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クミコ - ココロの扉をたたくウタ

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2001年3月4日

三宅島の高校生たちも、今日が卒業式だという。
40人あまり、避難先の秋川高校で。

大学の卒業式の日、暗い気持ちで学校へ行った。
卒業できているのかどうかわからない。
その前、たまに授業に出てみたら、あいにくテストの日で、
生まれて始めて「白紙答案」を出した。
「はい。提出!」までの時間、何もすることがなかった。
この授業を落とすと、卒業できない。
正直に教師に許しを乞い、レポート提出に代えてもらっていた。

事務所で「私、卒業できているでしょうか。」と聞くと、
職員があきれたように私を見た。
「クラスの教室に行って名前が呼ばれたら卒業ですよ。」

入学式の日、まちがって違うクラスで記念撮影をしてから
ボタンがかけちがってしまっていた。
「クラス」がわからないまま時が過ぎた。
「クラス」はなくても生活はできた。
そして最後の日に、やっと本当の「クラス」にたどりつき、
ドキドキしながら、その時を待った。

「サイトウクミコ!」
呼ばれた時は情けないほどうれしかった。
こんなにうれしいとは思わなかった。
もう、こんな学校に来なくてもいい。
ヘベレケになった私を友だちが家まで送ってくれた。
記憶がない。

翌朝遅く起きると、アルバイトにでかけた。
秋葉原のちっちゃい事務所。

東北訛りのおじいさんが社長で、
その社長にいつも小言をいうおばさんの二人だけ。

お昼近く二日酔いのままドアをあけると、社長が
「おかあさんから遅れると電話をもらったよ。
昨日、卒業式だったんだってねえ。
いやあ、ウチなんかにシンソツのヒトが来てくれてるなんてなあ。」
と、うれしそうに笑った。
シンソツ。そうか、私は新卒だった。

その後、何ヶ月かそこで働いた。
お昼にテレビをつけるとピンクレディーが跳びはねていた。
おばさんは、相変わらず、10円、20円のことで、
社長に文句をいい、私にはやさしかった。

社長の所へは、時々、ヤクザの取り立て屋が来て、
すごんで帰っていった。
「じいさんが首くくったっていいんだけどよ、
カネ返さなきゃしかたねえんだよ。」
「そういっても、ないんだから…。」

そんなくり返しは、いつのまにか慣れた日常に
変りそうだったが、
私が、一人の時、社長がポツンといった。
「もうダメなんだなあ。」

さすがに息苦しくなって、そこを辞めた。
今でも「須賀川」という地名を聞くと、行ったこともないのに
東北訛りの哀しいひびきが思いだされてなつかしい。

秋葉原へも行くことはなくなった。
去年、何としてもと、パソコンを買いに電気街を歩いた。
どの店を覗いても、私にわかるキカイはない。

それ以前、秋葉原で最後に買ったキカイはマッサージ機だった。
浪人も留年もせず大学はでたものの、
その後、回り道ばかりしている娘の、せめてもの親孝行。
このアイデアに自画自賛し、大枚をはたいてのプレゼントだったが、
引っ越しの時、真っ先に捨てられてしまった。

2001年3月11日

商店街を歩いていると、買物カートを押しながら
前を歩いていくおばあさんのズボンがぬれていた。

そのちょっと前に、スーパーのレジで、
前に並んだおじいさんに連れられた、
おばあさんのズボンが
みるみる黒くぬれていくのを見ていた。

その時がはじめてだったのでドキドキした。
連れの母親に、
「あのおばあさん、気の毒だねえ」というが、
年の頃は母親とあまりかわらない。

「年とるって、はじめてだから不安なのよ。」と
母親が時々いう。
一つ一つ身に起きることが、はじめての扉を
開けるように不安らしい。

鹿児島に嫁にいった友人の亭主が
先週亡くなった。
出張で来ていた東京のホテルで。
バスルームの便器のわきで、ドアをふさぐように
倒れていたという。

「ごめんね。羽田に来てもらっても顔見られないのよ。」
「知ってるよ、ルーシーさん見てるもん。」
「ルーシーさん?」

殺されたルーシーさんの遺体がイギリスへ帰るのに
まるで荷物のように梱包されて運ばれるのを
TVで見ていた。
何だかおかしくて、二人で笑った。
「50の坂が越えられなかったねえ。」
友人がつぶやいた。

若い時を越えるのも大変だ。
5、6年前、道端で泣いている中学生を見た。
壁にかくれるように泣いている。
太った男の子。
グレーの制服のズボンがぬれている。

暗いイジメに心が凍った。
おばあさんも中学生も失禁は哀しい。

オシッコはできることなら勢いよくしたい。
生命の力のように。

ピアノ弾きのアルバイトをしている頃、ビルのトイレに行くと
「シァーッ!!」とほれぼれするような音がした。
「エチケットの消音キ」などクソくらえ。
そのあまりのみごとさに感動していると、
出てきたのは同じ店のレジのオンナのヒト。
東北の農家の末っ子だという彼女を、
その時からとっても好きになった。

彼女が辞める時の送別会で、
一人一人がはなむけの言葉を送った。
私の番になり、この話をすると、まわりから
「そりゃあ、クミは、ツレションだもんなー。」

前科があった。
飲みにいって、深夜、神田の路地で、
コックさんやボーイさんと一緒にオシッコをしていた。
みんなは立って。私はしゃがんで。
若さのせいだ。

でも、みんながそれぞれ川のように水の流れをつくっていくのが
うれしくて気持ちがよかった。
「ねえ、みて、みて!」と叫んだが誰も見てくれなかった。
恥ずかしかったらしい。
いいヒトたちだった。

