第1回「わが麗しき恋物語」
>>ウフ. No.200311
 「バルバラ」というオンナのヒトが作ったシャンソン。
 夏も冬も越えた、長い「人生」という旅路の果て、たどりつくところ、それはアナタ。
私の一番美しい愛の物語、それはアナタ。と、まあこれが原詞。
 そのシャンソンが、「覚和歌子」という、当代きっての言葉の達人によって、日本中のどこの風景にも似合ってしまう、「歌謡曲」のような歌になった。
 たしかに、モンマルトルやパリにだけ、愛の物語はあるのではない訳で、この国の、そこここ、たとえば、私の住む「中野」にだって、オトコとオンナの愛の物語は、ある。


 十五年以上も前のある日、中野駅に降り立ってから、北へ行ったり、南へ行ったり、東へ行ったり、西へ行ったりしながら、この周辺に住みつづけている。
 去年の十二月にまた、以前住んでいた場所の近くに越したのだけれど、気になる店がひとつあった。八年前に住んでいた時にも気になっていた店で、戻ってもやっぱり気になる店だった。

 一軒のかなり古い古本屋。古い煎餅屋の斜め向かい、古い牛乳屋の隣り、おじいさんとおばあさんが二人でやっている古本屋だ。
 一回だけ入ったことがある。むせ返るような古本の匂いの中、一冊を手に取った覚えがある。フランスの作家のもので、確かエイズで死にゆくヒトの話だったように思う。買った覚えもある。いい本を買った、という気持ちになった覚えもある。なのに、その後一回も読んだ覚えがない。あれは錯覚だったのか、夢だったのか、奥まった場所から、その本を手渡してくれたヒトのことまで、すべてが、もうボンヤリしてしまっている。

 その店のおばあさんは、時々店の外に立っていた。背の低い、小太りのヒトで、ちょっと足を引きずっていた。そして大体いつも赤いモノを着ていた。その頃は、店の外にも、本が並べられていたので、その本棚の隙間から、選挙ポスターが覗いていることがよくあった。いつも「共産党」だった。
 ハハーン、それで赤い服なのだ、と納得した。急に「ルパシカ」や「ボルガ」や、「人民の夢」や、「地下組織」や、「半地下の部屋に入りこむ一筋の光」まで、見えたような気がした。
 おじいさんは、ほとんど見かけなかった。店の上にある部屋で、日がな一日読書をしているのだろう、と思った。そしてそれは、「いろいろあったけど、今はひっそりと古本屋を営むオトコ」を選んだヒトの一日として、ごく当然のことのような気がした。

 八年後に、古い煎餅屋と古い牛乳屋と古い古本屋のある街に戻った時は、ビックリした。古本屋だけが「呼吸」をしていない。
 何があったのか、店の入り口が開けられることはなく、いつも黄ばんだ布のカーテンがぶら下がる店の中の本たちも、もう死んでしまっているようだった。店の扉が閉じられている間に、本たちも、死に絶えているようだった。
 おじいさんとおばあさんは、どうしているんだろう、気になって仕方がない。世間とのかかわりを一切絶っているような、その店の前を通るたびに、胸騒ぎがした。
 閉じられたままの入り口の扉は、夜になるといつのまにか、薄い板のようなものでふさがれている。でも、店の「呼吸」は全く感じられない。死にゆくヒトのようだった。

 数ヶ月がたったある日、駅に向かう途中の坂道で、おじいさんと出会った。肩から斜めに、布のカバンをかけた姿は、まるで戦前のヒトといってもおかしくないほど、おじいさんの周りだけが、色が違ってみえた。昔ながらの黒いゴツい自転車を押しながら、一、二歩進んでは止まり、また、一、二歩進んでは止まり、止まっている時間はとても長く、三百メートルほど離れた店へ帰り着くのは、一体いつになるのだろうと心配になった。
 その時のおじいさんの目は「闇」を見ているようだった。このヒトは、もう何も、誰も見てはいない。道も私も世間も、何にも見ていない。ただ、自分の目の奥の「闇」を見ているようだった。
 その後、もう一度、おじいさんに出会った。セブンイレブンの角で、やはり自転車と共に、木に止まったセミのように、おじいさんは動かなかった。
 一回だけ、おばあさんも見た。店の中に半分突っ込まれたままの、黒い自転車の脇にポツンと立っていた。赤いレインコートの後ろ姿だった。

 店の隣りにある公園の桜が散った頃、突然表のベニヤ板に紙が貼られた。そこには、ヒトの名前らしきモノが大きく横書きされていて、「奉昭」と書かれた箇所に何本かの矢印が伸び、注釈がつけられている。「昭和に生まれた奉仕の男です」と読めた。カラダ中が、一気に冷たくなった。
 若い頃には、それこそ、ロシア人の青年のようだったであろう、長身で彫りの深い顔立ちのおじいさんは、「奉昭」さんだった。「昭和に生まれた奉仕の男」だった。そのヒトが、今こうして壊れかかっている。
 ベニヤ板の二ヶ所に貼られた、この紙に気づくヒトは、多分そういなかったと思う。それでも、一刻も早く、この紙がはがされることを祈った。私のカラダが風にさらされているような気がした。
 四、五日たって、ようやく紙がなくなった。この店の中で起こっていること、おじいさんとおばあさん、いや、オトコとオンナのこと、ニンゲンのこと、ニンゲンの時間のことが、頭の中でグルグル回った。店が時空の渦の中で回った。
 そしてその時、店は完全に「呼吸」を止めたようだった。切なかった。

 長い梅雨の中頃、店の中でヒトが動いた。カーテンも扉も大きく開けられ、オトコのヒトが三、四人でセッセと片づけをしている。本を積み重ね、まとめ、運び出していく。店の中と外を風が吹きぬけていった。
 そのオトコのヒトたちは、別段、近親者のようでもないらしい。ふと、バルバラの「ドルオー」という歌を思い出した。没落した貴族の老婦人が、競売にかけられていく屋敷のモノたちを前に、「本当はそれもこれも、私のモノなんです、私がいただきます」と心の中で叫ぶ、というやつだ。ジュウリンされるモノたち、想い出、人生、止められない時の流れの中の悲しい叫び。
「あ、それ、私らのですから」というおじいさんとおばあさんの声が聞こえた気がした。

 二、三日すると、店の中は最初からなんにもなかったようにポカーンときれいになってしまった。何ひとつ残されていない。
 ガラス戸から入る陽の光は、ここがこんなに陽当たりの良い場所だったことを教えるように、キラキラしていた。
 おじいさんとおばあさんが、どうなってしまったのか、どこへいってしまったのか、知らない。知ってはいけないことのような気がした。
 ガラーンとした店の中には、それでも、オトコとオンナの何十年かの記憶がアチコチに残っているみたいだった。灰色の床と、始めは真っ白だったかもしれない扉や窓枠を見ながら、カラー映画が、突然、白黒映画に変わってしまったような寂しさと懐かしさがよぎった。チクンとした。

 真夏のある日、それまで、どうにでもしてといった店のガラス戸全部に、白いビニールのカーテンがかけられ、四角いシールが一枚、ペッタリ貼られた。どうやら新しい持ち主が決まったらしい。事務所にでもなるのだろう。無愛想なほどサッパリとした、そのシールは、これから入る会社名らしかった。薄暗い街燈の下にポッカリと文字が浮かんだ。

   「ホープ・HOPE」

「わが麗しき恋物語」、コンサートでバルバラは、この歌を客席に投げかけるように唄う。
 私の一番美しい愛の物語は「あなたがた」なのだと。
 その言葉たちはメロディーに乗って、まるで聖水のように、人々の上に降っていく。
 パラパラきらめきながら。
 それはまるで、「絶望」の中にキラリと光る、ちっちゃな「希望」のようだ。


第2回「アカシアの雨がやむとき」
>>ウフ. No.200312
 日曜の朝、オトコに捨てられる夢を見た。夢の中で、「あのヒトが好きなのね、好きなのね」と念を押している。いいながら、夢の中でもこのセリフはたしか、越路吹雪のシャンソンの中にあったなあ、と思っている。
 ついに決めゼリフをいう。
「あのヒトと私と、どっちがいいの」
 無言のオトコを見ながら、私は自分が捨てられたことを知る。驚いたことに、その時私は「コーン」と泣いたのだった。まるで鶴の一声のように。
 目が覚めると、通り雨の音がしていた。


「アカシアの雨がやむとき」、一九六〇年、昭和三十五年のヒット曲。「西田佐知子」がノンビブラートの声で、でも奥底に、ある「あきらめ」のようなモノをたたえながら唄っていた。

 この詞を書いた「水木かおる」というヒトは、そのかぐわしいような名前から、オンナのヒトのようでもあるが、実際はオトコのヒトで、どうやら、アメリカ現代文学の作家、スコット・フィッツジェラルドの『雨の朝巴里に死す』という小説を下敷きにして書いたらしい。そういえば、どことなく異国の匂いがする。

 オトコに捨てられたオンナには未練が残る。別れるくらいなら死んでしまいたい。あてつけでも死んでしまいたい。恨んで恨んで、しっとり恨んで死んでしまいたい、恨みつらみの歌である。
 けれど、この歌の三番で、オンナは鳩になるのだ。青空さして翔ぶ鳩になるのだ。ああ、良かった、魂は救われた、これは「恩讐の彼方に」の歌だと思うと、そうはいかない。ベンチの片隅には、抜け殻になったカラダが残っている。カラダはいらない、ココロだけでオトコを追いかける。すさまじい愛の歌である。それでも、やはり「あきらめ」の歌である。

 自民党の幹事長になった安倍さんが、エピソードを語っているのを見て驚いた。
「ぼくの子供の頃、アンポ! ハンタイ! というシュプレヒコールが盛んで、ぼくも家の中でアンポ! ハンタイ! といって遊んでいると、父親が、コラ、お前、アンポ! サンセイ! といえ、と怒ったんですよ」

