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クミコ - ココロの扉をたたくウタ

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2001年5月8日

「子供の日」にハイキングに出かけた。
小田急線の「秦野」というところにある
「弘法山ハイキングコース」というやつ。

「秦野」は「ハタノ」ではなく「ハダノ」と読む。
以前、ここに住む女のコに、
彼女の大学の学園祭に出演してほしいといわれた。
それまで、ジァンジァンにもよく来ていて、
なかなか面白いアンケートを書いてくれていた。
予算も少ない、ということなので、私のギャラはなし。

まっ暗な中、山のいただきにある大学に
迷ったすえ、やっとたどりついた。
控え室として使われている教室で
着替えをして出番を待つ。
シンシンと冷えこんでくる。

案内されるまま渡り廊下を通って外に出ると
寒風が吹きすさんでいる。
見ると特設ステージの上にグランドピアノ。
よくぞここまで、と感心するがとにかく寒い。
あわててステージ脇のテントに入りストーブにかじりつく。

そんな野外に観客もいるはずもなく、
それでもポツポツと座っている。
きっと、ギリで来てくれたヒトたちなんだろう。
「イチ、ニのサン」で意を決し、ピアニストと
ステージに上がるが、北風に吹きとばされそうになる。

唄い始めると、なぜか足元がグラグラする。
何しろ、特設ステージ、ピアノに力を込めるたび
上下に揺れてしまうのだ。
ひどくおかしくなるが、唄っているうち
私の口もどんどんこわばってきて、それどころではない。

何をどうしたのか、今ではほとんど思いだせない。
やっとのおもいでステージを降りテントに戻った。
コップ酒が配られ、スタッフの大学生のコたちと
ストーブのまわりで乾杯した時は、
やっぱりうれしかった。
オレンヂ色に上気した、たくさんの顔を見て
来て良かったと思った。

そうそう一つ思いだした。
私のレパートリーに、
「Je Te Veux(あんたが欲しい)」という
エリック・サティの曲がある。
自分でつけた日本語詞で、色情狂の女の唄に
なってしまっているが、その中に
「あなたのボーヤが服着てても」という箇所がある。
「ホーケー」を指しているつもりなのだが、
それまで、どこで唄っても反応するお客がいなかった。
わかるヒトがいなかった。

ところが、この時、はじめて笑い声がおきた。
後にも先にも、笑われたのはこの時だけ。
若いコってバカにできないなあと思った。
若いコの直観ってスゴい。

休日のハイキングは、いろんな家族連れが多くて、
特に面白かったのが、
おじいちゃんと孫という図。
ちっちゃなオトコのコもオンナのコも、
うれしそうに生き生きしている。

生命力のかたまりみたいな子供を胸に抱きながら
老いたヒトがうっとり眼を閉じている。
若さを吸いとる吸血鬼みたい。

うらやましい。
私も若い生物を抱きしめたい。
神サマや動物に近い生命をさわりたい。

あ、でも私って、子供ギライだったんだ。

2001年5月13日

「ケータイ」に「出会いサイト」ばかり入ってくる。
メール番号を電話番号のままにしておいたせいだとわかり
早速変更する。
迷惑なことだ。

ところが、この頃ではこの「出会いサイト」に関係する
ヒト殺しまであるという。
ウソかホントか、きのうのテレビでは
「若妻」と称するヒトが、
出会った20数人のほとんどと
「シテしまった」と告白していた。
それまでメール交換をしていて
ある日、待ち合わせをして、はじめて会い
「こんにちは」と挨拶して、ホテルへ行く。

生まれてはじめて受けたオーディションが
「マック・ザ・ナイフ」という舞台。
青山にある「スパイラルホール」の柿落とし公演で
新聞の片隅に告知されていたのを
たまたま見て応募した。
その頃、ブレヒト=ワイルコンビの歌に
興味をもっていたせいで「三文オペラ」を下敷きにした
この舞台に出てみたかった。

けれどこれはミュージカルのオーディション。
「歌」だけでなく「踊り」と「セリフ」の試験もある。
「踊り」は思った通りサンザンだったが
もっと問題だったのが「セリフ」。
一人ずつ審査員のいる部屋に入り
男優さんを相手に決められたセリフを読み合う。

