2007年12月22日『歌い手として生きるために』

 ハンパシャンソン歌手の私が、今年はなぜかフランスづいていた。
 年明け早々、「シャルル・アズナブール」のインタビューのためパリに行き、夏から秋にかけては「エディット・ピアフ」の映画とのコラボレーション、ついで「ミシェル・ルグラン」との共演。ヒェー、と驚いてしまう。分不相応である。
 ところが、もっと驚いたことに、この人たちと関わらせてもらったおかげで、思ってもいない財産が手に入った。
 それは宝石でも金でもない、歌い手として生きるための心得というか、姿勢というか、覚悟というか、まあ、そんなモノたちだ。
 アズナブールからは「タフで冷静」であること、ピアフからは「立ち向かう」こと、ルグランからは「楽しむ」こと。今でもそのキーワードと共に、それぞれの姿が映像のように浮かんでくる。
 人前でモノをするにはエネルギーがいる。それがないなら止めた方がいいといっていたアズナブールのステージは82才とは思えぬタフさで、それを支えるのに必要なのが冷静な判断力であることがわかったし、ピアフが舞台に出る前に握りしめた拳は、人生から逃げずに立ち向かう強さを教えていたし、譜面なしで毎回ごとに変わるルグランのピアノ伴奏はスリリングで、何より本人が音楽を楽しんでいるのがわかったし。
 ああなればいい、こうなればいいと願うことは山ほどあるけれど、たとえああなれもしなく、こうなれもしなくても、唄っていこうと思えるようになった。大きな山を麓から一歩一歩登っていくように、登り続けることを楽しみながら、タフに冷静に、雨風に立ち向かいながら、ただただ歩いていく。そんなことがステキだと思えるようになった。
 見上げても山の頂は見えない。山の大きさも皆目わからない。あれ、これって「人生」とおんなじなんだな。


2007年12月8日『ワカラヌモノはわからぬままに』

 劇場でもホテルでも、古くなればなるほど何かしらワカラヌモノが棲みつくらしい。棲みつくと思われるらしい。
 今月一日、それこそ「降ってわいた幸運」で唄うことができた「大阪フェスティバルホール」、その上にあるホテル、どちらにもワカラヌモノはいるようで、それは「音楽の神様」だったり「廊下を姿なく歩くモノ」だったりするらしい。
 「9階に出るんだよ」。少し前に一緒になったミュージシャンの楽屋話に、ふうん、でももう泊まることもないと思うよ、なんていってたのに、着いたのはそのホテル。渡されたルームキーはと見れば9階。当たりクジでも引いたような笑いが顔にはりつく。
 なんだかなあ、と部屋に入り、よくよく考えてみると私の方が年が上なのだった。ホテルと年を比べていいのかとも思うが、同世代ともいえる建物なのだから、チカしい気持ちがしてくる。
 それにしても50年そこそこでワカラヌモノが棲みつくなら、人間はどうする。あれ、でもワカラヌモノに居つかれてしまったような人も確かにいるな。ま、やっぱり生きてる人間よりコワイものはないかとベッドに入る。
 なぜかくぐもった工事現場のような音が響いてくる。そういえば工事中の立て看もあったし、地下鉄の工事でもしてるんだろう。途中ガオーンとクレーンが倒れるような音までする。真夜中に工事なんかするなよ。
 眠れないので、備えつけの「聖書」と「仏教聖典」を取り出し、仏教の方を読み始める。サトリのあたりを読む。この頃考えてることと近いので私もついにサトリに近くなっているのかしらんと思う。
 翌朝、隣の部屋のスタッフに騒音のことを話すとポカンとしている。いろんな設備がうまく働かないんだろうと慰められるが、ワカラナイ。ワカラヌモノはワカラヌママに。これもサトリなのだった。


2007年11月24日『うれしい「大阪」』

 まだ地方でのコンサートがなかった頃、何としても「大阪」に行ってみたかった。神戸の人を夫にしていたせいで、もちろん何度か遊びには行ったが、もっときちんとミナミからキタまで地図を片手に歩いてみたかった。「夫婦善哉」の場所でお参りをしてみたかったし、通天閣あたりをフラついてみたかった。
 当時、永六輔さんのご縁で知り合い、同じステージをご一緒していたボードビリアンのマルセ太郎さんに、大阪へ行ったらどこへ行ったらいいでしょう、と尋ねた。
 「ナンバの花月ってとこと、焼肉食べにツルハシに行ったらいい」
 そのどちらにも出向いた私は、そこで見た大阪のエネルギーに圧倒された。そして何だかとても自分に合った街のような気がした。ここでなら、このまんまオバチャンになれる。
 新婚の頃、待ち合わせ場所でポツンと立つ私に「それエエで履いてみ」と靴屋のニイチャンが話しかけ、ポカンとする私に「アンタ、どこの子?」
 この間の抜けた「東京の子」は、それからせっせと「東京のオバチャン」になった。歌を唄うオバチャンは、幸せなことにアチコチ行けるようになったが、今でも「大阪」がうれしい。大阪に来ると「大阪のオバチャン」になれる。
 中之島のフェスティバルホール。地元の人が「フェス」と呼ぶ、この由緒あるホールでそれこそ突然、コンサートをすることになった。来月の一日。こんなに急で、お客様が来てくれるかどうか。アタフタする私に、大丈夫大丈夫と、何が大丈夫なのかわからぬままハンナリと笑顔を向ける主催者。
 もうこうなったらイチかバチだ。同じ五十代を迎えた「フェスさん」の舞台で唄ってみるのも、ご縁だろう。織田作之助を題材にした「織田一枝」も唄ってみようか。師走の始まり、皆様のお越しをお待ちしています。