 安倍さんのおじいさんは岸信介という安保闘争の火種みたいなヒトだから、これはおかしい。おかしいがビックリしたのは、私も「アンポハンタイ遊び」をしていたことだ。それもそのはず、安倍さんは昭和二十九年生まれ、同学年なのだった。
 へえー、みんなやってたんだ、アンポハンタイ遊び。
 安倍さんが急に幼なじみにみえた。
 長いロープをひとつの輪にして、その中に四、五人が入って走る、いわゆる「電車ごっこ」はその頃「アンポハンタイごっこ」に変わっていた。「シュッポ! シュッポ!」が「アンポ! ハンタイ! アンポ! ハンタイ!」に変わっていた。
 私も安倍さんも六歳の時のことだ。それにしても六歳の子供にさえ届いた、この大人たちのシュプレヒコール。ラジオもテレビも数少ない一九六〇年に吹いていた時代の風は一体どんな強さだったんだろう。想像もつかない。

「安保闘争」の映像を見るのは、ずーっと後になってから、私が大人になってからのニュース映像だ。国会議事堂前の広場になだれ込むデモ隊と、それを阻止しようとする警官隊。ヘルメット、木刀、殴り殴られる人々。そして一人のオンナのヒトの写真を胸に抗議の行進をする人々の群れ。
「樺美智子」という、騒動の中で死んでしまった女子学生の遺影を先頭に、歩きつづける人々の上からは、雨。モノクロ映像の中でキラキラと光る白い雨。
 そんな時、BGMとして流れるのが、この「アカシアの雨がやむとき」なのだ。行進する人々の濡れた足元に流れる歌は、まるで「ご詠歌」のようで、そこには、大きな大きな「あきらめ」が横たわっている。時代の中で生まれた歌、時代と切り離せない歌、この歌は、この時、「歌を超えてしまった歌」になっていたのだった。

 雨の日は悲しい、と思っていた。雨の日に起きることは、後から思うとみんな悲しい色に変わってしまう気がしていた。

 小学校一年か二年の時、雨が降る小窓の外をじっと見ていた。今日、Oさんのお嫁さんが来る、と母親がいっていたからだ。Oさんは、同じ会社の寮に住む、物静かなヒトで、そのヒトのところにお嫁さんがやって来るというのだった。
 冷たい雨の中、お嫁さんはやって来た。お嫁さんといっても、白いブラウスと黒いスカート、誰かに連れられ、傘に隠れるように歩いている。
 いいヒトだ、と思った。何だかさみしそうで哀しそうで。
 やっぱりさみしそうで哀しそうなOさんとお嫁さんは、それから仲良く暮らしていた。
 しばらくたったある朝、Oさんが入院した。ココロが少し壊れてしまったらしかった。後にお嫁さんが残った。
 それから間もなく、私たちも父の転勤でその寮を出ていった。
 後年、そのお嫁さんが、Oさんに代わって会社に入り、たくましく働いて子供を育て上げ、今では幸せに暮らしていると聞いても、私の中のそのヒトは、今でも小さな窓から見た、さみしそうで哀しそうな雨の中のお嫁さんなのだ。

 祖母が死んだ時は、どしゃ降りだった。横たわる遺体を囲んで私の母親をはじめ、叔父叔母たちが、ビショビショと泣いた。部屋中が湿気で冷たく重たくなった。
 そのうち、お棺を運び出すことになった。二階から一階へ降ろさなければならない。棺をオトコたちが担ぎ上げた時、オンナたちの泣き声がクライマックスを迎えた。「ギャーン」と聞こえた。「泣きオンナ」という言葉がうかんだ。
 オトコたちの担いだ棺が急な階段にさしかかった。グラリとした。
 アラララ、アラララ、どうにも定まらない。アラララ、アラララ、やだあ、落っことさないでよ、おばあちゃん、誰かが叫んだ。みんなが笑った。もう、泣いてんだか、笑ってんだか、といってはみんなが泣いて笑った。雨はあいかわらずザンザン降り。雨の音とヒトの声が、バケツに入った具だくさんの味噌汁をぶちまけたように、そこら中にひびいた。

「どしゃ降り」と書いていて思い出した。人生をチョロく考えていた私の最初の挫折はヤマハのポピュラーソングコンテスト、略して『ポプコン』だった。なかなかに良い作品だったせいで、順調に予選通過をしていった私たちのバンドは、ついに中野サンプラザでの、「関東甲信越大会」に出場した。うまくいけば、まあ優勝かも、などとタカをくくったのが大間違い。ステージでスポットライトの中、歌詞を忘れて立ちつくした。その時の歌が「どしゃ降りずぶ濡れしどろもどろ」。
 何ともまあ、ベタな題名だが、内容もまさにその通り。
 どしゃ降りの中、オトコの部屋を訪ねたアタシが見たのは、見知らぬオンナと抱き合うオトコの姿。その場を逃げるように立ち去るアタシのカラダには、どしゃ降りの雨。

 この歌は三拍子の、どちらかというとシャンソン風な味わいのある曲として生まれたが、ヒトの手を経るうち、いつしか、その頃流行のツインギターによる「ギエーン、ギエーン」という「泣き」の入る、ロック調の曲に変貌していった。小さくつぶやいていた悲しみが、拡声器で叫んでいるような歌に変わった時、この歌は滑稽な歌になった。悲しみのサイズの合わない歌になった。

 あれから二十四年。年を重ねてわかったこと、それは、雨の日より悲しいのは晴れの日だということ。それも年に何度もないような美しい晴れの日。
「死ねたらいいのに、こんないい日には」とシャンソンの一節にあるような、そんな日。


 窓の外で鳴る通り雨の音を聞きながら、アカシアの雨の中で捨てられたオンナのことを考えた。雨の中で泣いているオンナのことを考えた。
 もしかしたら、このオンナが一番おそれていたのは、雨が上がった後の澄みきった美しい青空だったのかもしれないなあ、そんなことを思った。


第3回「愛しかないとき」
>>ウフ. No.200401
 衆院選の投票ついでに、買物をすませ歩いていると、「タータタッター、タータタッター」と、トランペットの音が、駅近くの公園の方から聞こえる。ここは、管楽器を吹くヒトの練習場所として有名で、なかなかにうまいヒトもいるのだが、今日は、まあ、下の上といったところか。
「タータタッター」はどうやら、「マック・ザ・ナイフ」のメロディーらしい。この曲を今は「お定のモリタート」として唄っている私だが、かつては、ジャズシンガーに憧れ、「オン・ザ・シャーク・ハズ!」と勢いよく「エラ・フィッツジェラルド」になった気分で唄っていた。ほらね、エラに似てるでしょ、というと、友人は「エロ・フィッツジェラルドだなあ」といった。

 夏の終わりの頃、この公園の近くの横断歩道で、やっぱり買物袋を提げ、信号が青に変わるのを待っていた。向かい側には、ベビーカーを押した若夫婦。信号が青に変わる。真ん中ですれ違う。その時、急に私の背にあった夕陽が、その若夫婦の顔にハラリとあたった。まるで後光が正面から差したように。
 ア、ヤバイ、と思うまもなく、二、三歩行った私の目から涙があふれた。光に包まれた幸せそうな家族の姿を見て泣くなんて、いかにも情けない。そんなに、私って弱っていたんだろうか、と愕然とし、身震いした。それから、一体これって何なんだ、と自問自答した。

 あのねえ、あれって「愛」ってことなんじゃないでしょうか。「愛」っていうものの「カタチ」を見せられてしまったような。「愛」の神々しさを「カタチ」にされちゃったような。それで、うろたえちゃって涙しちゃったということですか。漠然としていたはずの「愛」の「カタチ」に動揺したという、まあこんなところでしょうか。それにしても、あなた、「愛」なんて唄ってるけど、本当は「愛」にカツえてるんじゃないんですか。
 容赦のない結論だった。

「愛しかないとき」、ジャック・ブレルというヒトの作ったシャンソン。他に「愛さえあれば」という題名で唄っているヒトもいる。いずれにしても、「愛」こそすべて、「愛」しかヒトを救えない、といっている点では同じ。

 アンナ・プリュクナルというポーランドのオンナのヒトが「草月ホール」で唄うのを聴いた時、私も唄いたいと思った。ちょうど、「銀巴里」というシャンソン喫茶に入ってしばらくたった頃のこと。「サン・トワ・マミー」しか知らなくて、でもとりあえず唄える場所がほしいとオーディションを受けてみたら、神様のご意志なのか、ほぼ同時にやはりオーディションを受けたジャズ喫茶には落ち、「銀巴里」に合格したため、「シャンソン歌手」の道を歩き始めた、その頃だった。

 合格はしたものの、出演日には、あまりの緊張のため、銀座一丁目の駅から七丁目の店まで、ゼーゼーと這うように歩いて、途中、これではカラダがもたないと、屋台の「磯辺焼き」二つを強引に口の中に押し込み、飲み込み、蒼い顔をして辿りついた。
 まったくの「にわかシャンソン歌手」の私だったが、どうしても「社会」の歌が唄いたかった。パリやセーヌのことだけでなく、今の「社会」のことを唄いたかった。今の「愛」のことを唄いたかった。

 そんな時、この「愛しかないとき」に出会った。無力でもココロに愛を持とう、それが平和につながる、革ジャン姿のアンナ・プリュクナルが金髪のオカッパ頭を振り上げ、絶叫するように唄う姿に、すっかり感動した私は、自分の声も彼女のようにヒシャげてしまうまで火のように唄わねばならぬ、と思った。声を失ってもココロは残る、強く叫ぶことが「愛」を伝えるための唯一の手段だと思っていた。

