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クミコ - ココロの扉をたたくウタ

茶目子のつれづれ著作権表示

2004年4月9日

「居候的シャンソン歌手」

「茶目子」というのは、大正末期から昭和初期にかけて流行った歌、「茶目子の一日」から取ったもの。この主人公は尋常小学校に通う女の子で、目が茶色、というほどの形容からすると、よほどスバシっこく、世の中を右へ左へと駆け回るように、自由にイキイキと生きている女の子に違いない。

できれば、私もこんなふうに生きてみたい、唄ってみたい、そう思っていた。今回、このコラムの題名に「茶目子」を使ったのも、クルクルと目を回しながら、世の中のアレコレを見たまま感じたまま書きつづっていければ、という思いからだ。カラダ中の皮フをピーンと張って、ちょっとの風でも逃してなるものか、くらいの気概は持ちたいものだなあ、と思う。

かくいう私は一介の唄い手で、「シャンソン歌手」とも呼ばれたりする。シャンソンのレパートリーも少なく、フランスにもパリにも行ったことがない人間を、はたして「シャンソン歌手」といってしまっていいのかどうかはわからないし、この呼ばれ方から必死で逃げようとしていた時期もあったのだが、この頃では、ヒトサマの家の居候でも、ホームレスでいるよりはマシくらいの気持ちで使わせていただいている。

こんなことになったのも、昨年、私が唄った「わが麗しき恋物語」という曲が、「聴くものすべてが涙する」などという、こちらが恐縮してしまうような取り上げられ方で世の中に流れ、何をかくそう、この曲がバルバラという女性の作った美しいシャンソンだったからだ。本当に何がどうなってどうなるのか、先のことはわからない。

今月18日、その「居候的シャンソン歌手」の私が、大阪でコンサートをする。場所は梅田の「シアター・ドラマシティ」。前半では、シャンソンを日本でこれだけポピュラーなものにした、類まれなる表現者「越路吹雪」さんの曲ばかりを唄う。そして、それらの曲のほとんどの詞を作られた「岩谷時子」さん。シャンソンを日本の曲のように生まれ変わらせたその言葉たちは何回唄っても飽きることがない。このお二人もまた自由な「茶目子」のようだ。限りない敬意を込めて、これらの曲たちを唄いたいと思う。

春のひととき、ぜひぜひお運びのほど。

2004年4月23日

「分かれ道」

「ハイ、それではここでクミコさんの曲!」といって流れてきたのが、フニャフニャと訳のわからぬロックもどきの歌声。何だ、こりゃ、私じゃない!と身もだえするうち目が覚めた。目が覚めても、まだ半分は夢の中なので、あの時のあのラジオ番組では、本当に「私の」歌が流されたんだろうか、とか、収録された番組は確かに放送されるんだろうか、ゴミ箱に捨てられたんじゃなかろうか、とかロクでもないことが頭をめぐる。

「好きな歌だけを好きなように」といえば聞こえはいいが、結局のところ「好きな歌だけ好きなように」唄える場所しか持たずに生きてきた私が、今いろんな場所に行っては、いろんなヒトたちに向かって唄えるようになった。これはちょっとこの前まで路地裏で細々やっていた八百屋が、突然デパートに進出するようなもので、急に太ったお腹やお尻に走るヒビのようなものが、ふとココロにも出るらしい。それがこんな「悪夢」になったりするのだろう。ナサケナイ話だ。

つい先だって行った大阪の放送局の玄関に出演者控室の案内ボードが光っていて、そこに「円広志」さんの名前を見つけた。円さんといえば、「飛んで飛んで…」が有名だが、その曲が生まれたコンテストに、実は私も出場していた。世界中から集まるアーティストに混じり、日本の予選を勝ち抜いて出場する数組の中に円さんも私もいたのだった。
「日本武道館」で行われる大会を前に、日本出場組の私たちは「つま恋」で合宿生活に入った。仲間だけどライバル、この一直線に並ばされたようなミョーな緊張感の中、私は夜になると咳こんだ。眠っているのに眠っていない、カラダもココロもずっと微熱を帯びているような毎日。

「グランプリ!『夢想花』!」 まぶしいスポットライトの中、ステージに上がる円さん。 「飛んで飛んだ」円さんとは対照的に「落ちて落ちた」私は、暗い客席の中から、その背中を見つめた。 その時、ひとにはくっきりと「分かれ道」があるのだと知った。 「勝者」と「敗者」の分かれ道。決して入れ替わることのできない道。その日から私の長い人生浪人の旅が始まった。優勝メダルを首にステージで唄う円さんの姿は、今でも懐かしく、でも「あざやかな悪夢」のようによみがえる。