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クミコ - ココロの扉をたたくウタ

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2001年4月2日

土曜日は、満開の桜に雪が降った。
青山墓地の桜のトンネルを抜け、六本木アークヒルズの裏の
桜並木を寒さにふるえながら歩く。
友人のデジカメの中の夜桜は妖しく美しい。

昨日は、家の近く神田川の遊歩道。
ビニールを敷いて花見酒をしているヒトたちに混じって
ホームレスのヒトもいる。
どっちがどっちか、もうよくわからない。
花の下の平等という気がする。

車椅子に乗ったおばあさんに、女のヒトが二人がかりで
桜を見せようとしている。
おばあさんは、うれしいんだか、うれしくないんだか
わからない顔で、目深にかぶった帽子の下から目を上げる。

「来年もまた、この桜が見られるといいですねぇ。」
心の中で声をかけてみるが、
介護している女のヒトも初老なのを見て、やめる。
うかつなことはいえない。

私はすっかり子供にかえってしまい、
前を歩く友人の背中に飛び乗っては落ち、
また飛び乗っては落ちしている。

同じ中野区に新井薬師公園というのがあって
そこの桜も見事だ。

そこには、花の咲く頃になると、必ず来るオジサンがいる。
古くさいラジカセから演歌を流し一人で踊るのだ。
ボロきれみたいなユカタをまとい、
手をフラフラと上げ下げして、ヌラヌラと踊っている。
オンナになってしまっているのか、顔には不気味なお化粧。
はげかけた、まっ白なおしろいと、はみだしたまっ赤な唇。

話にはきく昔の「石をもって追われた芸人」のよう。
ぽっかり空いた芸能の原点の暗闇を見せられたようで
かたまってしまう。

大阪の天王寺の公園に行った時には、もっと驚いた。
セーラー服や着物姿の、オンナになったオジサンたちが
道路のまん中で踊っていた。
十人以上もいる。
恍惚とした表情のオジサンたちは、もうこの世のヒトではなかった。

この前、TVに大好きな「ロッカー」のヒトが出ていた。
五十を超えたそのヒトは素顔だとまるで少年のようなのに
唄う時は化粧をしている。
画面にアップされた、その顔を見て
突然、新井薬師のオジサンを思いだした。
何てこった、と思ったが、もしかしたら
このロッカーのヒトも新井薬師や天王寺のオジサンたちも
そして私もおんなじなのかもしれないと思った。

神への捧げ物としてはじまった「芸能」に
かかわってしまったニンゲンたち。

新井薬師の桜まつりでは、
特設ステージで、毎年演歌歌手のヒトが唄う。
桜の舞い散る、この世とあの世のハザマみたいな時期に、
私も恍惚と唄ってみたい。

そういえば「恍惚のブルース」を歌った青江三奈さんも
亡くなってしまった。
巫女のようなヒトだった。

2001年4月10日

ふとしたことで、マービンというボストンテリアと
その飼い主のおにいちゃんと知り合いになった。
3年ほど前のこと。

「マービンのおにいちゃん」と呼ばれたそのヒトは
夜、歌舞伎町で働いているのに、
朝、昼、夕方と3回もマービンの散歩をしていた。
だから、どんどんやせてしまった。

はじめて会った頃、
「名前はね、マービンっていうの。
マービン・ゲイってね。」
「ゲイ」のところに少しアクセントをおいた。

小犬の頃は、四角いテーヴルを丸くしてしまったマービンも、
すっかり大人になって、
顔つきこそ、ちょっとコワモテではあったものの
なかなか愛嬌のある犬になった。

「ウチの店にはね、北島三郎さんがよく来るの。」
北海道から歌手を目指して東京に出てきたおにいちゃんは
誇らしげに言った。
私とトシもそうかわらないおにいちゃんにとって、
生活のすべてがマービンだった。

そしてそのマービンがいなくなってしまった。
土曜日の朝10時頃、いつものように
コンビニに立ち寄った、2、3分の間に。

近くのトンカツ屋のおかみさんは、
ちょうどその頃、店の前の掃除をしていて
一台の白い「バン」が走り去るのを見たという。

そのまた近くの薬屋のおじさんは、
シャッターを開けようとしていて、少し開けた隙間から
黒い犬の足が通り過ぎるのを見たという。

道沿いのマンションに住む小料理屋のママは
日曜日にマービンみたいな犬が女のコと一緒に
歩いているのを見たという。
ちょっと歩き方が違ってるみたいだったけど。

もう街は大騒ぎだ。
泣き崩れるおにいちゃんを励まして
東中野1丁目のおばさんたちのパワーがサクレツしている。
テキパキと、警察に届けたり、
「尋ね犬」のチラシを作って、貼ったり、
走り去った「バン」に書いてあった「ナントカ運輸」の住所を調べ上げ
おにいちゃんをタクシーに乗せて足立区まで探しにいったり。