 ところが、いざこの歌を唄おうとしたものの、良い日本語詞がない。そこで自分で書くことにした。題名をじっと見ているうち、ふと「愛」と「ない」は同時に存在するもののように思えてきた。「AI」は「NAI」。
 自作詞による初めてのステージ。ドキドキして息が続かず、最後に「アーイー」と叫んだ時には、もう卒倒寸前という有様。ふんばって、ふんばって、でもここまで、といった感じで、唄い終わると体重が一キロは減ったと思えるくらい憔悴した。憔悴しながら、戦っている気がした。

 その頃、恋をした。
「銀巴里」で唄う私にシンパシイを感じたらしいオトコが突然話しかけてきた。自分たちがやっているバンドにぜひ参加してほしい、ということだった。自分たちは言葉をとても大切にしている、社会と関わる音楽をしたい、というのもステキだった。
 店の外で話を聞くうち、白いシャツのそでをまくって話すオトコのジーパンに、ふと目がいった。膝のあたりの破れ目から白い肌がのぞいている。クラッとした。その時、もう恋に落ちていた。

 そのオトコは、確かに白いシャツとジーパンのようなオトコで、嫌みなく、正しい方向へ背筋を伸ばして生きていく、といった人間だった。
「ねえ、年とったら、シワのばし手術しようかな」という私に、「そんなことしたら、おいしい死に方ができないよ」と答えるオトコだった。

 恋をすると、恋しか目に入らなくなる。それから「銀巴里」のステージに立つ私は、まるで恋の合間に唄っているようなものだった。
 店の後ろのボイラー室で、オトコの膝にカラダをあずけ、あるいは、外で待つオトコにキスをするため、ハーハーと駆けていっては、また戻ってくる。「恋」が一番で何より大切だった。「恋」をすることで生きていた。

 小田急線沿いのオトコの部屋にもよく出かけていった。スパゲッティーを茹でるオトコの裸の背中を見ながら、敷居のところでうずくまる子供のようにジッとしていると、振り向いたオトコが私の頭をなでた。
「もうちょっとだよ、待ってな」
 オトコのあったかい大きな手。包まれる喜び、幸せのあまり泣きそうになった。これはもう「愛」に違いない。これが、「愛」じゃなくて何なんだろう。

 でも、やっぱりそれは「愛」じゃなかった。「愛」だったらあんなに、まるで夢から醒めるように、昨日の熱がウソのように、別れたいと思うはずがない。
 何が原因だったのか、北風の吹く頃、あれほど好きだったオトコがキライになった。恋は契約と同じ、一方が破棄したらその関係は解消される、と主張する私に、オトコは、それは違う、別れないといいはった。
 あれほどいとおしかったオトコの匂いもぬくもりも、ただうっとうしいものに変わった。つきまとわれる、と感じることの怖さと怒りから、「愛」だったものはただの「憎しみ」に変わってしまっていた。
 死んでやる、と車道に飛び出すオトコに、どうぞ一人で死んで、といい放ち、家へ戻った。ズタズタの「愛」の末路が悔しかった。

 しょせん、「愛」というのも「ヒト」というのもズタズタなものなのだろう。今となっては、よくわかる。こんなことがわかっただけでも年を重ねた意味もあろうかというものだ。

 そのオトコとは、それからずいぶん経ってから再会した。私のライヴに来てくれていたのだ。聞けば、結婚して、別れたという。新婚旅行にはアフリカに行ったとも。
 アフリカかあ、何だかとっても似合う気がする、と思った。自然に生きて、自然に死ぬ、木綿のようなオトコの匂いがちょっとよみがえった。

 長い間、「愛しかないとき」を「愛」は「ない」と思って唄ってきた。
 でももうピリオドを打とう。
 中野の「夕陽」やアフリカの「朝陽」のように、「愛」はたしかに「ある」。


第4回「鳥の歌」
>>ウフ. No.200402
 雨上がりの、晩秋の公園に立ち寄った。思わず息をのんだ。色があふれている。
 ついこの間までは、みんながおんなじ緑色だったのに、今は黄色や赤や、緑でも、薄いのやら焦げたようなのやら、それはもうにぎやかで、葉っぱの一枚一枚さえ、それぞれが自分の存在を主張しているかのよう。
 私たち、この前までは、みんなおんなじフリしてたんですけど、ホントはこんなに違うんですよ、と言われているようだ。
 ああ、そうだったんですね、とただ見とれるばかり。

 公園の広場の真ん中にある「モミジバスズカケ」という大木にいたっては、もう神サマの領域に入ってしまっているようで、いくつにも分かれた枝の先を見上げては、ため息をついてしまう。
「畏敬」というコトバが浮かぶ。
 シラカバのような幹をもつこの大木から、ヒラヒラとモミジのような葉が落ちる。天から落ちてくる。
 鳥がヒューッと鳴いて枝の間を通った。

 一枚の葉っぱが、都会の上空を漂い、やがてビルとビルの谷間にスルーッと落ちていって、いつしかヒトの手に握られた健康茶にと変わる、というコマーシャルをテレビで見るたび、頭の中心がしびれたようになった。
 この感覚は「飛ぶ夢」を見るたびに感じるモノと同じ。でも夢の中で私は確かにヒトだったはずだが。いや、飛んでいる私の目は、もう鳥の目になってしまっていたのかもしれない。その時、私はもう鳥だったのかもしれない。

「カタロニアの小鳥たちは、青空に飛び上がる時、ピース、ピースといって鳴きます」
 チェロの名手「パブロ・カザルス」は一九七一年、国連デーで「鳥の歌」を演奏する時、こう挨拶した。フランコ独裁政権に反対して故国を出てから九十六歳で亡くなるまで、彼が愛するスペインの地を踏むことはなかった。
 カタロニアはカザルスの故郷、そして「鳥の歌」はカタロニア民謡。

 作詞家、松本隆氏が、その「鳥の歌」に日本語の詞をつけた。若くして亡くなった妹さんのことを想って書いたと聞く。
 行間に死者への悼みがあふれる。それは同時に生きる者への悼みでもある。生まれて死ぬという、一本の道をいやがおうでも歩まねばならないヒトへの悼みでもある。
 この「鳥の歌」を唄いにカタロニアに行くことになった。

 飛行機は鳥に似ている。先人が鳥になりたくて、鳥のように飛びたくて飛行機を作ったのだから、当然といえば当然の話だが、鉄が空を飛ぶことに未だに納得できない私は、仕方なく乗客になると、ただ目を閉じ、ヒヤヒヤとお尻を浮かす。できることなら乗りたくない。乗りたくないが、海を渡らねばならない時はどうしようもない。

「シャンソン歌手」という肩書きを持ちながら、一回も行ったことのないフランスを飛び越えスペインへ。
 なぜ私がスペインのカタロニアで「鳥の歌」を唄わねばならないのか。この説明は、形になっていないシフォンケーキを頭に無理やり乗せられたように、訳のわからぬものだった。

 クミコさんは、今「鳥の歌」の入ったアルバムを録音している。カタロニアのサーキットでは、もうすぐ「世界二輪グランプリ」のレースが行なわれる。カタロニアといえばカザルス、カザルスといえば「鳥の歌」。それでクミコさんはカタロニアで唄わねばならぬ。
 こう書いていてもよくわからない。まして三年以上も前の、その当時では尚更のこと。しかし、まあ、人生というのは、時としてこうした訳のわからぬことに身を任せるモノらしいと、うすうす感づいていた私は、泣く泣く飛行機に乗ったのだった。

 何万人という観客が詰めかけたスタンド。決勝レースの直前、私はサーキットに立たされた。市長というオジサンに手を引かれ、「日本から来た歌手」と紹介され、特別に設置された台に上った。付け焼刃のスペイン語で挨拶もした。
「この地で唄えることは喜びです」
「ウアー」。ラテン系の人々が、どうやら好意のような叫び声を発する。

『ヒトはいつか鳥に変わる
カラダを離れて』

 アカペラでワンコーラスだけ。それも日本語で唄い始める。観客は一体何が始まったと思ったことだろう。途中から、励ましと同情の気持ちからか、ピーピーと持参の笛を一緒に吹き出す。そのうち、ヘリコプターがブンブンと上空を飛び始める。もう何が何だかわからない。
 この模様は、日本でもBSで生放送されていて、ああ、海の向こうでクミコさんが唄っていると、感無量のヒトもいたらしい。

 こうして、キツネにつままれたように行って帰ってきた私が本当に正気に戻ったのは、録画されていたBSの映像を観た時だった。途中から音程がまったくはずれている。早い話、オンチ。呆然とした。あんなに冷静に唄ったはずなのに。観客の笛とヘリコプターを思い出した。ああ、後悔先に立たず。
 カタロニアの空へ飛び立ったと思ったはずの鳥は、あえなく撃ちおとされてしまった。悪夢のようなできごとだ。


 オカメインコが好きだ、というオトコと暮らしたことがある。
 どういう鳥なのかと聞くと、頭のポッチリした長くきれいな羽を持つ可愛い鳥だという。
 ある日、その鳥がやって来た。「手のり」として育った黄色いオカメインコは「ピーチャン」と名づけられ、ピーピー鳴いてはウンコをし、パタパタ床を歩いてはウンコをし、ヒラリと飛んではウンコをし、肩に止まってはカチカチと私の耳たぶをかんだ。
 しかしオトコは、ピーチャン、ピーチャンといっては頭を撫でた。
どうやらオトコの母親もオカメインコが好きだったらしい。そして、その母親は、やっぱりピーチャンというオカメインコに息子の名前を覚えさせようと、日夜繰り返していたらしい。
「ピーチャン、いってごらん。Kちゃんよ、Kちゃん」
 鳥肌がたった。
 冬の朝、ピーチャンは籠の中でコテンと死んでいた。ミョーにスッキリしたのも束の間、しばらくすると、またオトコはオカメインコを買ってきた。
 もっと元気そうなのを選んできた。ホラ、今度は大丈夫。おんなじ黄色のこの鳥は、やっぱり「ピーチャン」と名づけられ、ピーピー鳴いてはウンコをし、パタパタ床を歩いてはウンコをし、ヒラリと飛んではウンコをし、耳たぶをかみ、足の爪までかんだ。飼われた途端うっとうしくなるのは、鳥もヒトも同じなのだと知った。
 ピーちゃんは丈夫なせいか、毎朝、卵を産みつづけ、産み疲れたのか、ある朝、籠の中で羽を大きく広げ死んでいた。
 心底ホッとした。それからオトコと別れた。