2007年11月10日『スーパーの“責任”』

 「駅のソバ」をキャッチフレーズにしていたデパートが、私の住む街の駅前からなくなってしまった。本店なのだから、いくらなんでも大丈夫だろうと思っていたのが甘かった。世情にはさからえない。
 若い頃からあったデパートなので、若い頃からの思い出も一緒くたになっていて、ただシャッターが下りただけのその建物は、大きなノッペラボーのように淋しい。
 淋しいことは淋しいが、それより困るのがスーパーストア。このビルの地下にこれまた何十年も厳然とありつづけた。大手のスーパーだから、品揃えも豊富で、何より帰りがけにネギやら肉やらを買えるのが助かった。
 デパートもスーパーも失くした駅南口は何だか元気がなくなった気がする。都会でこれなのだから、地方だったらと、以前行った、とある県庁所在地を思い出した。駅前商店街のほとんどがシャッターを下ろしている。やはり店は開いていてこそなのだった。開いていることで「責任」を果たしているのだった。
 デパートは仕方ないにしても、スーパーストアは、そこの住民にとって生活必需品だ。店子だからといって、一緒に閉めてしまっていいものだろうか。ここにスーパーがあるからと居を定めた人は多いに違いない。スーパーはデパートとは違う。スーパーにはスーパーの「責任」がある。
 こりゃ、あんまり「無責任」でっせ、ダンナ。日を追うごとに割り切れない思いをしていると、しばらくぶりにつけたテレビ画面で政治家のオッサンが何かいっている。
 「辞意表明」、ウヒャー、ここにもまた「無責任」がいた。ずいぶん前にやっぱりサッサと辞めた殿様首相も浮かぶ。もう日本国中「無責任」だらけだ。
 そういえば「駅のマエ」の英会話学校もなくなってしまった。ウサギの姿をしたお調子モンキャラクターが飛び跳ねていたのは、ついこの間のことだった。


2007年10月20日『大したもんだなあ』

 はじめはネコの鳴き声かと思った。あまりに頻繁なので、よくよく聞くと赤ちゃんの泣き声らしい。そのうち、ちっちゃな肌着がベランダに干されるようになった。
 隣の部屋の住人が、どういう人たちかは知らない。たしか愛想のない女の子がいるはずだ。ということは、その愛想のない女の子が、クルマは見たことがあるが顔を見たことのない夫との間に、赤ちゃんを作ったということだ。
 大したもんだなあ、と思った。きちんと次世代の人間を作り、生活をしていこうとしているのだ。社会のアラマホシキ形を、あの若い女の子は具現しているのだ。根なし草のような、不良オバサンのような私とはえらい違いだ。
 ついこの前まで、色とりどりのセクシーな下着が揺れていたベランダは、すっかり様変わりした。母乳の染み出すのを防ぐパットのようなものも下がっていて、一生そんなものを使うことも、使ったこともない私は、ただ畏敬の眼差しを送る。
 そういえば、いつもお世話になっているヘアメイクの女性も、今年双子の赤ちゃんを産んだ。昔で言えば高齢出産。様々なリスクもあったけれど、見事母親になった。
 不思議なもので母親になると母親の顔になる。それ以上に女として一回りも二回りもスケールの大きいモノになった感じがする。まあ、「人間」を作ってしまったのだから仕方ない。自分のカラダから生命を産むなどという経験をしたら肚もすわるというものだ。
 いつまでたっても肚のすわらない私にできることは、これらの赤ちゃんたちが無事育っていく環境を作ってあげること。いい加減だったゴミ分別も念入りに、こんなことしたってブッシュがいるうちはムダさ、などと投げやりにならず、未来を信じるしかない。ワンパクでもいい、愛想がなくてもいい、たくましく育ってね、お隣りの赤ちゃん。


2007年10月6日『「壁」になった人』

 「ホントの話」とか「正直いって」とか、話の中にしょっ中入れる人がいる。
ナントカカントカホントの話、ナントカカントカ正直いって、という具合に、大体は末尾につけ加えられる。そして、こういう人の話はたいていがウソであるというのはホントだ。
 最近、テレビでそういう場面を見た。弟子を死なせてしまった「親方」が事件発覚後のインタビューで、これはまったくの事故であるといっている最後に「正直いって」をつけた。
 この親方、昨日今日親方になったのではない、年季の入った顔なので年齢はと見れば57歳。私とは大学の先輩後輩くらいの年の差だ。ちょっと上のダチといえなくもない。ぶ厚い壁のようなその物腰から若い日を想像するのはむずかしい。
 若い頃オジサンが苦手だった。それもエラソーなオジサン。社長とか会長とか理事長とか。そういう人の前に出るとヒクツに体が斜めになる。どうせ話せる言葉なんかないんだからとスネる。ちなみに私が唄い始めた「銀巴里」というシャンソン喫茶の社長は、私に声をかけたことも目も合わせたことも、一回としてない。嫌うから嫌われるのか、嫌われるから嫌うのか。
 だから世の中じゅうがオジサンだらけの、あの日々は息をするのが辛かった。息苦しかった。
 ところがここ数年やけに居心地がいい。
スースーと風通しがいい。何のことはない、自分がオバサンになったからだった。社長も会長も理事長も、大きなククリでいえば、みんながダチの年齢になっていたからだった。
それでもエラソーなオジサンは生息していて、ワカゾーの日々を推測できない人は多い。
壁化している人の言葉はやはり壁の言葉にきこえる。コチコチ叩いて割ってあげると中から本物の姿と言葉が現れるらしい、ホントの話。


