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クミコ - ココロの扉をたたくウタ

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2001年11月4日

ピンク色の着物をきた女のコが高いポックリをはいて
つんのめりそうになりながら歩いている。
お母さんが、しっかりその手を握る。
グレーのスーツ姿の男のコも紺の蝶ネクタイで走り回る。
短いズボンからちっちゃなヒザっこぞうがのぞく。
赤ん坊をぎこちなく抱いているお父さんもいる。
横にはそのお母さん、つまり「おばあさん」が寄り添う。

そうか七五三か。
風はちょっと強いけれど、まっ青な空の下色とりどりの家族が行き交う。
まぶしい。
リンゴとおせんべとヨーグルトとチョコレートで重くなったスーパーの袋を下げて
坂を降りていくと、そんな家族たちとすれ違う。

ずいぶん前、「徹子の部屋」という番組で「知的」を売り物にしている女優さんが
出演した。
遅くに結婚して子供を産んだそのヒトは言った。
私はこれまで悩んで悩んで生きてきた。
いろんなことが怖かった。
それが子供を産んだらすっかり変ってしまった。
死ぬことさえも怖くなくなった。

当時学生だった私は、晴れ晴れとしたそのヒトの顔を見て思った。
ヒキョーだな。
このヒトは多分正しい。確かにそうなんだろう。
次から次へと続けられる「生」の横渡し。
これにはきっと理屈を越えた「安心」みたいなものがあるんだろう。
「生命」の永遠性を担う「安心感」というような。
このヒトはきっと正しい。

でも何だか違う気がした。
うまくいえないけど何だか違う気がした。
私は子供を産まないだろう。
その時思った。

「子供、産んだら?おカネなら大丈夫だから」
神戸の街角で信号待ちをしている時、横にいた義母がふと言った。
あまりにデリケートな話なので、それまでなかなかいえなかった事を、
雑踏の勢いをかりて言い出したようだった。
夏休みになると帰ってくる私たち長男夫婦は、
とても頼りなくフラフラとかげろうのように心配だったのだろう。
ええ、でも私たち子供のこと全然考えたことないんです。
それに二人とも子供が苦手だし。

自分の親にさえ言われないことを切り出されて私は狼狽してしまっていた。
でも神戸で子供産んで育てるなんていいかもしれないですね。
こっちは地震だってないし。
異人館に囲まれたような北野の街で母親になる物語を想像してみたが
すぐにその物語は行きづまってしまった。

神社の参道で三世代の家族が写真を撮っている。
こもれ陽がみんなの顔にあたってキラキラ輝く。
実家の引越しの時、七五三の髪飾りが箱からころがった。
少しでもモノを少なくしたいので迷いなく捨てた。
記念写真もあったはずだが、どこにいったかわからないという。

私の家族は終局に向かっている。
「血」の連続性は私で終わる。
でも子供がいなくても死ぬことが怖くならないやり方を
探すために生きている。
唄うことも、そのひとつだ。

その後、神戸には地震があったし、
しばらくぶりに会った夫だったヒトがうれしそうに
定期入れから取り出したのは、かわいい子供の写真だった。

「確かなこと」は何もない。

2001年11月11日

白い手袋をはめた両手を真横に広げ、
左に大きくかしげた顔は少し笑っている、ちょっと不思議な雰囲気のモノクロ写真。
この写真は長らくジァンジァンのコンサート用のチラシに使われていた。
ビートルズを日本語で唄うという女のヒトの写真がずうっと変らないのを、
密かに笑っていたりしたのに、自分も同じことになっていた。

もともとは生まれて初めて録音した45回転LPのジャケット用に撮ったもの。
カメラマンは嶋さんという売れっ子で
「ヴォーグ」の撮影の合間にお願いして撮ってもらった。
ヘアもメイクも衣裳もそのままのスタッフ。
大きなモデルさん用のジャケットの袖をリボンで結んで短かくしたり、
ブラウスのすそをふくらませたり、
25cmもある靴も全然OK、といった調子で、
どんどんフィッティングさせてくれる。
撮影初体験の私は、緊張したり感心したりでまわりのなすがまま。
もう、かれこれ14、5年前のことだ。