 鳥は飼うべきものではないように思う。
 鳥はどこで生まれ、どこで死ぬのか、一切ヒトに知らしめないもの。
 開けられることのないビルの窓の外を、ゆっくり旋回し、ヒトに大きなため息をつかせるもの。
 新しくできた人工の街で羽音をさせ、そこが水辺だったことを思い出させるもの。
 そう、鳥は空を飛ぶべきもの。
 飛べないニンゲンに飛ぶ夢を見させるもの。

 ガサンと音がした。見るとベランダの仕切り板に、おっきなカラスが止まっている。そいつはギチギチとあちこち見渡すと、ブイと飛び去った。仕切り板がワサワサ揺れている。「おお、こわ」。あわてて窓を閉めた。


第5回「明日があるさ」
>>ウフ. No.200403
 ノーテンキな主人公の歌である。
 何回しくじっても、また「明日」があると思っている。今日が「ダメ」でも、またチャンスはある、「明日」はやってくる。
「セーラー服のお下げ髪」も「こうもり」も指で回す「ダイヤル」も、今となっては色褪せたあっちがわのコトバかもしれない。
 そして、こんなコトバたちの向こうには、「裕次郎」を真似て、肩をゆすり大股で歩くスカしたラッパズボンの、イキがった「おニイちゃん」たちの姿が見える。
 それは「明日」のない戦争中に生まれ、「明日」に向かって、戦後をひた走った世代のオトコたち。私の叔父たちの世代。そして九ちゃんもその中の一人だ。


「桜咲く季節、今宵おこしいただきありがとうございます。『坂本九』さんが亡くなったあの夏から今年の夏で6回目になります。もうそんなに時は経ってしまいました。
 私がランドセルを背にして『上を向いて歩こう』を唄いながら学校へ通ったのは、ですからもうはるかかなたのできごとです。
『九ちゃん』はあの時代を体中につめこんで登場しました。不良少年のようにピチピチのズボンをはき、ザンギリ頭でできたてホヤホヤのブラウン管に登場しました。
 けれどいつの間にか『九ちゃん』は『司会者』にかわっていました。時代を背負った唄い手の運命はいつでも残酷なのかもしれません。
『九ちゃんの唄』をもう一回唄います。きいて下さい」
 一九九一年、四月四日に開いたコンサート『唄ってよ、九ちゃん!』のプログラムの文章である。

 前年、『前略、越路吹雪様』というコンサートも、同じ青山円形劇場で開いていた。
 私にとっての「アイドル」だったこの二人を、いわば「題材」にしたもので、亡くなったヒトを扱うことの礼儀として、コンサートの一と月前から断酒を始めた。何はなくてもお酒という当時の私には、これがけっこう身にこたえ、いかにも「みそぎ」らしかった。
 断酒をすると必然的にやせてくる。これも狙いで、なぜならコンサートの一部に着るピチピチのジーパンをはくためには、何としても減量をせねばならなかったから。
 革ジャンとジーパンで、迫りくるように上下する円形劇場のステージを、それこそ、不良少年が監獄の塀を飛びこえるように軽々と動き回ること。ヒラヒラと軽やかに、時代をまたぐように唄うこと。私という、その当時三十代半ばの唄い手の後ろに「九ちゃん」がいて、「九ちゃん」の後ろに、「あの時代」があって、その時代に背中を押されるように唄わねばならぬ。
 頭に描いていたのは、それだけだった。
「GIブルース」や「ステキなタイミング」を唄いながら、重たい革ジャンとジーパンから汗がしたたり落ちた時、私は、私の愛したアイドル「坂本九」になっていた。ヒリヒリと明るい「坂本九」になっていた。


 九ちゃんと実際に会ったのは、一九七九年の『世界歌謡祭』。
「魅せられて」がヒットする前のジュデイ・オングさんと共に、司会者をしていた。ステージを降りると、アマチュアの私たちにも何くれとなく気を使い話しかけてくれて、アア、やっぱりこういうヒトなのだなあ、と思った。そして、こういうヒトだから、もう唄い手としての戦いはやめてしまったのだなあ、と思った。
 それ以前から、九ちゃんというと、「日の丸」公認のようなタレントという感じがしていた。明るく正しい、歌も唄う器用な司会者に変わってしまった気がしていた。

『唄ってよ、九ちゃん!』のプログラムの文章は次の文で終りになる。
「そして最後に、今回この公演に御協力御尽力いただいた永六輔さん、スタッフの方々、八大コーポレーションの大島さんに心からお礼を申し上げます」
 大島さんは九ちゃんのイトコで、マネージャーもしておられた方だ。どこの馬の骨ともわからぬ唄い手のため、渋谷のホテルのティールームに、多くの資料を持ってきて下さった。
「坂本九のことを取り上げて、唄ってくれてうれしい」
 大島さんの気持ちはヒシヒシと伝わってきた。「坂本九」を私に託してくれたのだった。名もない唄い手に「坂本九」をあずけてくれたのだった。

 そして私は彼を裏切った。
『唄ってよ、九ちゃん!』の終了後、楽屋に戻ると、そこにはもう誰もいなかった。ただ柏木由紀子さんから贈られた赤い花束だけがポツンと残っていた。
「九ちゃんは、時代を背負い、途方もない明るさと暗さをもって登場したのに、時代の変遷と共に無害な司会者に変わってしまった。唄わぬ唄い手になってしまった」
 こんなコンセプトの下に組まれたコンサートを、大島さんは一体どんな気持ちで見ておられたのだろうか。
 ボンヤリとした楽屋の中、初めて私はヒトを傷つけたことを知った。そしてそれが、もう取り返しのつかないことだと知った。

 後日、公演を見に来て下さった和田誠さんから、長いお手紙をいただいた。大半のことはもう忘れてしまったが、「九ちゃんはずっと唄っていたのです」というような内容だった。九ちゃんは唄い続けていた、死ぬまで。

 この夏、知人から譲り受けた九ちゃんの『メモリアル・ブック』の最後に、「21世紀の歌」という未発表曲とされるものが入っている。昭和五十九年というから、なくなる一年前に唄い始めた曲で、作詞は和田誠さん。収められている録音は昭和六十年一月二日、新高輪プリンスホテル飛天の間での「坂本九新春ディナーショウ」。
「唄い始めて二十七年。二十七年というのは、他の歌手の方々からみれば、まだまだ若僧です。けれど力のある限り、声の続く限り、すぐそこまで来ている二十一世紀までも唄いつづけていきたい、そう思っています」
 静かすぎるとも思える声で、こう挨拶した後、九ちゃんは唄う。
「すぐに世界は二十一世紀 君のそばで迎えよう その日を ぼくは唄い続ける その日も」
 いい歌だった。四十四歳の「坂本九」はヨレず、力まず、まっすぐに二十一世紀への歌を唄っていた。
 九ちゃんに二十一世紀は来なかった。九ちゃんが「明日」のない飛行機に乗ったことは、今さら書くまでのこともないだろう。
 ただ、九ちゃんは、あまりに「明日」の似合う唄い手だった。
 ガレキの中から、汚れた顔を上げてニッコリ笑い、クルっと体をひねると唄いだす。
 ほらね、「明日」ってあるでしょう。

『唄ってよ、九ちゃん!』のフィナーレ、「ジェンカ」を唄い踊った。客席に手をさしのべ、ステージに上がるようすすめた。
「レッツ、キス、頬よせて、レッツ、キス、」
 一人の後ろに、知らない誰か、またその後ろに。
 円形劇場のステージがヘビのとぐろのようにうねり、先頭の私は、ちょっと恥ずかしかったけど、やっぱり楽しく幸せだった。踊るヒトも見ているヒトも幸せそうに笑っていた。
 ハイヒールを前後に一生懸命トントンさせながら、こんな歌を唄えるのって、九ちゃんだけだなあ、と思った。


 昨年の大晦日の「紅白歌合戦」で、平井堅さんが、九ちゃんとデュエットの形で「見上げてごらん、夜の星を」を唄った。
 正面のスクリーンに映る九ちゃんは、そのくすんだブルーの色合いのように哀しげに、「ボクらのように名もない星が」と唄っていた。
 その時、ふと「世界歌謡祭」の打ち上げパーティのことを思いだした。私の友人の隣に座った九ちゃんは、ただでさえ暗い部屋の中、沈み込む深海魚のような眼をしていたのだった。
 この「紅白」で初めて「坂本九」を見たヒトもいただろう。初めて声を聴いたヒトもいただろう。
 ああ、これが「九ちゃん」か。

 いえいえ、ホントの九ちゃんは、どんな悲しい歌でも最後にスポットライトの中、キラッと笑うんですよ。
 泣いて唄った後でも、ちゃんと笑顔を見せられる、笑顔を見せなきゃならない、それが「坂本九」なんですよ。
 だって、「坂本九」は「明日」を唄うために生まれた唄い手なんですから。