2007年9月22日『ピアフより長く生きて』

 ここのところ「エディット・ピアフ」漬けの毎日だ。
この人、日本における「美空ひばり」といってもいいシャンソン界の巨星で、
彼女の人生を題材にした映画が封切られるのを前に、そのイベントに参加しているというわけなのだ。
 まあ、エディット・ピアフの「前座」といっていい。
上映の前に彼女の歌を6曲唄う。
自慢じゃないが、ハンパシャンソン歌手の私、これまでピアフの歌をほとんど唄ってこなかった。
47歳で死んだ時には、もうお婆さんに見える、そんな凄まじい人生を送った人の歌は、
どうも荷が勝ちすぎている。
 一番有名な「愛の讃歌」でさえ、タンゴ風にしたり、歌詞を変えたり、
ささやいてみたりと、様々に唄ってはきたものの「あなたの燃える手でー」と
唄い上げる、いわゆる「王道」バージョンは避けていた。
 ところが今回、このイベントを機に「クミコmeetsピアフ」なるミニアルバムを出してしまった。
オーケストラをバックに「心溶かす恋よー」と唄い上げてしまった。 
 大向こうに叫ぶ恋なんてしたことねえよ、と斜めにかしいでいた私だったが、
やってみると案外気もちがいい。愛はやはり大声で讃えられるべきものなのかもしれない。
 このイベント、札幌、名古屋が終わり、今週は福岡と大阪、そして来週が東京。
ピアフの「前座」はこの間に、また一つ年をとる。
これでピアフより6年も長生きしていることになる。もうコワいものなしだ。
 年を重ねるにつれ、立派にハダカが見せられればいいなあ、と思うようになった。
表現者はハダカを見せる商売なので、それがブザマでもなんでも、ウムをいわせぬものであればいい。
それには生き切って生き抜いていくこと、決して逃げたりしないこと。
 こう書いた所で誕生日の近い同い年の「アベくん」のことを思いだした。
まだまだこれからだよ人生は、ね、アベくん。


2007年9月8日『愛のエネルギー』

 それぞれの地方で、それぞれのヘアメイクの人を頼む。
たいていは、それぞれの良い仕事をしてくれて、次回もまた、ということになる。
 こうして何回も行くうち、いろんなことを話し、いろんなことを聞き、いろんな人生に出会うことになる。
 一見して外国人とわかる男性をアシスタントにする女性がいる。
イタリア人とふんで聞いてみると南米はチリの人。それも彼女の夫であるという。
ヘエエ、こりゃまたどうして、という所でその日の仕事は終わり、月日は過ぎ、またの再会。
 私、追いかけていっちゃったんですよ、チリに。
彼がこっちに留学してて帰国間際に出会って、アア、この人だと思って。でももう帰らなきゃっていうから。このチャンス逃したらダメだって思って、飛行機飛び乗って。
 何という情熱、決断とただただ驚き、その愛のエネルギーを讃える。
そうこうして次の再会。
 私ね、再婚なんです。前の夫、行ってきますって朝出ていったきり帰ってこなかったんです。心臓がちょっと悪かったけど、でもそんな大事になるようなもんじゃなくて。なのにもうそれっきり、それっきりですよお。
 「行ってきます」のあと「ただいま」をいえなかった人は沢山いる。
「おかえり」をいえなかった人も沢山いる。
 子供もね、二人いるんですけど、もう大人になったからね、もういいだろうって。この人と今一緒にならなきゃって、そう思っちゃったんですよ。
 十五年間、一人で子供を育てた母親は、そうして地球の反対側に次の夫を迎えにいったのだった。
 愛は突然やってくる。それは人生のチャンスと同じ、その時しっかりつかまえなきゃいけない、幸せそうな二人を見て思った。
だってどっちも逃げ足だけは早いんだから。


2007年8月25日『ゴマムシ』

 梅雨の中頃あたりから、夜になるとピチリピチリとちっちゃな黒いムシが出てくるようになった。
 ゴマよりもちっちゃなそのムシを、初めは不憫に思いソッとつまんでは窓の外に逃がしていたのだが、ある夜見回せば、天井とか白い壁とか、はては敷物とかに何匹も止まっている。
瞬間、頭の中にムシで埋めつくされる部屋の図が浮かんだ。
 それから私の夜毎のムシ殺戮が始まった。
素手というのはちょっとコワい。トイレットペーパーを少しずつちぎっては、そのゴマムシをつまみブチッと力を入れる。これで一巻の終わり。
最初はイキモノを殺すという心の痛みみたいなもんがチクッとしたが、何十匹もブチブチやってるうち、快感に変わってしまう。
 きっとこうして、人も人を殺すのに慣れてしまうんだろうなあ、ボンヤリ思う。
高層ビルの上から見れば人の姿などホントにこのゴマムシとおんなじだ。
あの一人一人に行くべき場所があって、帰るべき家もあって、大切な人もいて、なんて一つ一つ飲み込むように自分の頭にいい聞かせても、やっぱりゴマムシに見える。
 ゴマムシ、と勝手に名づけたこのムシ、実は哀れなほど無害だ。
ひたすら光のある方に飛んでいく。元気に動き回るのはほんのわずかな間、一ヶ所に止まるとそのうちフリーズして、やがて死んでいる。
レースのカーテンに止まったまま揺られているので触るとポトリと落ちる。
どこまで生きててどこから死んだのかわからない。
逃げ回るわけでもなく刺すわけでもない。いともたやすく捕まる。
無抵抗のガンジーみたいなムシだ。
 こういうのが手強い。モトを絶たなきゃとアチコチ発生場所を探してみるがわからない。
そんな訳で、このゴマムシ、別名ガンジームシのゲリラ戦は今夜も続き、私はトイレットペーパー片手に殺戮を開始するのである。