昨日はとうとう懸賞金をつけ、
その旨を、チラシに書き加えることにしたらしい。

あちこち貼ってある「尋ね犬」のチラシを
よく見かけてはいたが、
まさか自分の知っている犬が
そうなるとは思わなかった。
以前「尋ね犬」の特徴として
「若く見える」とあったのには
驚いて笑ってしまったが、
今思えば、飼い主の「ワラにもすがる」
気持ちだったのかもしれない。

マービンのおにいちゃんも、もう自分が生きているのか
死んでいるのかもわからないんだろう。
1DKのマンションでマービンの絵を描き、
マービンの写真を撮り、マービンのために食事を作っていた
おにいちゃんは、自分よりずっとりっぱなマービンのおフトンに
顔をうずめて泣いたという。

マービンとおにいちゃんの幸せな日々は
こうして終わってしまった。

2001年4月15日

夜11時近く、ビルの上の駐車場へと歩いていると
左手にフジテレビの、あのまあるい、おっきな建造物が
キラキラと金色に輝いてあらわれた。
歩いている所もミョーな建物で、
「まるで近未来ですね。」というと
案内してくれている店の支配人が、うれしそうに
「そうです、未来都市です。」といった。

三柴さんと塩野さんが「ザ 蟹」という名前のユニットだとは知らなかった。
7年前、当時出したCDのアレンジを
三柴さんにしてもらい、コンサートもした。
去年、新宿のタワレコ店頭ライヴのサイン会に
奥さんと並んで現れたのが私たちの再会だった。
その後の「LIVE AURA」にも来てくれた。
ぜひ、また何か一緒にということになった。

7年たったとはいえ、彼らは若い。
怖いけれどドキドキできる。
音楽をやるうえで、これは幸せだ。

「トリビュート・トゥ・ザ・ラブ・ジェネレーション」
何回いおうとしても失敗する、
この長い名前のお店で「春の唄会」をすることになった。

ロック系のヒトたちのやり方は、
あたり前だけれど、シャンソン系とは違う。
「ローディー」と呼ばれる楽器専門のヒトがいて
リハーサルから参加する。
「腕はいいけど、金髪のモヒカンだから、クミコさんのお客さんが」
と迷う三柴さんに、
「いいです。そんなこと」といって、そのヒトに頼むことにする。
あらわれた彼は幸い、もうモヒカンではなかった。

ざわついていた会場も、コンサートが始まるとシンとなる。
これが、いわゆる「営業」と呼ばれるディナーショーとの違いだ。

「打ち込み」なので、まさかこの曲でと、みんなが
逆に安心していた「ちょうちょ」で止まる。
「ザ 蟹」もPAエンジニアも一瞬凍りついたらしい。
「ダル」な感じの「ちょうちょ」は新鮮で
最後までアレンジで苦労したとは思えない。
二人の才能に感謝。

7年前は、このユニットとのライヴを「バトル・ロワイヤル」と称した。
でも今、それは間違いだったと思う。
私たちは、たしかに歩み寄っている。
お互いに知らないところを、知ろうとしている。

三柴さんは、私と知り合ってからシャンソンのCDを買い勉強したという。
はじめにベートーベンの「月光の曲」が流れてからはじまる
「幽霊」の原曲も聴いている。
「男のCD」という彼の担当するウェブサイトで
「AURA」についてのすばらしい推薦文も書いてくれている。

私も超絶技巧でありながらイキのいいロックを
聴くことができる
カラダが震えるリズムの快感を体験できる。
私だって、彼らが作る変拍子の曲をいつか唄ってみたい。
口がもつれないように。
バリバリと。

「またやりましょう。」
こういって私たちは真夜中の新宿で別れた。
もちろん固い握手をして。

2001年4月22日

さすがにこの頃はしないが、
以前はヒステリー状態になると
机の上のモノを右から左、あるいは左から右へ
一気に床へ払い落としてしまっていた。
机の上には、いろんなモノが置いてあるので
取り返しのつかないことになるモノもある。
それらを泣きながら拾い集めているうち気持ちがおさまる。

そして机が元に戻った頃には、もうすっかり疲れていて
しばらくは穏やかに過ごせる。
気持ちがリセットされたらしい。

気にくわないことがあると、
「チャブ台をひっくり返すお父さん」というのがある。
普通そのチャブ台には、奥さんの料理が乗っている。
何もないチャブ台をひっくり返しても仕方がない。
作ったモノを壊してサラにする。
これが、このお父さんのリセット法なんだろう。

でも壊してしまったヒトはリセットできない。
所沢あたりで、妻と母親を殺してしまった
オトコのヒトは49才。
49才は「キレる年」と新聞で読んだばかり。
このヒトの人生も、またリセットできない。