第6回「イカルスの星」
>>ウフ. No.200404
 夜中に電話が鳴った。
「Hさん、死んじゃったって」。取り乱した友人の声だ。
 Hさんは、私が唯一唄っているシャンソニエ、いわゆるシャンソンを聴かせる店、のオーナー。再開発された汐留をあっち側に見て、雑然とした昔ながらの新橋のビルの地下の店。街角の店だ。
 夜、開店してからも一向に姿を見せないので、思い余った客の一人が、自宅の部屋を訪ねたのだそうだ。隣りに住む大家さんから鍵を借り中に入ると、整理された部屋の中、布団の中で、眠るように、眠ったままで、きちんとあおむけになって死んでいたという。

  Hさんは、その昔、歌謡界の星になることを目指して上京し、新人流行歌手の仲間入りをしたらしい。けっこう注目もされたとかで、たまに酔うとスクラップブックのようなものを引っぱり出しては、「明星」だか「平凡」だかの切抜きを披露してくれた。名前の入ったタスキを肩にかけて唄っているキャンペーン姿や、片頬にそっと手をあてるアイドルお決まりのポーズでの写真やら。そこには、きらめく彼の星の時間たちがつまっていた。
 その後、新橋で店を開くまでのいきさつについて聞いたことはない。聞く必要もなかった。自分が星になることをあきらめた後、小さな店の中に星を見つけようとした経緯など聞かないにこしたことはない。
 そんな訳で、開店からちょうど二十六年経ったね、という冬の日、Hさんは死んで星になった。


「イカルスの星」が好きだ。越路吹雪のレパートリーの中で一番好きだ。この曲を聴くと一気に小学生の頃に逆戻りしてしまう。ワクワクしながら、みんなで大晦日の「紅白歌合戦」を観ていた頃に。
 隣りには四つ年下のイトコが座っている。今か今かと、越路吹雪の登場を待っている。登場すると、何だかわからないこのモノスゴイヒトは、モノスゴイまま踊って、唄って、アッという間に消えていく。ヒャーだのキャーだのいって騒いでいた私たちは、越路吹雪の消えたあと夢から覚めるようにボーッとして、そして何だかつまらなくなってしまうのだった。

 昨年の暮れ、NHKのBSで一九六八年、昭和四十三年の、紅白歌合戦を放送した。この年あたりというのは、歌謡曲全盛の時代で、子供から大人までがおんなじ歌を口ずさんでいた幸せな時代でもあった。出てくる歌手、出てくる歌手、出てくる曲、出てくる曲、どれもこれも、すこぶるのウマさと名曲ぞろい。当時、ヘタッピーだと思っていた歌手まで今聴いてみると実にウマい。そして堂々としている。堂々と唄い堂々と去っていく。

 そんな中、越路吹雪の登場。「このいぶし銀の輝きにはかないません」というコメントの後、司会者が叫ぶ。「イカルスの星!」。

 いない、越路吹雪がいない。「とおいそらにかくーれたー」、声はするのだけれど映っていない。映るのは応援のため中央に集まった紅組の女歌手ばかり。あれあれ、どうしたと思っていると、突然カニの横歩きのように左から飛び込んでくる越路吹雪の姿が。
 デトチリというやつか、越路吹雪本人もすっかり舞い上がってしまっているようで、やたら体を動かし手を振り上げる。リズムに乗っているとはいい難いその過激な動きに、ただただ呆然とする。
 アア、これが越路吹雪だ、子供の私たちを夢中にさせた、これがその姿。懐かしさと歓びで胸が一杯になるが、映像の中の越路吹雪はそれどころではない。一番はかろうじてキチンと唄ったものの、途中間奏で、首にハワイアンレイをかけられことも影響したのか二番に入ると、歌詞はメチャクチャ。おなじものが何回も出てくる。アップになったその目はもう虚ろといってもいい。ああ、この目だ、この目のせいで、四つ年下のイトコのやつは「このオバサン、頭おかしい」っていったんだ。そういって二人でドキドキワクワクしてたんだ。

 一九九〇年、『前略、越路吹雪様』というコンサートを開いた。キラ星のごとくある名曲を私なりに唄ってみたい。私の中の越路吹雪と向き合ってみたい。そう思って企画したものだった。これが新聞で紹介された翌日、チケットが完売した。何かの間違いかと思った。いつもチケット売りで苦労しているのにこんなことがあるはずがない。まさしく青天のヘキレキというやつだ。
 よくよく聞くと、どうやらこれは「越路吹雪という名がつけばどこにでも行く」というヒトたちのせいらしかった。それぞれの越路吹雪を求めて、その名前があるところへなら取りあえず行ってしまおう。
 これには驚いた。驚いてうれしかった。でもうれしかったのは束の間のことだった。
 幕が開いて、一曲目「一寸おたずねします」と客席の間から唄い出す。うずくまっていた姿勢からスポットライトを受けて立ち上がり、唄いながら周りを見渡した時、身震いがした。冷たい圧迫感のようなものが私を包む。
 さあ、これから私の越路吹雪をどう唄ってくれるの、見せてもらいましょう。

 唄っていくうち気づいた。どうもこのヒトたちの越路吹雪は、あの伝説の『日生劇場ロングリサイタル』の越路吹雪のようだった。外国デザイナーによるゴージャスなドレスを身にまとい、完璧なまでに緻密に構成されたリサイタル。赤絨毯の敷かれた劇場で過ごす一夜の夢の世界。フランスの香り、ヨーロッパのときめき。チケットの取れないロングリサイタル。
 このリサイタルには二回行った。どちらの越路吹雪もとても疲れているように見えた。日生劇場というフレームの中で、きっちり役割を果たして演じて、唄っているように思えた。そこには私の知っている、フレームからどうしてもはずれてしまう、あの越路吹雪はいなかった。窮屈なことになったのだなあ、と思った。

『前略、越路吹雪様』で私は一着のドレスを着ることもなくパンツ姿。アンコールにいたっては白いトレーナーとジーパンにスニーカー、そして化粧を落としたスッピン顔。真っ白な蛍光灯のような照明の下、「愛の讃歌」を唄い出す。ひとつひとつ言葉を確かめるように、「あなた」と「わたし」の愛の物語をできる限りシンプルに唄った。円形劇場のステージのまん中に立った私に観客の重いため息が聞こえた気がした。
 でも、私にとって越路吹雪はこういうヒト。「愛の讃歌」をできればパジャマかなんかで唄いたいと思っているだろうというヒト。オンナがオトコのふりをするなんて気持ちが悪いと宝塚を飛び出し、人生最後の仕事に、大きな劇場ではなく、小さな劇場での老女の役を選んだヒト。何の制約も受けず、心のままに、フレームからはみ出しても、たとえブザマに見えようと、自分の等身大のまま生きたいと思っていたであろうヒト。

「イカルスの星」を唄うとうれしい。イカルスの星、イカルスの星、と指をさすとうれしい。たとえそこがコンクリートの天井であっても星はまたたく。「イカルスの星」は私にとってはイマシメの曲でもある。この曲を唄えなくなったらもう終りだ。この曲を頭のテッペンからつま先まで、「希望」と「憧れ」と「勇気」で満たして唄いきること、それができなくなったら、もう終りだ。モノスゴイヒトに少しでも近づくため、ずーっとこの歌を私は唄うだろう。モノスゴイヒトが私の星だから。この星をたよりに歩いてきたのだから。


 Hさんの店で唄った最後の夜、「イカルスの星」を唄っておいて良かったと今は思う。途中、お休みしたこともあったけれど、出演した十六年は長い。同じ新橋の前の店から今ある場所に移る時、無計画な改装のせいで、グランドピアノがドアから出ずに、ギーコギーコと脚をのこぎりで切ってしまったときいた。店のボトル棚の上には、その名残りともいえるピアノの「譜面台」の部分だけがポツンと置かれていた。その時の話もしたがらないHさんは、ちょうどその「譜面台」の下あたりで、私たち歌手に「スポットライト」を当てつづけていた。ライトを当てられた唄い手たちの眼はキラキラと、それこそ星のように輝くけれど、Hさんの姿は逆光になってまったく見えない。そこには暗い闇があるだけだった。

 ポツンと残った店の看板。「ある」ことは「ない」ことよりずっと哀しい。


第7回「願い」
>>ウフ. No.200405
 コトバはジャマだと思うことがある。
 コトバを言っていては渡れない、と思うことがある。何を渡れないのかといえば、それは「オトコとオンナの間に横たわる暗くて深い川」ってやつで、これを渡るのに一体どれだけ苦労することか。北朝鮮から脱北する際の川にたとえてしまっては申し訳ないが、暗くて深い川を渡りきるのは、ことほど左様にむずかしい。

 大学生の頃、冬の朝、二時間近くかけてオトコの下宿にたどりついた。ハアハアと息を切らし、まだシンとした冷気の中、部屋に通じるアパートの階段を上る。コンコンコンとガラス戸を叩き、まだ寝ているオトコを起こし部屋に入る。
「どうしたの」。オトコはボヤケた顔で私を見つめる。ただ単にボンヤリしている。
 ああ、もうどうにもならない。やにわに私は服を脱ぎ始める。二十歳そこそこの娘が、オトコの部屋で服を脱ぐのだ。決死の覚悟といってもいい。
 ボーと見ているオトコはいう。やっぱりボーとした声で。
「なんか、しらけちゃうなあ」
 オンナから、いきなり脱がれてもこっちだって困る。モノゴトには順序ってものがあり、ヤラしいことにはヤラしい手順とでもいうべきものが必要である。大体、こんな朝早くから、そんな気になるのはむずかしい。云々。
 その後、どうなったのかは、もう忘れてしまった。「恥」をかかせたオトコの頬を引っぱたいた覚えはないし、泣き崩れた覚えもないし、ヤラしいことをしたかどうかの覚えもない。ただ、
「越えられなかった」と思った。


