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クミコ - ココロの扉をたたくウタ

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2002年8月1日

コンサートのたびに寿命が3年縮まっていったら
一体どうなるんだろうと思う。
確かに、いろんな意味でけっこう「BAD」な状況では
あったけれど、
人生なんて、おおかた「BAD」の連続なんだろうし、
本体を痛めることなく、うまく「BAD」のジャブを受け続けることにこそ
生きる意味もあるのだろうと思ってもみる。

それに大体、来てくださったお客様を、
ハラハラドキドキさせてしまうなんて事がとんでもない。
別段、テーマパークに来てコースターに乗っている訳でもないのだから
こんな所で、そんな不幸に出会ったことこそ気の毒だ。
寿命が縮まったのはこっちの方だ、という声まできこえる。

「コンサート」というのは、やはり独特のものだ。
ただの「ライヴ」とも違う。
もちろん、いわゆる「エイギョウ」とも違う。
自慢にはならないが、
ご指名いただいて、相応のギャラをいただく、
この「エイギョウ」という「お仕事」でトチったことはない。

「お仕事」と書いて気がついた。
「お仕事」に失敗は許されないとしたら、
失敗してしまうものは「お仕事」ではないのか。
「コンサート」は「お仕事」ではないのか。

うん、やっぱり「お仕事」ではないのだ、これは。
唄っているヒトをスパっとタテ切りにした時、
「魂」が見えなくちゃいけないもののようなのだ。
「歌」が見えるんじゃなくて、「魂」が見えなきゃダメみたいなのだ。
コトバとメロディーと声、それだけじゃなくて、その上にあるモノ。

ステージに立った時、体の中がスースーすると不安だ。
コトバとココロが混ざっていないようでドキドキする。
何百回も良く振って混ざりあってチャンプルー状態に
してあったはずが、
いつのまにか2つに分離してしまったドレッシングみたいだ。

ココロと混ざり合わないコトバはみじめだ。
何千回も書いてきた簡単な漢字が
ある時、まったく違うものに見えてきてしまうように、ヨソヨソしい。

誰の曲だったか、知り合いの歌手のヒトが唄っていた曲は
歌詞が「会いたい」ばかり。
始めから終わりまで「会いたい」と唄う。
確か永さんの詞だったと思うが、
この手のやり方は以前アダモの「雪が降る」で
教えてもらったことがある。

  ゆーきーはふーるー あなたはこないー
  ゆーきーはふるー  あなたはこないー
  ゆーきーはふるー  あーなたはこなーいー
  ゆーきはふーるー  あなたはこないー

これを全編くり返し、最後に「バッカヤロー!」と叫ぶ。

「結局、こういうことでしょ、この歌って」
と永さんはいった。
まあ、確かにそういうことだが、これをジァンジァンでやった時は
みんながシンとした。
唄えば唄うほどシンとしていく。
タダならぬアクシデントが起きたと思っているらしい。
ついに、お客の一人にきいてみた。
「あの、これ、面白くなかったですか?」
「あ、いえ、面白かったです。」
気を使ってくれているらしい。

私の表現力の足りなさも大きかった。
今はそう思う。
もう一回チャレンジしてみたいとさえ思う。

世の中の曲の歌詞が全部ワンセンテンスになったらいいなあと、
時々思うけれど、
もしかしたら、そのぶん、もっと大変な努力がいるのかもしれない。
「芸に近道」はないってことか。

コンサートの1部の終わり、
やった、やった、完ペキ、これで「4勝13敗」と喜んだ
「愛の讃歌」だったが、
家に帰って聴いてみたら一カ所違っていた。
「3勝14敗」になった。

「失敗のないコンサート」までの道は険しく遠い。

2002年8月8日

夏がこんなに暑かったのかどうかわからない。
でもコドモの頃、夏休みのたびに、
水戸で酒屋をしている祖母の家に帰っていた私は、
売り物のコーラとファンタとアイスクリームに明け暮れ、
ある日突然口がうまく開かなくなった。
店の車のバックミラーに、ムリにこじあけた口の中を映して驚いた。
舌の裏側全体が、ブツブツと水ぶくれのような点々だらけに
なっている。
ちょっと触ってもいたい。

「栄養不足ですね」医者はいった。
ロクな食事もとらず、店のお菓子を片手に
一日中遊びまわっていたのだから当然だった。

祖母が時々ゆでてくれるトウモロコシは、
今のものより、甘くもやわらかくもなかったけれど
ゆで上がりの、体がビンビンするような
豊かな香りと味は、もうあの頃だけのものだ。