時間帯が変わった「ミュージック・フェア」で
越路吹雪の古い映像を見た。
子供の頃、このヒトの狂ったような「イカルスの星」に
目が点になった。
次に、床にはいつくばってカメラに迫る「人生は過ぎゆく」に
慄然とした。
それから、この唄い手が大好きになった。

亡くなって21年。
しばらくぶりにテレビ画面に映る彼女は
不安を抱くように唄っていた。
生きていく不安、生きることの不安。
以前には見えなかったものが、今頃見える。
そして、それが私にとって、このヒトの最大の魅力
だったこともわかった。

このヒトは「光」を唄いながら「影」を唄っている。
「愛」や「生」を唄いながら「不安」を唄っている。
決してリセットできない人生の「不安」を唄っている。

時ならぬ寒さのせいか、余計に心がふるえる。

彼女のレパートリーに「芸人たち」がある。
その最後のフレーズ。
「うたうたって、手をたたかれる、片道の人生!」
私も「銀巴里」に入った頃から唄っている。
「片道の人生」
ここにくると、思いがギュッとつまる。
人さし指を立てて、まっすぐに片手を伸ばすと
そこに、見たこともない「人生」があるような気がする。
「行ってきます!」と決意のヒトになった気がする。

意を決して「お台場コンサート」のテープを聞いてみる。
頭を抱える。死にたくなる。
ああ、これがリセットできたらなぁ。

2001年4月30日

おととい、久しぶりに池袋に行った。
松本さんのサイン会があったからだが、
子供の頃は、川口に住んでいたこともあって
デパートというと、必ず池袋の「西武」だった。

池袋は不思議なところで
「西武」があるのが「東口」
「東武」があるのが「西口」
初めて来たヒトにはわかりづらい。

子供の頃、その東口にはいつも、手や足のないヒトが
白い着物を着て、雑踏の中、通路のスミッコに
立っていたり、座っていたりしていた。
「傷痍軍人」と呼ばれるヒトたちで、
アコーディオンを悲しそうに弾いているヒトもいた。
頭に乗っている軍帽に似た白い帽子が
子供心にも哀れで胸が痛んだ。

はじめは子供の私と同じように気の毒がっていた親も
そのうち無視するようになっていった。
あのヒトたちは、着替えて物乞いをしているらしい、
と誰かがいった。

もう戦争から遠く離れてしまっていた。

大人になって、西口でピアノ弾きをするようになった。
東武デパートの上。
たしか「トップ・オブ・トーブ」とかいった。
店の中がワインのような色で、
当時はやった「ワインレッドのナントカ」という曲を
リクエストされたこともあった。

そこはローストビーフが自慢で
いつもやって来る太ったオジサンは
ウィスキーをガンガン飲みながら、ムシャムシャ食べていた。
ちょっとだらしのない、ピンク色と白いアブラの混じった肉を見ると、
今でもそのオジサンを思い出す。
めっぽう酒の強いオジサンだったが、
ビールを一口でも飲むと倒れるという。
それも「バタン!」とすさまじく気絶するという。
一度見てみたかったが、機会はなかった。

ある晩、帰り道の切符を買おうと
券売機にお金を入れ、切符がポトンと
落ちたとたん、横からスッと手がのびた。
おどろいて見ると、浮浪者らしいオジサンが
私の今買ったばかりの切符をつかんでいる。

「何するの、それ私の切符だよ!」
私の気迫に、はじめスゴんでいたオジサンは
言い訳をはじめた。
「こんな体だから、オレは働くこともできないし、
ねえ、だから…」
だからといって、何で私の切符を。
怒りがこみあげた。
とにかくこの理不尽は許せない。
ヒトがヒトのものを奪う、というのが許せない。
金額のモンダイじゃなかった。

「この切符だって、私が一生懸命働いたお金で買ったんだよ。
誰にもらったお金じゃない。
だから、オジサンだって働かなきゃダメだよ。
こうしてヒトのものを取ってどうなるっていうの。
あきらめちゃダメだよ。」
浮浪者のヒトを相手に説教を始めた
自分に自分で驚いた。

「おねえちゃんは、いいねえ。」
ドロンとした緑色の眼でジッと私を見ていた
オジサンがポツリといった。

フッと力が抜けた。

「オジサンにこの切符あげる。
取られたんじゃなくてあげる。
だから、これから絶対がんばってね。」
オジサンは礼をいい、足を引きずりながら去っていった。

そんな風に、ヒトの切符を取って、
生活するヒトがいることは、
後で知った。

池袋を哀しい「盛り場」というヒトがいるが、
そんなことはない。
「盛り場」はどこだって哀しい。
ゴシャゴシャと踏みつぶされそうなヒトが
おおぜいいる街は、どこだって、
とっても、とっても、哀しい。