「もう曲できちゃった」
 谷川賢作さんがそういって、スタジオに入ってきた時には驚いた。
「エ、どの詩? どの詩に曲がついたの」
 指差したのが「願い」。
 エイベックスに移ってから初めてのアルバム『愛の讃歌』の音楽プロデューサーの賢作さんに、どうしても曲をつけてもらいたいコトバたちがあった。江國香織さんの詩集『すみれの花の砂糖づけ』。
 キラキラと、でも切ないコトバたちのどれかを唄ってみたい。でも、まさか、「願い」になるとは思わなかった。
「寝たい」だの「したい」だの、こんなコトバたちをまっ先に選んでしまうなんて。ガゼン賢作さんを見直してしまったのだった。

「いつまでも いつまでも」を見た途端、もう三拍子が浮かんだらしい。コトバのリズムがメロディーを導いてくれたのだ。そういえば、後日、江國さんにお会いした時、この詩を朗読しようとすると、どうしても、あの三拍子のメロディーが浮かんできちゃうんです、といっておられた。
 それにしても奔放なコトバたちだ。
「私の細胞のひとつひとつが あなたを味わう あなたの細胞のひとつひとつが 私でみちる」
 味わうのは「私」、みちるのも「私」。どこまでいっても「私」がいる。確固とした「私」がいる。踏みしだくオトコを足元にスクッと立つオンナの姿が見える。この強さが若い日の私にあったなら。


 そのオトコは、わからないことだらけだった。わからないことだらけなので好きになったのだ。
 オトコは新聞記者になりたい、といった。それも朝日新聞でなけりゃダメで、朝日の社会部記者になって、世の中のことをアレコレ書くのだ、といった。そして、なぜ「天皇制」がいけないのか、「正義」とは何か、みたいなことを延々と話すのだった。話しながら、吸いすぎでマッキッキになっちゃったという右手の中指で煙草を挟み、煙を吐きだした。いってることがよくわからないので私も煙草を吸った。二人でプープー煙を吐き、薄暗い喫茶店に、それこそ潜むように何時間もいるのだった。

 話しても話しても距離は縮まらない。話せば話すほど、どんどん遠くなっていく。「して」いる時だけ、少し安心した。「して」いる時には、ドストエフスキーも高橋和己もブランデンブルク協奏曲もカンケーなかった。ずっと「して」いたいと思った。

 正月が明けた頃、二人で伊豆に出かけた。松林を抜けると海が見えた。海はシャラシャラと光り、この万華鏡のような輝きを、私は多分一生忘れないだろうと思った。それほど二人でいることが辛かった。押し黙ったまま歩くうち、別々になった。宿に一人で帰る道すがら、ずっと光る海のことを考えた。もうダメだなあ、と思った。
 東京駅に着くと「サヨナラ」をいった。覚悟していても、いざとなると風に吹きとばされる紙のように心細い。一目散に家へ帰り、布団の中で泣いた。こんないいオンナと別れて、ああ、オレは何てモッタイナイことをしたんだと後悔させてやる、いつかどっかでバッタリ出会ったら。

 どっかでバッタリ出会うこともなく二十年以上が過ぎた。
 ある日、母親から電話がきた。
「Sくんて覚えてる? クミちゃんが大学生の時の、ボソボソ話す暗い感じのSくん。昨夜電話があった。連絡してほしいって」
 二十年ぶりのオトコは、脂っけのない顔とカラダで、私を迎えた。今はコンピューターの会社をやっているという。事務所に行くと飾り棚に家族の写真がある。陽気そうなポッチャリしたオンナのヒトが笑っている。
「これ、奥さん。でも今はガリガリだよ。毎晩一時間も走ってるからね。走らなくちゃいられないらしい」
 走る奥さんの姿が浮かんだ。キッと前を見て夜の闇をひた走るオンナのヒト。カラダで一生懸命ココロを支えて走るヒト。
 もうひとつ飾られている写真を指してオトコはいった。
「Yだよ、オレとおんなじ下宿にいた」
 ああ、あのヒト、確か慶応のヒト。そのYくんが急死したのだそうだ。
「死んでしまったら、急にポッカリしちゃって。自分の人生の半分をもってかれちゃった気がして。だってそれだけ長い間つき合ってきたから。たくさん話をしてきたから。それでキミのことを思い出した。あとオレの中に残ってる想い出ってキミだけだから」
 昔は「オマエ」っていってたくせに「キミ」になっている。
「うん、そんな感じがするんだ。ヒトって、ヒトとの想い出の中で生き合ってる、それが自分のカラダの一部になってる。ココロの一部になってる」
 わかる気がした。でもあなたは私の一部になんかなってないよ、だって「何にも」話してなかったもん。心の中でつぶやいて、ただ、学生の時以上に痩せて木のようなオトコの髪と顔を見つめた。
 そしてキスをした。

 私ね、これから美容院にいかなくちゃいけないの、悪いけどもう帰る。
 送っていくというオトコがコートを羽織った。歩きながら、私の手を取ると自分の手と一緒くたにして、おっきなポケットの中につっこんだ。あったかくてサラサラした手だった。
「息子が今年大学に入った。数学者になりたいらしい」。オトコの行きたかった東大に入ったその息子はまるで子供で、ウブで、彼女なんていないと思う、心配だ、というので、私がしちゃおうかなあ、というと、それもいいかもしれない、という。
 オトコの息子のオトコと「する」というのもなかなかいい気持ちだろうと思った。
 美容院の前で、一緒くたになった手を離して、バイバイをした。手がスースーした。

 その後会うことはない。しばらく田舎に引っ込んでいたこと、事務所が、それまでのマンションからアパートに変わったことを知らせるメールが来たのが最後だった。
 オトコの背中の向こうがわに、風が吹いているような気がした。


 テレビをつけっ放しにして夕食をとっていると、懐かしいメロディー。「ある愛の詩」が放送されている。ずいぶん昔に大ヒットしたアメリカ映画だ。原題は「LOVE STORY」。邦題の勝利だなあ、と見ていると、最後の方になって、死にゆく主人公のオンナが、ベッドの傍らで彼女の手を握るオトコにいう。
「お願いがあるの、私を抱いて」
 オトコは、オンナの横に、大きな葉っぱが重なるみたいに、ゆっくり横たわった。ラストシーン、ひとりで想い出のスケートリンクの椅子に腰かけるオトコの背中にも風が吹いている。

 オトコとオンナの川を渡っても生と死の川はつづく。それはキラキラ光る果てしもない海なのかもしれない。


第8回「あなた」
>>ウフ. No.200406
 住宅かなんかのコマーシャルらしく、時々この歌がテレビから流れる。
「もしもー私がー家をー建てたなーらー」
 なつかしい。一九七三年の曲ということは十九歳の私である。丸々と太った私である。そしてこの歌も丸々と太ったオンナの子が唄っていた。オンナの子が「家」を建てたら、と唄っていた。

 中学生のある日、突然お腹が空きだした。食べても食べてもお腹が空く。寝ていてもお腹が空く。本を読んでもお腹が空く。自転車に乗ってもお腹が空く。給食では、他人の分のパンまでもらってガツガツ食べた。家へ帰っても食べた。ココナツサブレなんか一度に一袋、アッという間に食べた。
 食べれば太る、ということを知らなかった。そんなふうに人間が出来ているなんて、思ってもみなかった。太ったヒトは太ったまま生まれて来たのだ。自分が太るなんて想像もしなかった。
 小学生の頃は、体重測定が好きだった。少しでも増えていればうれしかったし、減っていればひどくがっかりした。子供は大きくなるもの、先月よりも昨日よりも少しでも大きくなるもの。体重の点線グラフは常に右上がりに上がっていくもの。
 この点線グラフがグングンと弾みがついたように上っていく頃、初めて不安になった。ちょうど「思春期」と呼ばれる頃だ。そして、この「思春期」を越えると、あっという間にオンナが人生で一番美しいといわれているらしい、「娘十八、番茶も出花」の年頃。

 私は、その時「かなり太ったオンナの子」になっていた。大学受験と重なったことも大きな原因。家にいることが多くなり、母親は三度の食事の他に、どこでそんな知識を仕入れたのか、「アタマに効くドリンク」をセッセと作り、毎日私に飲ませた。硬いオニグルミをトンカチで割って取り出した中身をすり鉢ですりつぶし、そこにたっぷりの黒砂糖と熱湯を注ぎ混ぜ合わせる、というもの。
 そのかいあってか大学にはすんなり入れたものの、それと引き換えのように私のカラダには隙間がなくなり、顔は目も鼻も口も、砂に埋もれた遺跡のようにボーっとハッキリしなくなっていた。お相撲さんによくある、どの顔を見ても区別がつかない、という類の顔だ。
 太っていると不便なことが多い。夏は暑いし、冬はなぜか、より寒い。しかし何より困ったのは「ココロ」だった。ココロは太ったカラダとことごとく対立した。ココロは、自分にとって一番ふさわしいのは、このカラダではないといっていた。

 こうして私は大学生になった。大学に入ったらお芝居をやるのだと決めていた。そこで「演劇研究会」という劇団に行ってみた。体操着をもって来いといわれ、すぐに柔軟体操が始まったが、私のカラダは曲げようにも、そらせようにもどうにもいうことをきかない。恥ずかしかった。悔しかった。逃げた。
 それから「人形劇団」に入った。「カラダ」を使わず、人形なら、自分の「ココロ」を表現できるかもしれない。そのサークルには、同時期たくさんの新入生が入ってきていた。ピチピチのジーパンやTシャツで、はじけるようなカラダを包み、大声で笑う美しいオンナの子たち。私には一生縁のない「青春の輝き」らしかった。