そう、だから、できることなら、
最後まで一人で「シャーッ!!」とオシッコがしたい。
いい音させて。
オムツなんかの世話にならずに。

こんなこと、書いちゃっていいのかなあ。春先に。

2001年3月18日


イギリスの狂牛病からはじまって
ヨーロッパ中が肉問題で大変だ。

牛は「草」を食べて、自分は「肉」になる。
何て切ない動物だろうと、子供心にも思った。

その草を食べる穏やかな動物に、肉を与えたのだという。
それが原因だという。
あげくの果ては牛の一掃丸焼きだ。
まっ黒になって足がピョンピョン飛び出している
映像を見て怒りが煮えたぎる。

食べているところをヒトに見られるのが
何より恥ずかしいというヒトがいた。
食べるという行為は生殖の行為とおんなじだという。
本能の行為はヒトに見られたくないという。

だから一緒に食事をする時は、いつも緊張した。
けれど一度生殖の行為をしたら、何もいわなくなった。
なるほどと思った。

そのヒトは食べた後、口をぬぐったナプキンを
必ず食器に投げ捨てた。
たとえ、そこに食べ物が残っていても。
さも、つまらなかった、といわんばかりに。
食べ物の葬式のようで、それがとてもいやだった。

ちっちゃな子供は、ごはんをなかなか食べない。
丸いチャブ台でごはんを食べていた頃、
父親は、あぐらのまん中に私を乗っけて
あの手、この手で娘の気を引いた。

ほら、こうやって白いごはんを黒いのりで
クルクルッと巻くの、ほらね。
それから、おしょうゆをチョコッと先につけて。
ほらほら、おいしそうでしょ、アーン。

おいしかった。

このお茶碗のごはんはね、
お百姓さんがアセミズ流して作ったものだから
一粒も残しちゃいけないんだよ。
こうしてちゃんと、お箸でとらなきゃね。

残さず食べた。

何年か前、実家に行き、父親の茶碗を見ると
ごはん粒がびっしりとついたままだった。

今週行く大阪は「食いだおれ」の街。
織田作之助の「夫婦善哉」を読んで店に行った。
一人分でもちっちゃなお茶碗が二つ。
なるほど、これがメオトのゼンザイか。

二十年くらい前のお正月に、この古い映画が放送された。
主役が森繁久弥と淡島千景。
とんでもない放蕩息子と、そのとんでもないオトコに
裏切られつづけながらも尽くすオンナと。
人生の辛酸をなめた二人がゼンザイを食べる最後のシーン。
ほのぼのとおかしい。

人生最悪の時をむかえていた私は、妙な言い方だけれど
目からウロコのように、泣いた。
悲劇も喜劇も背中合わせ。
ヒトは哀しくて、そしておかしい。

今でも大阪に行くと「夫婦善哉」が食べたい。
ついでにジァンジァン横丁で、朝っぱらからビールと串揚げ。
ほろ酔い気分で通天閣の地下の歌謡劇場に足を運べば
もう天国。
オシッコ臭いことなんて気にもならない。

ア、またオシッコ!

2001年3月26日

はじめて新幹線が通った時、公園のブランコに乗っていた。
藤枝にいた頃。
まっ白な超特急だと思いこんでいたら、
黄ばんだ歯のような色だった。
それでもワクワクした。

東京、大阪の三時間半は、今では
「かものはし」みたいな「のぞみ」でニ時間半。
座席においてある雑誌が
「トランヴェール」ではなくナントかいう経済誌になっている。

はじめての大阪でのコンサート。
場所は心斎橋パルコの上にある「クアトロ」
楽屋にもトイレにも、壁から天井から落書きがビッシリ。
気持ちがいい。
オンナのヒトが足をひろげている絵が
あまりにうまいので、感心する。
落書きもセンス。
油断できない。

早目にリハーサルを終え、MBS局のバスに飛び乗る。
「ちちんぷいぷい」という生番組で
「帰ろかな」を淀川のほとりで唄うのだ。
一時、鉄橋の上と聞かされていたが、
実際は、つぼみのふくらんだ桜並木の散歩道。

風が強い。
薄いジョーゼット一枚の上半身は冷えきっている。
何十メートルか先にある、上條さんの弾くエレピの所まで
唄いながら歩いて、そこでインタビューという段取り。
リハーサルを重ねる。
歩きながら唄う右側をスタッフがモニターの箱を抱え移動する。
大変だ。
本番ではインタビューの最中ついに鼻水がでた。
知らないフリをする。
上條さんも私もガタガタになりながらクアトロに戻る。
一生懸命「ブドウ糖」をなめる。
疲れたアタマとカラダにすぐ効くと書いてある。
白いかたまりが、ヤクっぽいところがいい。

松本さんは、女性陣の着替えのたびに
楽屋を追い出され、行ったり来たり。
緊張している。

いつもの土屋さんに加え、今回はベースに大坪さん。
はじめて見る特殊なサイレントベース。
大坪さん用に作られたものだという。

コンサートは始まってしまえば、必ず終わる。
そうはいっても、毎回始まる前はツラい。
何がかなしくて、こんなことをと思う。

松本さんのリーディングを中にはさみ、無事終了。
終わってしまえば、必ず悔いは残る。
でも「とりあえずビール」で乾杯する。
大人数の打ち上げの後、拉致されるように
車に乗っけられホテルに戻る。
することがないので、さみしく「とりあえずビール」をする。

聞けば、その後、他のメンバーはアメリカ村近くの屋台で
また宴会をしたらしい。
ホテルが違うのがいけなかった。

ところで私は一体何のために唄っているのか。
よくよく考えてみた。
結論、「最後に、みんなでおいしいお酒を飲むため」

こんなこといえないなあ、おおっぴらに。