2007年8月11日『コワレモノの人間』

 「一本の鉛筆」という曲を唄っている。
「美空ひばり」が一九七四年の「第一回広島平和音楽祭」で創唱したものだ。
反戦歌といってもいい歌を「美空ひばり」が唄っていたというのは意外だったが、考えてみれば彼女もまた戦争の中で生まれ生きた人だった。
 これと似たタイトルの「エンピツが一本」という曲を、この夏に唄うことになった。
こちらはといえば「九ちゃん」の歌。「一本の鉛筆」より前、一九六七年に発表されている。当時活躍していたジャーナリスト「大森実」を励ますために「浜口庫之助」が作ったものらしい。
ペンは剣よりも強し、のメッセージが込められた、とはいうものの、そんなことはいわれてもわからない、九ちゃんに似合う明るく弾んだ曲になっている。
 そしてこの九ちゃんが、真夏の空に消えたのが今から二十二年前のこと。
ついこの前、ついこの前と思っているうち、もう時はこんなに過ぎてしまっていた。
あの蒸し暑い夜のことは今でもはっきり思い出せる。どこにいて何をしていたかも。
 パソコンもケータイもない時代だったが、あの頃私たちはもう奢っていた。
鳥のように飛べるものとどこかで思っていた。
でも飛行機はやっぱり鉄の塊で、落っこちれば人間などひとたまりもなくボロキレのように焼け朽ちてしまうものだと、改めて震えた。
ヒトはただのイキモノでコワレモノ、そういうことだった。
 「一本の鉛筆」も「エンピツが一本」も書かれている言葉は易しい。
易しいが「想い」は深い。頼りなく、でもかけがえのない、ただの一本のエンピツは、そのままコワレモノの人間に重なっていく。
 深夜テレビをつけると、硫黄島から奇跡の生還をした老人たちが映った。その一人がびっしりと文字の並んだ何冊ものノートを見せた。
書くこと記録することを語るその眼は、強い光を放っていた。


2007年7月28日『大きい人たち』

 これまで誰と会ったとか、誰と握手したとか、そんな話をしていて、誰からも必ず目を丸くされるのが、あの「オシム監督」だ。
シャンソン歌手とサッカー監督が、あまりに突拍子もないつながりだからか、ただ驚かれる。絶句される。
 「死ぬ時はサラエボと決めている」。
そのオシム監督の言葉に、胸の奥がジンと熱くなった。平和の祭典、冬季オリンピックさえ開催されたサラエボ、その後の過酷な内戦、今でも弾痕が残る建物のある街。
オシム監督に引きあわせてくれたのが、同じサラエボ出身で国民的歌手でもあったヤドランカさんだ。
日本に滞在中内戦が始まり、そのままこの国で活動を続けている。私を「イモート」と呼んでくれる大切な大切な友人。
そのヤドランカさんは画家でもあって、ある時個展を開いた。
夜にはそこでライブもするという。本来ならただ楽しい気持ちで赴いたはずが、あろうことか直前にヤドランカさんは故国で二人の妹を失くしていた。
どうしたらいいのかオロオロする気持ちで、共通の友人、作曲家の渡辺俊幸さんと出かけた。ドキドキしながら始まりを待つ。
現れたヤドランカさんは、やはり少しやつれ、でも軽い冗談をいいながら唄い始めた。
柔らかく優しく深いその声は、より一層柔らかく優しく深い。泣いているのは私たちだった。
私と四つしか違わないヤドランカさんは、いろんなものを失って唄っているのだった。
「力が抜けて這うような」地獄を見て唄っているのだった。
五十人ほどのその会場では、大使館の人を始め同胞たちが心を寄せ合うようにヤドランカさんの歌を聴いていた。その一人、オシム監督。その手はとてつもなく大きく厚く、まるであったかいグローブのようだった。
ヤドランカさんの国の人たちは、みんな大きい。
大きい哀しみと苦しみを越えた人たちだから、なお大きい。誇り高く大きい。


2007年7月14日『定食屋で人生勉強』

 先回、食べ物のことを書いたが今回もまた。というのは、行きつけの店ができたからで。それは「定食屋」。
日本の正しいご飯を、と書かれた看板がかかる、まあ、焼魚とかヒジキとか切干大根とか、そんなものを食せる店だ。
 駅近くのその店は、ついこの前まで「ジンギスカン屋」だった。メディアにもけっこう取り上げられ、店内にテレビカメラが入っていることもあった。
 ところがある日突然「定食屋」になった。いわゆる「居抜き」。
内装はほぼそのままで、ということは、やけに大きい排煙ダクトが店の真ん中にぶら下がっていたりするが、慣れてしまえばどうということもない。
カウンターに座ると奥に七輪が山積みされているが、それらも、羊から魚に焼くものが変わっただけで、
私ら別におんなじですからといわんばかり。なんということもない。
 ご飯は白米と六穀米から選べる。私はもちろん六穀米だが、こんなもん今時の若い人は食べないだろうと思っていると、若い人ほど六穀米、メタボオジサンは白米というチョイスだったりする。なあるほど、と社会勉強をした気になる。
 それにしても、あんなに流行ったジンギスカン屋から何で定食屋にと、経営者らしいオジサンを盗み見る。
何回通ってもお愛想ひとついわず、ありがとうございますの上に「毎度」もつけない不愛想このうえないソッケナサ。
このあたりにどうやら何かしらの秘密がありそうだ。そしてもうひとつ、音楽。
 店に流れるのは、決まって七〇年代の洋楽。アバとかシュープリームスとか。
ダイアナ・ロスの変に甘ったるい声を聴きながら、アジの開きをかじると、あの時代の空気と自分自身の来し方、ここのオジサンの来し方が、だぶってあぶり出されてくる。
 定食屋で人生勉強をする。こんなオイシイことはない。