 夏休みに入り「巡業公演」に出かけることになった。このサークルでは、毎年夏休みになると、いくつかの班に分かれ、様々な土地に赴き、その土地の子供たち相手に人形劇を見せるという旅をしていた。たしか山梨県の身延山の方だったと思う。私たち七、八人の班はリュックサックに寝袋を入れ、ある時は公民館、ある時は体育館の片隅というように転々としながら旅を続けた。汗とほこりだらけの毎日だったが、一回だけお風呂に入ることができた。久しぶりの入浴に騒いでいる私たち下級生の横で、先輩が、静かにかかとを軽石でこすり始めた。白い肌がピンク色に変わっていく。それはまるで「オンナの仕度」のようだった。こんなふうに私も「オンナの仕度」をする時が来るのだろうか。先輩のそれとはだいぶ違う自分のカラダを眺めた。
 一週間後、帰宅した娘を見て母親はいった。
「何か、クサいわねえ」
 だって、お風呂入ってないんだもん、ほこりの中で寝てたもん、お味噌汁だってご飯だって作ったもん。親と家とを初めて離れた一週間の間に、私は少しやせていた。カラダがココロに少しずつ近づいているようだった。

 そして人形劇団をやめた。私がやりたいのは人形劇ではなく、やっぱり人間の劇なのだ。思い切って、大隈講堂の裏にある、まっ黒なブロックを重ねただけのような建物のドアを開いた。薄暗い中にオトコが一人座っている。この劇団の演出家だという。斜めにかしいだように上から下まで私を眺め、そのオトコはわりあい愛想よく「どうぞ、お入りなさい」といい、私はその日から劇団「木霊」の劇団員になった。
 大学に通っていたのではない、劇団に通っているので、西門も正門も通り過ぎ講堂裏に直行する。「エチュード」と称する訓練のようなものが、木の棒を持って深刻な顔をした演出家の下、毎日つづいた。カラダもココロも解放し開放せねばならぬのだと、バンバン棒を叩いては叫んだり怒鳴ったりする。
 夜にまで及ぶ練習で、当然、家で食事をとることをしなくなり、自分で選んだ食べ物を自分の好きなだけ、好きなように食べることができた。徐々にやせていくカラダはココロに近づいていく気がした。本当の私になっていく気がした。私は斉藤さんの家の一人娘ではなくて、ただの一人のオンナで、ジタバタ生きていかねばならない人間なのだと思った。これから「オンナの仕度」も「ヒトの仕度」もせねばならない。早く家を出たい。それだけを願った。

 二十六歳の時、結婚をして家を出た。これが一番手っ取り早く、誰もが納得する唯一の方法。「斉藤久美子」は「高橋久美子」に変わり、それはまるで生まれ変わることができたみたいにうれしかった。カラダとココロはようやく一致し、隣りにヒトがいるので眠れないことを除けば幸せだった。マンションともアパートともいえない2DKの部屋で、夫は曲を作り、私はそれを唄う。
「デラシネ」みたいな「ままごと」みたいな生活はこうして七年続いた。


 まだ阪神大震災が来る前、一緒に住んでいたオトコが「家」を建てようといいだした。親の家を出てから、結婚している間も、家を「借りる」のでなくて、「建てる」ことなど一度も考えたことがなかった。設計図を見ながら、「もしもー私がー家をー建てたなーらー」と唄ってみた。実感がない。四十歳を過ぎても実感がないのだから、この歌の主人公の年頃だったら。
 いやいや、このオンナの子は、家も欲しいけど、小犬も欲しいし坊やも欲しいし、何より「あなた」が欲しいといっているのだ。ということは「家」を建てるには「あなた」が必要ということで、まあ大した違いはないか。
 こうして家はその年の夏に完成した。完成しても実感がない。親の家同様、いつかは出ていかねばならないモノのような気がする。案の定、それから八年たった冬の日、一人でその家を出た。玄関のドアの向こう側で罵声が聞こえた。

 今、こうして、一人で好きな時に眠り、好きな時に起き、好きな時に食べる生活をしていると、長い間辿り着きたかったのは、ここかもしれないと思えてくる。ココロを自由にさせてあげるとカラダも自由になる。体重計がなくても、太りもやせもしない。
 つい先日、遺書を書いた。突然死んでしまった場合の混乱を、ここのところ目のあたりにしてきたせいで、その対策ともいえるかもしれない。
 密葬にすること、延命措置をとらないこと、死に顔を見せないこと、そして後のモノたちは適当に処分してもらってかまわないことの四点。これ以上いっておきたいことも、いわねばならないことも、今のところなさそうだ。
 書き終えるとミョーに安心した。「終のすみか」を持ったような気がした。


第9回「お定のモリタート」
>>ウフ. No.200407
 神経を抜いたはずの奥歯が、どうにもこうにも良くならない。思い切って、知人の歯医者を訪ねることにした。ファンと称するヒトのお世話になるのは気がひけたが仕方がない。自転車をこいで二十分、やっとたどり着くと奥さんも子供もお祖母さんまでも出てきて、診察が終わったら、ぜひ寄っていって下さいという。

 歯の治療後、寿司とウイスキーというのは、どうもミョーな気がしたが、うれしい。「あなたの歌が好きだ」という歯医者の先生は、杯を重ねるうち、そうそう見せたいものがあると一冊の週刊誌を取り出してきた。 「これです」と開かれたページには、ひどく古い白黒の写真が。 ようく見て驚いた。それはあの「阿部定事件」の被害者、「石田吉蔵」の殺害現場写真。息をつめるように、またようく見ると確かに大腿部あたりに「定」とか「吉」とかの血文字のようなものが見てとれる。顔のあたりは判然としないが、これがあの事件のモノだということは一目瞭然だった。進呈された形で持って帰ったその週刊誌を、もう一度開く気にもなれず棚の奥に押し込み、それから三、四回は通院しただろうか。 

 元々は大学病院の口腔外科医で交通事故のヒトのひんまがった口の中を、ゴチンゴチンとトンカチで叩いたりするような仕事だったが、父親の急死でその跡を継ぎ町医者になったのだと穏やかに、でも残念そうに話すその医者は、小さな子供を残し突然死んでしまった。  あれから、七、八年は経っただろう。 その週刊誌も今は手元になく、思い出すのは「吉蔵」の脚のことだ。「イナセ」というのだろうか、「小股の切れ上がった」というのはおかしいか、とにかく無駄のない色気のある脚。そして、その脚たちと、同じ待合で七日間もの間、からみ合った「定」というオンナ。
 彼女の逮捕時の写真は見る機会が多いが、おかしいのは逮捕する側も、される側も両方が笑っていることだ。  あのう、こんな時代にこんなことになっちゃって、ことがことだけに、まあ何ていっていいか、とにかくまあ、つかまえたんですけど、でもやっぱり何だか。
 と、どこまでいっても困っちゃう感じが漂う。「婉然」という表現もされる「定」の笑顔は、どちらかといえば「ポッカリ」という感じがする。嵐の中にポッカリ空いた青空のような。「猟奇的」とか「陰惨」とか、後にどれほどの形容がされるものでも、その場には、真空のような時の止まる時間があったことを想像させる。

 昭和十一年に起きた「阿部定事件」をテーマにした「阿部定の犬」というお芝居を見たのは大学生の頃のこと。後楽園にドームなどない、ただの遊園地だった頃、広場に黒いテントが立ち、そこにヒトが押しかけた。 「あたしが切り取ったのは天子様のモノではありません」
 舞台の阿部定はユラユラとブランコに身をまかせ恍惚としてそういった。
 ぎゅうぎゅう詰めのテントの中、ビニール袋に入れた靴をしっかりと抱きしめ、膝を丸め、詰めて詰めてもっと詰めて、という劇団員の指示の下、私の背中に、同行したオトコがぴったりはりついた。そのオトコの脚の間に入り込む形でカラダをあずけ、悪夢のような芝居に見入る。背中のオトコの熱と、テントの中の熱は私を恍惚とさせた。たしかに、私は「わたし」じゃなくて「あたし」だと思った。
「桃いろ紐を二重に巻いて」  その時、持ち帰った芝居のパンフレットに楽譜が載っていた。テーマ曲「お定のモリタート」。詞は「黒テント」の演出家、佐藤信。曲はクルト・ワイル。ポツポツと唄ってみた。いい曲だったが私の手に負えない。そのままになった。

 数年後、「安田南」という歌い手を知った。ジャズ歌手というもののジャズ歌手らしくない。ちょっと「ヤサグレタ」大阪のネエちゃんが唄っているような。「お定のモリタート」が入っているアルバムは、その他にも佐藤信さん作詞の曲があり、芝居ごころあふれる色とりどりの歌たちが並んでいる。ジャズに立ちながら、日本語で構築する「地獄と極楽」の世界。
 ジャケット写真も、まさに不良。茶髪のショートカットにミニスカートでしゃがみこみ、毛皮のコートから伸びた手にはタバコ。「ジャズ歌手」をやっているのではない、「安田南」をやっているのだ。「あたし」は「あたし」をやっているのだ。無頼な自由さにシビれた私は、私も「あたし」になると決めた。そして「お定のモリタート」を唄い始めた。
 しばらくして、試しに「銀巴里」で唄ってみたら、客席の後ろにいるボーイさんたちがザワザワと動いた。どうやらトンデモナイ選曲をしたらしかった。それからめげずに「銀巴里」で歌い続けたかどうかも忘れてしまったが、この曲が今では私の大切なレパートリーになっていることは間違いない。 先だって、中年の女性にリクエストされ唄ったところ、「この歌を唄えるのはクミコさんだけだ」とうなずき合う女性同士の姿に驚き感動した。「お定のモリタート」はここまで市民権を得る歌に成長していたのだった。