スイカだって負けてはいなかった。
おっきな丸ごと1コを半分にしては
4つ年下のイトコと競って食べた。
「半分」というのは、なかなかむずかしいもので
ある日、どうみてもイトコの方が大きいとふんだ私は
説教を始めた。

ヒトは、みずから不利なものを選びとるべきである。
それがヒトを成長させるのである。

と、まあ大体の主旨はこんなところだったが
まだ小学校1、2年の少年は目を白黒させ私を見つめた。
けれど、それがスイカの交換とは結びつかず、
この鈍感なイトコを横目でにらみながら
私は自分のスイカにかぶりついた。

一人っコの私の遊び相手は、やっぱり一人っコのこのイトコで、
布団やら枕やらを部屋いっぱいに積み上げ、
私たちは「少年ケニア」になった。
泳いだり、溺れたり、落っこちたり、よじ登ったり、
とび越えたり、夏休み中「少年ケニア」は忙しかった。

でも不安でコワイ時が時々あった。
「天使の通る時間」とでもいうのだろうか、
イトコの表情がパタッと止まってしまう。
そうなると、私は何も話しかけることができない。
それまで「少年ケニア」だった私たちは、
突然、目の前に開いた「現実の扉」の前に立たされて
しまうのだ。
静かに止まった時間は、彼がまた「少年ケニア」に
戻るまでそうして流れていった。

今思えば「空想」と「現実」の狭間にある
コドモという生き物の成長過程とでもいってしまえるのだろうが
やっぱり、コドモだった私にはコワい時間だった。

今ではすっかり、いいオヤジになったであろう、このイトコとは
祖父の葬式以来会っていない。
その時、彼の横にはオンナのコとオトコのコがチョコンと並んでいた。
「何十年か前の私たちだね」と笑い合った。

葬式の後、しばらくして、遺産相続モンダイで
親戚中がバラバラになった。
二足三文だった土地が、公共施設建設予定地とかに
なったせいらしかった。
「憎しみ」だけが残った。

「ぼく夏」と略される、ゲームソフトのファンは多い。
麦わら帽子と虫捕り網の少年少女の後ろ姿に
みんなが自分を重ねるのだろう。
失われた時への憧れはちょっと哀しい。

そして大きくなってオバサンになった私は、
最近はじめてヒトを「憎む」ことを知った。

2002年8月15日

今年の花火は鮮やかだった。
風向きのせいか、風速のせいか、煙がササッと払われて
夜空にくっきりと花火が咲く。

神宮前に住む友人夫婦に誘われ、
去年、今年と、ちっちゃなレストラン脇の路地の塀に上っての鑑賞。
ビールの酔いも手伝って、咲いては散る花火に
「モノのアワレ」を感じ思わず涙してしまう。

去年は総勢8人だったのが、今年は5人。
ヒトにも「モノのアワレ」はあるようで、いつのまにか消えてしまったヒトもいる。
消えてしまったヒトたちは、写真の中でだけ笑いつづける。
多分一生会うこともあるまいと思うが、特別な感慨もない。

「集まり散じてヒトは変われど」
たしかこんな歌詞があったと思う。
ほとんど唄えなかった大学の校歌だが
この箇所だけは妙に記憶している。
ここだけに現実感があったせいだろう。

この大学には、みんなで肩を組んで校歌を唄いたがるヒトも多く、
始めて行った早慶戦の帰りの「コンパ」では
「青春の酔い」の中、やっぱり肩を組んで大声で唄った。

びっくりしたのは、友人の結婚式で、
原宿のおしゃれなレストランでの披露パーティの最後。
突然、出席者全員が輪になって校歌を唄い出した。
あ、ダメだ、こりゃ。
それからこの友人とはキョリをおこうと思った。

別に校歌が悪いわけではない。
歌に罪はない。
お手軽な連帯感の上で誇らしげに唄うニンゲンがいやなだけだ。
この大学に関係のないヒトも巻き込んで「さあ、どうだ」というような
ムシンケーさがいやなだけだ。

子供の頃、家の中に「花火のタマ」というやつがあった。
もちろん火薬も入っていない、まるで傷痍軍人の黄ばんだ包帯を
巻いたようなもので、
これがどうしてあの花火になるのか合点がいかなかったが、
とりあえずタカラモノとしてしまわれた。

