨年末、尊敬するシャンソン歌手が亡くなった。
詩人でも画家でもある彼は、数枚の絵とべっこうの小物入れなどしか残さず、
クリスマスの日に皆に見送られ天に昇っていった。
「自由」と引きかえに何も持たず何も残さず自分の心のままに生きた人の写真を前に、
涙はとめどなく流れたけれど、やっぱりうらやましかった。
人にこそできる生き方死に方。
 何十年も東京の水の中で暮らし、甥御さんの手で故郷の北国に帰る彼は、
でも渡り鳥に似ていた。



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