挨拶をして相手のヒトと目を合わせた瞬間、
思いがけないことが起こった。

急に恥ずかしくなってしまった。
「え、このヒトとですか?」というカンジ。
「このヒトと、スルんですか?」というカンジ。
服を脱いでいくような心もとなさ。

それまでお芝居をしたことはあったが、
その場で、初めて会うヒトと
セリフを交わしたことはなかった。

私の視線を相手のヒトは敏感に感じとったらしく
そのヒトもテレて、何だか二人で笑ってしまった。

結局、ミョーなヤツということらしく、
本来なかった役を作ってもらい
念願の「モリタート」も唄えたが、
あのオーディションの時の、どうにも困ったカンジは
はっきり覚えている。

娼婦はできないなあ、とふと思った。
初対面のヒトとセリフを交わすのではなくカラダを交わすのだ。
コトバもココロも通りこして。

コトバはココロで、ココロはカラダ
この三つってしっかりしていないと、
できの悪いミルクレープみたいにグズグズくずれて
いつか、自分が誰だかわかんなくなっちゃうのかもしれない。

「一寸おたずねします」という古い歌を、
先日久しぶりに唄ったけれど、
この歌みたいに
「どこかで私を見かけなかったでしょうか」
なんていうことにもなりかねない。

コトバを使ってココロを使ってカラダを使う。
基本的には誰とシタっていいんだろうけど
きっとこれが「性行為の三大原則」で
「自分のための三大原則」といってもいいかもしれない。

テレビのインタビュアーがその「若妻」に
「ご主人に悪いと思いませんか」などと
バカな質問をしていたが
彼女だって、きっとわかってるんだろう。

何より悪くて、怖いのは
誰かにバレることじゃなくて、
自分で自分がキライになってくことだって。

2001年5月22日

「花びら全開」とあちこち書かれたピンサロ街を
通り抜けたあたりに「ショーボート」がある。
「セマくてキタない」といってはいるが
これは愛情の裏返し。
どんどんコギレイになっていく都会の中で
整理されない街「高円寺」にふさわしいライブハウス。

ここに出はじめてから、かれこれ6、7年になる。
アルバイトのオンナのコの強力な推薦で
店のオーナーが出演依頼をしてきたことが始まり。
高円寺のロック系ライブハウスと聞いた時は、
さすがに尻ごみした。
ジァンジァンにくるお客も、高円寺となるとサッパリで
フタをあけたら、2、30人というスタート。
もうこれ一回きりだね、きっと。

まさかそれが、こんなに続くとは思ってもいなかった。
そして昨日は、100人近くの方々に来ていただいた。
感謝、感謝、感謝。

年に一回のことだけれど、思えばいろんなことがあった。

あろうことか楽譜を忘れて、ブレーキのきかない自転車を
店のコに借り、炎天下、家まで取りに帰ったことも。
ゴツゴツの自転車をこぎながら、
頭から水を浴びるような汗に、前日のオリンピック、
マラソンの有森選手をおもいだした。
私は一体何をやってんだろう。

のどの手術の直後だった時は、
シャンソン歌手の友人三人に手伝ってもらった。
「七つの大罪」をテーマに、その一つ一つに唄を重ねていく。
まともに唄えない私は、苦肉の策にウクレレを買った。
弾き語りをしようというのだ。
選んだ曲が浅川マキの「かもめ」。
しかし、あまりの下手さに自分でもあきれ
最後にやけっぱちでつけ加えた。
「アーアー、やんなっちゃた、アーフガフガおどろいた!」

シャンソン教室の先生もしている友人とジョイントした時は
来たお客さんのほとんどがオバサンだった。
上品な風情で静かにすわっている。
きっと「ショーボート」始まって以来のことだったろう。

これまた友人の男優さんとジョイントした時は
お客さんのほとんどが女のコだった。
うまくいかない。

再会もあった。
ステージが終わってから見知らぬオトコのヒトに声をかけられた。
名前を告げられおどろいた。
コイビトだったヒトだ。
すっかり太っている。
ちがうヒトになっている。
その時から会うこともない。
同一人物が二人いたみたいで今でも納得できない。