2007年6月16日『恐るべしハクビシン』

 夜道をほろ酔いで歩いていると、数メートル先を、ナニモノかが横切った。
やけに平たく伸びた姿。フェレットか、と思ったらどうやら違う。これまで見たこともないモノ。
 「ハクビシンだ」、連れが叫ぶ。
え、ハクビシン。ハクビシンって、あのハクビシンと、どこを指して「あの」なんだかわからないまま、ただ驚く。
 ほんの一瞬のできごとだ。こんな都会のまん中、人通りの多いコンビニの前をスーッと横切ったモノ。ネコより低く静かに。
でもネコと違うのは、電柱脇に立てかけてあった自転車二台をひっくり返したこと。ネコなら何物の間でもくねりながら、ソソソと跡かたもなく消え去っていく。
さすがに野性の生きモノだけのことはある。粗暴だ。
 目撃者はおそらく三人。私たち二人と、ちょっと前を歩いていたサラリーマン。
この男性も頭の中にクエスチョンマークを点したまま帰宅したに違いない。
そして私と同じように、すぐパソコンのスイッチを入れ検索したに違いない。「ハクビシンって何」。
 どうやらコイツ、そこらにいても不思議はない生きモノらしい。
害獣駆除の項もあるくらいで、性格は凶暴。夜行性で屋根裏などに住みついてしまうらしい。
そういえばSARSが流行った時には、その元凶のようにいわれたこともあった。
 翌朝、区役所に電話をかけた。
ハクビシン見たんですけど。保健所に回された電話口で係員は、まあ、自然界の生きモノなので、別に自然の中で殖えてもいないようなので、自然淘汰してしまうというのもありますし、とやたら自然を強調するが歯切れが悪い。
じゃあ、大変なことになったら、その時何とかするってことですね、と念を押すと、エ、まあそういうことでと、ひるんだ声を出す。
 ハクビシンの自然淘汰かあ。人間も含め都会のヤワな生きモノたちが太刀打ちできるんだろうか。
恐るべしハクビシン。


2007年6月2日『スズメの涙』

 ああ困ったなあ、と思った。
いい話のようではあるけれど、どうも困った。よくよく考えてみるとなお困った。
テレビで盛んに映された「しゃべるスズメ」の話だ。
 あのね、私、ケガしちゃって助けられたんですねえ、この付近の人たちに。
そんでもって手厚い手当てを受けて、ヤレヤレ九死に一生って思ってたら、そのままカゴに入れられちゃった。そりゃ、すぐさま放してくれるとは思ってなかったけど、まさか飼われるとも思ってなかった。
 だって私、スズメですよ、スズメ。文鳥とかカナリヤとかインコじゃないんです。野鳥ってやつ。自分でエサ探して生きてくって種類の鳥。
つまりまあ、元々生まれが違うわけですよ、飼われるやつとは。
 そんでもって、どういうわけか、店先らしいとこに置かれちゃった。
窓の外にはこの前まで自由に飛んでた空が見えるんですけど、私は狭いカゴの中。
チュンチュンチュンチュンいってるしかない。
 そしたらまあ、あなた、驚いたことにここのおばあちゃんが話しかけるんですよ、私に。オハヨウ、コンチワ、コンバンワ、イラッシャイ、アリガトウ。
なんせおばあちゃんヒマでしょう。一日中、一日中ですよ、私に話しかける。
私ときたらホラ逃げ場がないでしょう。もうノイローゼになりかけて。
 ところがある日、突然その言葉がクチバシから飛び出した。自分でもびっくり。訳がわからない。おばあちゃんもびっくり、みんなもびっくり。
 次の日からテレビカメラやらレポーターやらがドサドサやってきて、こんなちっちゃい町は大騒ぎ。スズメの恩返しだって。
こんなもんで恩返しっていわれるなら、いくらでもやりますけど、もうそろそろいいんじゃないですか。
このまま一生この狭いカゴの中で、もっと色んな言葉を一日中浴びせられるんですかね、私。ああ、空が飛びたい。