その「白いタマ」はその後の引っ越しでゴミとなったのだろうが、
引っ越し先で仲良しになった「ハッカイ」というあだ名の女のコは
ある日、ふと私に「秘密」をもらした。

私はね、時々白いタマを見るの。
畳にゴロンと寝てたりするとね、タマがポンポン目の前を飛んでゆくの。

「ハッカイ」というあだ名のとおり、太っちょで、赤ら顔で、
茶色いちぢれ髪の陽気な彼女からは想像もつかない話だった。
でも、何だかとってもホントのような気がして、
そんなモノを見てしまう彼女がとてもいとおしかった。
遊びの合間、私たちは、おっきな彼女に私が抱かれる形で
よく昼寝をした。
「ハッカイ」のカラダはあったかくて気持ちよかった。

その彼女が自殺をしたと聞いたのは大人になってからだ。
中学2年での再度の引っ越しでお別れしてからもう
20年以上たっていた。

数年前、知り合った「霊能者」のヒトが、神社の山肌を指さし
「ほら、あんなにタマが飛んでるわ」といった時は驚いた。
「ハッカイ」がうまく生きられなかったわけが、
その時少しわかった気がした。

赤い線の入ったストローハットと白い綿シャツの背中を向けたモギリが
夜空をじっと見つめている。
気持ちのいい強さで風が吹いている。
色とりどりじゃなくて、ちょっと赤味がかった白い花火が
一番キレイだ。
時々あたりのマンションから拍手が起きる。
みんなが夜空を見つめている。

ビルの谷間に咲いた花火は、そのうちパタッと見えなくなり、
「ああ、もう終わりの時間だ」と時計で確認した私たちは
それぞれの場所に戻っていった。

2002年8月22日

ボーとした夢を見た。
北海道の船着場からボーと仰向けになって流されていく夢で、
そんな夢を見た翌朝、パソコンが壊れた。
「ウインドウズ98」のマークから一向に先に進まない。
夢の中では、どんどんどんどん流されていったのに、
現実は止まったままだ。

そういえば、先だって、録音スタジオでアシスタントの男の子がいっていた。
「突然、ケータイの電源がプッツリ切れてしまって。
何もしていなかったので、データが全部消えちゃって
ボーゼンとしました。」

私の場合も、もちろんなあーんにもしていないので、
メールアドレスはおそらく消えてしまうのだろう。
消えるものが、この程度で良かったというべきか、
恥ずかしいというべきか。
古びた住所録が急にいとおしくなったりする。

この夏の間続いているレコーディングは、
始めのうち、いわゆる「ウチコミ」の伴奏だったので
スタジオにはコンピューターが真ん中にいた。
マイクの前に立つのは、私一人。

ところが、今週になって「ナマ録」が入った。
一回は、アコーディオンの桑山さん率いるタンゴバンド。
「愛の讃歌」「スカーフ」が切れ味鋭いアジテーションにも似た
色合いに変わっていく。

もう一回はピアニストの島健さんとジャズメングループ。
「枯葉」とオリジナルの「願い」が普遍的な美しさで迫る。
ああ、ナマ音って何でこんなにいいんだろう。
神サマがヒトに造らせた楽器と音。
それはやっぱり神サマの音だ。

もうひとつ神サマが造ったニンゲンの声の私は
100万円もするマイクに助けられている。
これを毎回、エンジニアの北川さんが大事に運んでくれる。

ところが、このマイクはちょっとしたリップノイズでも
きちんと拾ってしまうキチョーメンなやつなので
ちょっと崩れた調子で録音にのぞむと、
聴こえてくる自分の歌のあまりの下手さに
とことんヘコんでしまうというシロモノでもある。

高性能なモノを、味方にも敵にもするのは、それを使うニンゲン次第だ。
「ヒトはそのヒトと見合ったヒトとつき合う」と誰かがいっていたが、
キカイにしてもしかり。
私のパソコンなどは、その機能の高さに比べ
使い手のあまりの能のなさにキカイがあきれ果て、
オリンピックランナーが、街の運動会で走っているような日常的不満を
今回一気に爆発させたのではないかと思えたりする。
気の毒なことだ。

先日のスタジオは「月島」にあった。
地下鉄から表に出ると昼間だというのに
「もんじゃ、いかがですかあ。ご案内しますよー。」という声。
見ると「月島案内所」ができている。

「食べ放題1480円」と書かれた店先で
ジャージャーやっている若者たちを横目にスタジオに入る。
モダンアートっぽいおっきなスタジオ。

「下町」にはこうした「江戸」と「ニューヨークのソーホー」が
交差したみたいなところが多い。
馴染みあっているというのか、いないというのか、
行く度にいつも不思議な気分になる。