自分でかいたオリジナル曲をたくさん唄った時はひどかった。
詞・曲両方を書いたものも、曲だけのものもあったが
問題はやはり詞。
他人の詞はやはり覚えにくく、すぐにどこかに飛んでいってしまう。
生まれて初めて手のヒラに言葉を書いた。
危ない時には、さも意味ありげにそれを目の前でヒラヒラさせる。
なさけなかった。

「ショーボート」のオーナーはまだ若い女性で
今はミシシッピーに住んでいる。
私の年に一回の出演に合わせ帰国する。
いや、彼女の帰国に合わせ出演日を決める。
「クミコさんをカーネギーホールに出すのがユメ」と
ものすごいことをいう。

でも、そんなとんでもないことを思ってくれるヒトが
まわりにいることが、ものすごいことだと最近思う。

と、いうわけで自戒など。
「身を慎み、口を慎み、酒を慎み、
精進いたしましょう。」

2001年5月27日

「さくらんぼ」が旬だ。
せっかくだから「さくらんぼ」という店のことを書こう。
松本さんに「街角の歌姫」と称された、その「街角」の店だ。

渋谷東急本店から歩いて15分くらい。
富ヶ谷という町。
もともとは肉屋さんだったらしい。
やはり日本橋の肉屋さんからお嫁に来た「ママ」と
その娘がやっている。
二人共「銀巴里」によく来ていて、当時、テレる私から
サインをもらったという。

三年ほど前、突然私がこの店のママになった。
その前、たまたま立ち寄った店内に
雑貨がびっしりと埋めつくしているのを見て
「雑貨バー」をやろうと思いたった。
ぬいぐるみやおもちゃに埋もれながら
酒を飲むのも悪くないだろう。

もう唄をやめたいと思っていた時期だった。
唄以外に何かできることがありそうな気がしていた。

そして、それは見事に失敗した。
私はお客がキライだった。
ヒトと話すのが苦痛だった。
お客がいないと、一人で酒を飲んだ。
酔って自転車で帰った。

たしかにミョーなお客は来ていた。
いつもホテル帰りだという中年のオトコとオンナ。
酔払っていて、ぞうきんみたいに哀しい。
いつか、冗談で心中でもして、まわりから
「アチャーッ」といわれてしまうようなヒトたち。
そのオンナのヒトが、ある時私の足元を見て、
「よくケガするでしょ。誰かの手が伸びてるもの。」といった。
よくケガはしていた。
塩をまけばいいというので、そこいらにあった食塩を
パラパラと足首にふりかけた。
「もうだいじょうぶ。消えた、消えた。」と
ロレツのまわらない舌でオンナのヒトがうれしそうにいった。
そうして、二人でもつれるようにまたどこかへ帰っていった。

画家のケンちゃんというヒトも来ていた。
いつも汚い格好で汗くさい。
彼には、やけにきれいな奥さんがいた。
ある時、そのヒトがシャンソニエで私の唄をきいて
ボーダの涙を流すのを見て
このヒトたちはもうダメだなと思ったら案の定終わってしまった。

そのケンちゃんが足立区の養護老人ホームで
ボランティアで絵を描いているという。
殺風景な駐車場の壁に。
ステキだと思った。
手伝いたいと申し出た。
点描法だからクミコさんにもできるといわれ
連れていってもらった。
真夏の朝から夕方まで汗ぐっしょり、蚊にさされながら
二人でせっせとペンキの点を描きつづけた。
看護婦さんが運んできた椅子に座って、
おじいさんやおばあさんが、その絵の前で写真を撮っていた。

貧しい画家のケンちゃんは、その後、日本橋三越で個展をした。
その前日、いわゆる「営業」で唄う仕事をして
気が大きくなっていた私は、35万円で売れ残っていた絵を買った。
いいことをした気がした。
ところがそのすぐ後ケンちゃんは横須賀に引越し
次に会った時は、お金持ちそうなオバサンたちの間で
すっかりりっぱになっていた。

お客が来ないことを祈りながら店を開けているうち、
せっかくピアノがあるんだからと、ライブをやってみた。
どうも、こっちの方が性に合っている気がする。
こうして、唄以外の何かという可能性は
またひとつ消えた。

残ったのは、おっきすぎて壁に飾れず
納戸にしまわれた絵と
「さくらんぼ」の店先でひかる「ZAKKA BAR」
というネオンだけだった。