2007年5月19日『子供ってすごい』

 所々でまだ下ろしていない「鯉のぼり」が風にハタハタはためいているのを見ると、うれしい。
 先だって行った兵庫県の川べりには、その「鯉のぼり」たちがズラッと並んでいて壮観だった。
ただ、風がないと沢山の「目刺し」が立っているように見えてしまうので困る。
反対に勢いよく風が吹いてプワッとふくらんだ鯉たちは、丸々とおいしそうで生ツバを飲み込みそうになる。
 「子供」に込められた想いが、そんな「鯉のぼり」にあらわされているのだと、年を重ねたこのごろ、やっと腑に落ちてきた。
 熱い塊のような「子供」の体に触れると、それだけでウキウキする。ありがたくなる。あんなに子供嫌いだったことが信じられない。きっと自分が子供だったせいだ。
 子供を持たない友人知人はたくさんいる。成り行きで子供を持てなかったという人も、相手がねえ、という人もいるし、私のようにまったく人生設計図の中に子供が入っていなかったという人も、少しはいる。
 そんな人生設計図など、相手のオトコがやたら子供好きだったりすれば、またたく間に変更修正になったろうが、幸か不幸かそういう相手がいなかった。
 一人っ子で生きてきて一人暮らし。「一人」は性に合ってはいるが、もし「今度」があるなら、それこそ貸し切りバス一杯になるくらい産んでみてもいいなあと思う。
 時々、子供連れで来てくれるファンの方もいて、そんな時はちっちゃい子でもおっきい子でも、抱きしめたくなる。ムズムズと子供の匂いがして、生命ってこんな風に流れていくんだなあと実感できる。
この子たちがこれから生きていく何十年を思うことができる。
生きていかねばならない社会のことを思うことができる。
 責任あるなあ、急に背筋を伸ばしたりする。
子供ってやっぱりすごい。


2007年4月28日『あるがままに』

 同じ「ソン」が付いても、シャンソンは農村山村漁村には流れない。というのを口ぐせのようにいってきた。
だからこそ、そういった場所に流れる歌を唄う歌手になりたい、ともいってきた。
 とはいっても、実際どういう人たちを目の前に唄うのかといったら、なかなか実感できる機会はない。
これまで私の立つステージから見える人々は、ナンダカンダいっても、やっぱり統一感があった。
まったく私自身のコンサートではないにしても、だ。
 先日、公開生放送のあったスタジオでは、だから本当に驚いた。
そうか、世の中はこんなふうにさまざまな人々がいるのだ。
私以外は演歌をフィールドにしている歌手ばかりというせいなのだろうか。
オジイサンに近いオジサンまでもがペンライトや団扇持参で、お気に入りの歌手の名前を叫ぶ。
叫ぶというより怒鳴る。
 怖いもの見たさで、セットのすき間から客席を覗く。不思議なことにだんだん胸が熱くなってくる。
日常の一日一日を、それこそ地道に生き暮らしているであろう人たちが、それぞれにハジける瞬間を目のあたりにして、これぞ芸能の原点と思った。
 そんな中の私の出番。じゃあ、私はどうする。
媚びずへつらわず、あるがままに唄うことだけなのだ。
人間、みいんなおんなじ。たいそうに変わるわけもない。伝えたいのはやっぱり人間。人間のココロ。
 4曲を唄い、会場から外へ出るとオバサンたちが駆け寄ってきた。
 「涙でちゃった。一緒に写真とってね。」
 やっぱり、これからもあきらめず農村山村漁村に流れる歌を目指そう、とまた思う。
 というわけで、この連休の始まり29日と30日に、梅田のシアタードラマシティでコンサートをする。
大阪は大都会だけれど、きっとまたさまざまな方が来てくださるだろう。
 私、クミコ。52歳と7ヶ月。
このまんまで背筋を伸ばして唄います。


2007年3月31日『趣味は「ナンプレ」』

 取材などで「趣味は」と聞かれるたび、恥ずかしい。
恥ずかしいほど趣味が、ない。
 これまでは「散歩」などでお茶をにごしていたが、先だっては「ナンプレ」と口走ってしまった。
 「ナンプレ」。「数独」ともいう数字パズルだが、これを趣味といえるかどうかは別にして、けっこう面白い。ハマる。
アッという間に1時間くらいたっている。ツブしていい時間などあるはずもないが、なあんにも他のことを考えずに過ごせる時間というのも貴重だ。
おまけにホントかウソか「脳を鍛える」効果もあると書いてある。ますますうれしい。
 この「ナンプレ」をクロスワードパズル好きの母親は、難しくわからないという。
これこれこうやって、と説明しても、はなからヒイテル人間にとっては何の意味もない。耳に入らない。
 母親の脳は大丈夫だろうか、と心中不安になるが、今度はその母親が父親のことを、テレビ見ててもパパは全然わかっちゃいない、という。回想シーンが出てくると、もういけない。時間の前後関係、はたまた登場人物の顔までゴッチャになって、そんなことをイチイチ説明してたらヤンなっちゃう、と母親は怒るのである。
 母親も、父親も、心配になる。
 ところが、その子供の私も、近頃ではヤヤコシイ映画がおっくうになってきた。はっきりせんか、はっきり。
理不尽な怒りまでこみあげてくる。
 こうなってはもう、出てきた瞬間誰が悪人かわかる時代劇しかないんだろうかと、心細くなる。
「ナンプレ」やってもアタマ良くなってないじゃん、と思う。
 そんなグチを聞いていた友人がいう。辛抱なくなってきてんのよね、年とって。家の夫なんてフランス映画もう見ないもん。
 せっせと「ナンプレ」して、フランス映画見よう。