超高層ビルもたくさんあって、道路も広いのに
うっかりしていると、どこかに紛れ込んでしまうような、
ヒョッと、ヒトさらいに腕を引っぱられてしまうような、
いつもちょっと迷子をしているような、
そんな気分になる。

夜、スタジオを出て歩いていると、
一軒の「もんじゃ焼屋」の前でオバサンが
「10%引きですよ。店もキレイだから食べていって」という。

誘われるまま店に入ると、このオバサンにそっくりの太った息子を盛り立てるように
オジサン、おじいちゃんが一生懸命働いている。
きっと、ついこの間まで、グレてやる気のなかった、
一家中の悩みの種だったであろう、この無愛想な息子は
案の定、一番先にサッサと店をあがってしまった。

「どうもありがとうございました。」
最後に店を出た私たちに、
オバサンとおじいちゃんが深々と頭を下げた。
できたばかりの真新しい店の名前は、
どうやら息子の名前のようだった。

ヒトもキカイも扱いはむずかしい。

2002年8月29日

まったく頭に入らない歌詞を眺めていると電話が鳴った。
「阿波踊り、見に来ないの?」
母親の声だ。

家が阿佐ヶ谷と高円寺の中間にあるため、
8月はじめは「七夕」、終わりは「阿波踊り」という
夏の「行事」は、必ず娘と一緒に行くものと思っているらしい。
甘えていたものに甘えられる、もうそんなトシになっている。
沿道で、うれしそうに手を叩く母親を見ていると
甘えられて迷惑がることこそが、幸せなのだと思えてくる。

ヒトの親と子は甘く哀しくからみ合う。
その点、アザラシはいい。
一才か二才のコドモとはいえ、一頭で悠々と川など上がってきたりする。

ところが、ニンゲンの側では、上がってきた川が汚いとかいうことで
これを保護するとかしないとかが問題になるというので驚いた。
アザラシの「激ヤセ」というのも、アザラシの「笑顔」というのも
今回はじめて聞いた。

悪い冗談だろうと思っていると、
「ボクは、今回の結末が恐ろしい。
もし、このタマちゃんが死んでしまうようなことにでもなったら
もう日本人は立ち直れませんよ。」
高名な脚本家が真顔でいっている。

これってさあ、前の晩しこたまカモナベ食って、
翌日、カルガモ親子の行先を心配してんのと
おんなじじゃないの、ねえ。

どだい、他のイノチを奪って生きているニンゲンに、
そのイノチについていえることなどひとつもないのだ。
アザラシを保護するかしないか迫られた大臣の
「でも天然ですからねえ」という発言は
どうも「ウナギ」や「ハマチ」が連想されておかしいけれど、
やっぱり正しい。

去年の阿波踊りは二日間とも雨にたたられ
二日目などは、とうとう「中止」になってしまった。
ビニールに包まれた太鼓を叩くヒトの、水滴のしたたる浴衣姿に
「無念」の二文字が浮かぶ。

私も「無念」を抱えたまま今年がやってきたわけで
踊るアホウも見るアホウも、ひときわ熱い。
「阿波踊り」がいいのは、「よさこいソーラン」系の踊りと違って
とにもかくにも、あの「阿波踊り」の型がなくてはいけないという
「制約」のあるところだ。

どんな表現でも「制約」がないものはつまらない。
「制約」があって「自由」がわかる。
「型」からハミでようとするギリギリのせめぎ合いの中で
エネルギーが生まれる。
ハジけるものに心が奪われるのは、
その瞬間、みんなの「制約」を跳び越えるからだ。

だからダラダラ踊っているヤツを見るとムカつく。
「しっかりやれ!」と叫んでしまう、
反対に、目がもうアッチ側にいって地をはうように踊り狂うヒトを
見るとゾクゾクする。
ニコニコ、クネクネ、「カブいて」いるオジサンなんか見るとワクワクする。

そうやって2時間あまり、たくさんの「ナントカ連」を見つづけた。
そして、思ったこと。
「芸能」に大切なのはまず「開かれている」こと。
表現したいのがヒトの「内側」でも「外側」でも
表現者は「開いた」形でそれをヒトに見せなければならないこと。
当たり前のことだけれど、忘れてしまいそうな、
とっても大切なことだ。

「あのね、今さあー」
突然の大声にビックリして横を見ると、
勤め帰りのサラリーマンがビール片手にケータイでしゃべっている。
汗にまみれたその姿は、川から上がったアザラシのようだった。