「お定のモリタート」がクルト・ワイルとブレヒトの「三文オペラ」の中の「モリタート」であることは知っていた。「マック・ザ・ナイフ」というスタンダードナンバーになっていることも知っていた。
 そんなある日、新聞でオーディションの告知を見つけた。青山に「スパイラルホール」というものができるので、その柿落とし公演としてミュージカル「マック・ザ・ナイフ」を上演する。ついてはそのヒロインのオーディションを行うというものだった。オーディションは「銀巴里」以来受けたこともなかったし、ミュージカルというからには踊りもあるに違いない。不安はいくらでもあったが、きっとこの広告を見つけたのも神様の思し召しだと応募してみた。テープには「お定のモリタート」、写真は日本橋三越のライオンの頭に乗っかって脚を広げているもの。  書類選考を通過した。
 そして実技試験。歌以外はどう考えてもサンタンたるものだったが、後日、演出家の佐藤信さんに呼び出され、「君は面白いので、オーディションにはない役を作るから出てほしい」といわれた。
 自分はナニモノかであると思っていた私は「歌をソロで唄わせてくれるなら出ます」といってのけた。今思い出してもゾッとする。しかし、穏やかな表情で佐藤信さんはうなずき、私を出演させてくれたのだった。

 一九八五年の暮れから翌年のお正月にかけて「マック・ザ・ナイフ」は上演された。マックに林隆三さん、ジェニーに順みつきさん、それに渡辺えり子さん、斎藤晴彦さん、ヒロイン、ポリーにデビュー間もない毬谷友子さん。そして、当時はまだ無名の平栗あつみさん、中島啓江さん、豊川悦司さん。みんながゴチャゴチャといろいろなところから集められ、約一ヶ月の芝居がつづいた。
 稽古を含めると、二ヶ月、総勢三十名くらいの、ミュージカルとしては決して多くはない人数のモノであったにもかかわらず、私のココロはギチギチとひずんでいた。「集団」が苦手というのは、学校を出てもやっぱり直っていなかった。そんな私に佐藤信さんは、冒頭の「モリタート」をソロで唄わせてくれた上、他にもいくつかの歌をわり当ててくれた。
 しかし、千秋楽のパーティ、二次会でのスピーチで私はたしかこういったのだ。 「もうこのトシになって、回り道などしたくなかったのに、こんなことをしてしまいました。」
 当時三十歳ちょっとの私の、それからの「回り道」の長さを思うと、おかしく哀れで、ナサケナイ。自分をナニモノかと思っていた人間が、自分はナニモノでもないとわかるまでの「回り道」。つい、この間のことのように思えるけれど、もうかれこれ二十年近く経とうとしている。
 このミュージカルの後、次々に羽ばたいていったヒトたちを見送りながら、自分の中の何が足りないのか、気づくのには長い時間がかかった。
「それはあたし、名前はあたし」
 本当の自分をみつけるのは容易なことではない。


最終回「愛の讃歌」
>>ウフ. No.200408
 向こうから小学校四年生くらいの男の子が、顔を引きつらせヒーヒーいいながら、ブンブン傘を振り回し駆けてくる。果たしてその男の子は、私に近づくと、その傘の先を私めがけて突き出した。突き出したというには余りにか弱い力で。「ヒイーッ」といいながら、またその男の子は走り去ってしまった。「カゲロウ」のような子だなあ、と思った。
 部屋に戻ってテレビをつけると、ずいぶん前の「3年B組金八先生」をやっている。そこでは足をギプスで固められた男の子が泣いている。ボロボロボロボロ泣いている。同じ病院に入院している女の子は白血病で長くは生きられない、なのに自分はふざけたあげくの怪我で入院している。なんでなんで、あんなに真面目ないい子が死んで、ボクは何もしてあげられないまま生きてるの、と泣いている。
 教室に戻った金八先生は、黒板に「人間」と書き、もうひとつ横に人を書いて「人間人」と書いていった。
「人間ってヘンな言葉だろう、人の間って。でも、人は人間になるんだ、人と人の間をつなぐこと、人を思いやって、人のために何かしてあげる、そうして人は人間になるんだ」

『愛の讃歌』というアルバムを出したのは二年前。タイトル曲でもある「愛の讃歌」はそれまで私にとってはひどくヤヤこしい曲だった。シャンソン歌手たるもの、こんな名曲のひとつやふたつ唄えんでどうする。やってはみたものの、うまくいったためしがなかった。「あなた」と「わたし」しか登場せず、時々その「あなた」と「わたし」はゴッチャに重なり途方に暮れた。知人の娘さんの結婚式では、頼まれてアカペラで唄った。大切な人生の門出に、「あなた」と「わたし」がシドロモドロになったらどうしよう。心配だったが、なんとか無事唄い終えると、皆にひどく感激され、とりあえず胸をなでおろしたのだった。

 アルバムでは、そのコトバたちではなく、覚和歌子さんによる新しいコトバを唄うことにした。タンゴ風にアレンジされた曲調とも相まって、そこには潔い、自由なオンナが立ち上がっている。「愛」という名の下、「ココロ」と「カラダ」をきちんと見極める物差しをもつオンナが立っている。
   
   約束はしないで 誓いも欲しくない
   醒めない夢には 無駄な決め事
   甘いキスひとつで 私たちは飛べる
   最果てを持たない 空を強い羽で

 唄うにつれ、どんどん背筋が伸びる。凜々しくなっていく気がする。これもたしかに「愛の讃歌」に違いないと思った。「わが麗しき恋物語」の詞も作ってくれた覚さんに出会ったのは、アルバムの音楽プロデューサーをお願いした谷川賢作さんによる。賢作さんのお父さんは谷川俊太郎さん。詩人つながり、いや、コトバの達人つながりともいえる。
 その俊太郎さんの詩に「びわ」という作品がある。ちっちゃな詩だがコトバを口にした瞬間、カラダがふくらんだ。「びわを食べるためには手がなくてはならないし、手があるためにはカラダがなくてはならないし、カラダがあるためにはこの世がなくてはならないし、この世があるためには多分、びわがなくてはならない」
 こんなダイジェスト風に書いてしまっていいのかどうか、でも結局のところ「このこと」をいっているのだ。「びわ」があるためには「この世」がなくてはならないし、「この世」があるためには「びわ」がなくてはならない。「真理」というモノがどういうものか、よくはわからないが、これは「真理」に違いない、そう思った。
 この「びわ」という詩のことを、ステージで思わずしゃべっていた。春先から続いているコンサートツアーの一部の最後、岩谷時子さんの「愛の讃歌」を唄う前に。 一部の最初は覚さんの「愛の讃歌」、最後は岩谷さんの「愛の讃歌」。これは始めに決めたことだった。七月末に越路吹雪さんのカバー集を出すこともあり、はずせない極めつきの一曲ということもあるが、それ以上に、この辺でもう一回、この曲と向き合ってみたかった。結婚式ではないところで「あなた」と「わたし」の世界に向き合ってみたかった。「あなた」と「わたし」が見つめ合う、カラダのぬくみを確かめ合う、互いのイノチを求め合う。「あなた」と「わたし」がこうして「愛」の中に生きるためには、その外側におっきな「愛」の世界がなくちゃならないんだろう。「あなた」と「わたし」の「愛」がなければ、世界の「愛」はないし、世界の「愛」がなければ「あなた」と「わたし」の「愛」もないんだろう。
 これって「びわ」って詩とおんなじ、そんな気がした。

 何日前になるだろう。捨てようとしていた夕刊を開いた。「世界報道写真展」と書かれたページに一枚の写真。鉄条網の中、地面に足を投げだし座り込む黒ズキンをかぶったオトコ。そしてそのオトコの脇には、いとおしむように抱えられた男の子の姿。キャプションには「イラク・ナジャフ近郊の戦争捕虜収容所で四歳の息子を抱きしめるイラク人男性」とある。面会に来た息子を、手錠をはめられたままの父親は抱きしめることができない。それを見かねた米兵の一人がそれをはずしてあげた、とも。
 黒ズキンをかぶった異様な姿の父親の左手は息子の額にあてられている。大きな手が小さな息子のカラダを包む。息子は半開きの唇のままボンヤリとしていて、それは泣き疲れたあとの表情にも見える。カラカラに乾いた地面と寄りそう二つのカラダ、両方の熱さが一気に立ちのぼった気がした。と同時に涙があふれた。ボタボタ落ちた。
 こんなことばかり続くのだ。涙がボタボタ落ちることばかり起きるのだ。 たとえば子供が子供を殺すことも、殺された子供も、殺した子供も、殺された子供の父親の、なぜ「いない」のか、それが「わからない」という手記も。「あなた」と「わたし」が引き裂かれる悲しみはもちろんだけれど、愛する「あなた」を持たない「わたし」の悲しみもまた大きい。「わたし」の中に愛する「あなた」がいればヒトを傷つけることはできない。愛する「あなた」を持つことは、愛する「わたし」を持つこと。「あなた」を持てない「わたし」のどんなにつらいことか。


 私に傘を突き立てようとしたカゲロウのような少年の姿がうかんだ。ヒーヒーと過呼吸みたいに生き急いでいく姿がうかんだ。胸がつまるように痛くなった。
 ここのところ、コンサート終了後、サイン会なるものを続けている。もちろん販売促進の目的もあるけれど、来て下さった方々とコトバを交わし握手をすることは、私に大きなチカラを与えてくれる。これまで、舞台のアッチとコッチは絶対分かれているもの、みだりに行き来することは、お互いのためならずなどと思い続けてきたが、もうどうでもいい。汗まみれのステージ化粧を見られたっていい。それどころではない、という気さえする。この世界は、大波に揺れに揺れている大きな船のようなもの、私たちは、その中で手を握り合い励ましあっている乗客、そんな気もする。
 この大きな船がこれからどうなるのか、わからない。でも「わたし」はずっと「あなた」を確認する。まっすぐ目を見つめ手を握って「あなた」を確認する。

 また痛み出した歯の治療中、BGMが「愛の讃歌」になった。タンタンターンタ、タンタンタンタンターン、威勢のいいスウィングに薄目を開けると、診察用のライトが飛び込んできた。スポットライトのようだ。あわてて目を閉じた。




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