2007年3月17日『ペコちゃんポコちゃん』

 ここのところ、ご無沙汰気味のペコちゃん人形だが、その昔から「ペコちゃんポコちゃん」の2人は子供のアイドルだった。
 ずいぶん前、女の子だからペコちゃん、男の子だからポコちゃんと、誰かに神妙な顔つきで説明されナルホドと納得してから、どっちがどっちだったか迷うことはなくなった。
 男と女の「違い」が、こんなキャラクター人形の名前ひとつで明らかになるというのがおかしいといえばおかしい。
 そのペコちゃんサイドの私の母親が、女医さんのいる病院に連れていってくれという。
 役目をすでに終えた臓器は、ただそこにあるというだけで、地球の引力により、時としてひどく面倒なことになる。母親が女という性をもつものだと、子供としてはあまり思いたくないが、よくよく考えれば、その臓器こそが、
私自身を育んでくれた所、いいかえれば元の場所、元の部屋、母親はそこの大家だったといえないこともない。
 なんとも大層お世話になったことでもあるので無下になどできるものではない。
 「人生の縮図よね」。
見渡して母親がつぶやく。なるほど、病院の待合室には10代から70代の私の母親までのペコちゃんたちが、ぎっしり座っている。
 若いポコちゃんが若いペコちゃんに、少し恥ずかし気に寄り添っていたりするが、年老いたポコちゃんを見ることは、まずない。おそらく自分のことで手一杯になるせいだろう。 
 「101回目のプロポーズじゃなくて?」。
若いポコちゃんの小さな声がする。待合室の絵本を手にした若いペコちゃんが答える。
「違うの、100万回生きたネコ」。
 沢山の子猫を産んで、先に死んだメス猫を前に、溶けるほど泣き叫ぶオス猫の顔の絵を思いだした。
 その絵本、2人で読むといいね。ネコが100万回生きちゃうの、とまだ不思議そうな声をききながら、心底思った。


2007年3月3日『「弾み」の芸』

 あれはいつのことだったか。
友人の作詞家、作曲家、そしてプロデューサーの4人で飲み会をしていたときのこと。誰かがいった。
「今度、藤山直美さんが朝の連ドラで主演するらしい」
 それだけで藤山直美ファンの私はいきり立った。
いきり立ってぜひとも主題歌を唄いたいと思った。強引な思いつきではある。
この強引な思いつきに全員がいきり立って、ついにこの集まりを「芋たこ会」と命名したのだった。
 作詞家と作曲家と歌手とプロデューサー、幸というか不幸というか、まあノリの良さも手伝って「芋たこ会」の「その気」はとどまるところを知らない。
 大阪だからブギがいいよ、「芋たこブギ」なんてどうかな。
笠置シヅ子のファンでもある私は、自分が地団駄を踏むように唄う姿まで想像しワクワクした。
 結果は、皆様ご存じの通り、ブギとは似ても似つかぬ爽やかな歌声。
まあ、いい夢を見させてもらった、ということで、相変わらず「芋たこ会」のまま飲み会は続いている。
 藤山直美さんを見ていると「弾み」という言葉がいつも浮かぶ。何でもこいという男気のような包容力の中に、
一つ一つの感情のヒダを丁寧に見せてくれる。
豪放で繊細、伸縮自在なその芸は見るものを幸せにしてくれる。ちょっと落ち込んでいても、藤山さんを見ると元気になる。
人間てイイジャンと思う。「弾み」のある芸は人を弾ませる。
 そして藤山さんに弾ませてもらう度に、私もそういう歌い手になりたいと、いつも思う。
 あの歌もこの歌も、悲しい歌も明るい歌も、クミコさんの歌を聴くと人間てイイジャンと思えるんだよ、といわれる歌い手になりたいと思う。
 朝の連ドラ女優になりたくて入った学生劇団で、唄うことの喜びを知り歌手になった私の、これが究極の「夢」である。


2007年2月17日『スーパー老人』

 「老人力」という言葉があった。
「老人」を逆手にとってのポジティヴな発想転換の生き方みたいな話だったが、このところ、そんなものをヒョイと飛び超えた「スーパー老人」に圧倒されている。
 82歳になるシャルル・アズナブールの公演はすごかった。
水も飲まずノンストップで唄い切るその姿は、甘く苦く凛々しく、まさしく歌手の最高級品という感じ。
 計算しつくされたそれらの歌たちの、時おりフラットする音程や、速いステップを踏む足元や、
深いおじぎの時の膝や腰や、そんなことについドキドキハラハラしてしまうのも、
これまた「スーパー老人」の落語家に対するのにも似て、何ともぜいたくな心配を与えてくれる人なのだった。
 彼の唄う歌は、50年前のものなどザラでそれこそこれまでに何百回何千回と唄ってきたはずなのに、
いまなお、そこに初めて現れたかのように端端しい。
カラダよりココロを端端しく保つのは何百倍も難しいことのはずなのだ。
伸びた背筋に、こちらも思わず背筋を伸ばす。
 そんな私が、今月21日に新しいアルバムを出す。
70年代の歌を中心としたもので、私にとっては16歳から25歳までの若者まっただ中、街に流れていた歌たちだ。
 「十年」というアルバムタイトルは、今回、中島みゆきさんに書き下ろしてもらったオリジナル曲の題名でもあって、
たった一人のオトコを思い続け、その人の幸せを思い、アレレ、10年たってしまった、そんな歌だ。
 「十年なんてほんのひとつ、恋ひとつぶんね」の歌詞がズシンと胸に落ちる。
10年を二つ合わせて20年、もう一つ合わせて30年。アッという間にアズナブールと同じ歳になる。
 「スーパー老人」は「老人」ではない。
若者と老人をあわせ持った最強の生き物だ。
 いつの日か「サフイウモノニ ワタシハ ナリタイ」。


2007年2月3日「納豆の災難」

 夫だった人が神戸の人だったので、結婚しているときに納豆を食べるのは、少し遠慮があった。
冗談にしても、そんなモン食べ物じゃないよといわれると、こんな小さな国にも文化の違いはあるのだなあとただ感心してしまったものだった。
 私の両親は水戸の人間である。そんな訳で小さいころから納豆には特別の思い入れがあった。
天狗の顔のついた納豆は、父や母、祖父や祖母、そしてもっと遥かに繋がる大きな流れのようなものを思いださせた。その地で生まれた食べ物は、その地で生きている人とおんなじ。
「ルーツ」といっていいかもしれない。
 だから今でも物産店などで、ぶら下がっている「わらづと納豆」を見ると、何十年も昔、帰京する私にいつまでも手を振っていた祖母の姿が重なってしまう。
 その納豆が災難にあった。人の災難ではなく、納豆の災難。もっといえば食べ物の災難。
 それにしても、人を痩せさせるためにある食べ物なんて、この世にあるんだろうか。そんな風にいわれた食べ物は不幸だ。これこれこうして食べると必ず痩せるなんて、食べ物にすごく失礼な話だと思う。
 「いただきます」
 他の生物の生命をいただいて、わが身の生命にさせてもらう。人と食べ物の関係だったはずだ。
 とはいえ、思春期太りに悩んだ私も肥満の苦しみは理解できる。どうしたら痩せるか。コレがいいといえばコレ、アレがいいといえばアレ、買い求める私に友人が冷たくいった。
 「太るのにお金かかってるのに、痩せるのにもお金をかけるなんて」
 今、冷蔵庫の中には冷凍室から移しかえた納豆パックがひとつ。賞味期限寸前にとりあえず冷凍させたものだ。
あのお、もっとおいしい時に食べてもらいたかったんですけど。
幾分茶色を増した豆がそういっている。


2007年1月20日『降ってわいたパリ行き』

 バリには行っても、パリには行ったことがない、というのを半ば自慢にしていた私が、
ついにフランスはパリに行くことになった。
 新年早々、4日の出発。突然決まった話でもあり、今年の正月は生きた心地がしなかった。
なんせ、右も左もフランス語も(大学の時かじっただけで)、とにかくすべてがわからない。
そのパリにたった1人で行くことを思うと、テレビに映るのんびりとした正月風景を見ては1人キリキリとしていた。
 パリ行きを、降ってわいた災難などといってはバチがあたる。
けれど、気の合う人間とワイワイガヤガヤ期待に胸弾ませ発つ旅とは程遠い、仕事がらみの一人旅だ。
 パスポートもとうに期限切れで、あわてて暮れも押しつまった旅券課にかけこんだ。
年内最終業務日、新しいパスポートをやっと手にした途端ホッと安心し、そのまま同じフロアにある「献血ルーム」を訪ね、初めて「成分献血」なるものをした。
 旅券課の隣、旗を持った呼び込みの男性が「皆さんの幸せを、今困って苦しんでいる人に少し分けてあげてください」といっていたからだ。うまい手だ。
 Bの形をしたストラップを、外国仕様に変えたケータイ電話にくくりつけ、パリのにわか勉強を始めた。
暇があるとお金が尽きるまでパリを放浪するという友人のレクチャーを受け、すっかり耳年増状態で出かけたパリ。
 着いた空港で迷い、モンマルトルでデジカメを落とし、ポンヌフで雨にぬれ、
アズナヴールさんのインタビューついでに、本家の前で「コメディアン」の一節を唄い、
ビストロで昼酒に酔い、ベルナールさんをベルちゃんと呼び、言葉が通じないとシャンソンを日本語で唄ってごまかし、ジェットコースターのような4日間だった。
 行かないよりは行った方がいい。しないよりはした方がいい。
パリも献血も、くせになりそうだ。


2007年1月6日『スケジュール帳』

 新年早々のこのコラムを、実は年の瀬に書いているわけで、落ちついた新年松の内に思いをはせながら、バタバタとせわしない師走に身を置いているのも不思議な気分だ。
 そういえば、新しい「スケジュール帳」を買ったのも、ごく最近。遅かった。
 ここ10年くらい、小ぶりのそれを「日記帳」がわりにし、左ページに天気と、その日食べたもの。
右ページに、その日のできごとを3行ぐらい、とごくごく簡単な記録をつけてきた。
 何の役に立つかといえば、ある日突然、アリバイなど聞かれたときあわてずにすむから、というのは冗談にしても、
食べたものを記録しておけば、体調不良や、太ったりやせたりの原因を探る手がかりになる。
 それより以前、精神不安定になると、極端に食べたり食べなかったりと、メチャクチャな食生活をしていた私には、これがとても救いになった。
 食べものに逃げ込む自分を客観視することで、心が落ちつき、それ以来、自暴自棄的食生活に戻ったことはない。
 これと同じ、3行程度の日記もどきも、やはり精神安定の役に立つ。
悔しいこと、悲しいこと、うれしいことが「書く」という作業で、これまた客観視できる。
日常のデコボコを人生という長い目で見られるようになる。
 すべてのことは、良いことも悪いことも、ずっと続くものではなく、でも心持ちひとつでもしかしたら、
状況は変わるのかもしれない。生きやすくなるのかもしれない。そんなことが少しずつわかってきた。
 混雑する12月もおしせまったデパートの文具売場。
10月のスケジュールから書き込めるタイプのものが増えているのに驚く。4月からのが欲しいという声も聞こえる。
時代はどんどんどんどん前倒しになっているらしい。1年の区切りも人によってこれだけ違うのだ。
「長い目」を持つにこしたことはない。



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