その嶋さんと再会した。
作曲家の植野慶子さんに連れられてマンダラの楽屋にみえた時は
ビックリした。
ヒトの不思議な縁。

何かコラボレーションできるといいですね、ということで
早速飲み会を開くことにする。
新宿の地下のバーで、美しい瓶に入ったジンやラムを
丸い氷だけのグラスに注ぐ。
ゆっくり飲む。

パリはいいですよ。
あそこには大人の成熟と頽廃があります。
クミコさんにゼッタイ向いてますよ、ぜひ行ってみて下さい。

パリに行ったことのない、おそらく唯一のシャンソン歌手だった私は
身を小さくするが、パリで放浪しながら撮ったという写真集に
目が釘づけになる。
例えば窓から四角く差し込む光の中のテーヴルにおかれた食器たち。
白と黒の境目が生と死の境目のように思える。
そこには映っていない「ヒト」の生と死が見えてくる。
はかなく、いとおしい「ヒト」の姿が見えてくる。

その前日、スタイリストの中村のんさんが
「川上弘美」の『溺レる』という小説を借してくれた。
これって、きっとクミコさんに合うと思う。
この世界って、好きだと思う。

何だか好きそうな予感がした。
やっぱり好きだった。
オトコとオンナだけが登場する8編の短編集。
生と性と死が織りなす透明な「リン」とした世界。

こういうことって唄いたい。
こういうことが唄われのを待ってるヒトが、きっとたくさんいるはずだ
そんな気がした。

アル中みたいになってパリの病院に入院したという嶋さんは
沈みこみそうになる自分と戦いながらカメラを持ち
きっちりとシャッターを押したのだろう。
どの写真にもまた「リン」とした透明さが映っている。
クミコさんの唄は本当に大人の唄だと思う、といってくれる
嶋さんに感謝しながら、
いい唄作ろうね、と隣りの植野さんと誓い合う。

『溺レる』は結局2回読み直した。
この本のことを教えてくれたのんさんが今度はじめて本を出した。
『勇気をだして着てごらん』という題名で
「文春文庫+PLUS」というところから11月10日発売だ。

出版パーティーでもらったその本を今読んでいるところだが
トシもほとんど同じオンナのヒトのステキな生き方に
時々目がジンとして痛い。
ステキなヒトはステキなヒトを集める。
その通りパーティーではステキな大人ばかりだった。
このヒトたちに「待ってました」と喜んでもらえるような唄を唄うこと、
これが確かに正しいことに思えた。
今の時代に音楽をする大人の義務のような気がした。
カラダが2倍にふくれるように私は元気になってしまった。

ちなみに、のんさんの本には私も登場しています。
「素敵な可能性」というところです。

2001年11月18日

「さいたま新都心駅下車3分、スーパーアリーナ左側の中国料理店に12時」
クラス会の通知だ。
聞いたこともない駅の名前に、あわてて前日時刻表を買う。
大宮の一つ手前、たしかにある。
いつのまにできたのか。
やっとのことでたどり着くと、銀色に光る建て物ばかり。
風がアルミ色の通路を吹き抜けていく。
広場らしい所では、フリーマーケットを開いているが寒いので足早になる。

浦和、与野、大宮がひとつになって「さいたま市」になった。
とてつもない大きさだ。
とてつもない大きさの「市」にふさわしい、このとてつもないスーパーアリーナでは
ナントカいうボクサーが防衛戦をして、
その時ヘリコプターで空から飛んできたと友だちが教えてくれる。
アソコ、アソコ、あのちょっと見える丸いところに降りたの。
斜めに空を指さす。

ちっとも仲のいいクラスじゃなかった。
まとまりもなく、気安さもなく、高校を卒業するのがうれしかった。
全校集会で、私たちのクラスだけがボコンとへこんでいたのを
怒った教師は、なぜか私だけを呼び出した。
3年7組だけがどうして人数が少ないのだ。
恥ずかしいことだ。規則は守らなきゃダメだ。

「修学旅行」の時にも呼びだされた。
集団で旅行なんか行きたくない、集団はキライだ、
それにもう京都なんか行きたくない、という私に教師は
クミコは何でそうなんだと半開きの唇にツバをためながら
困った顔をしていたが、ついに「内申書に書くゾ」と脅した。

時々ボーッと放心したように窓の外を見ていた、このヒトのいい担任教師は
それから何年もしないうちに亡くなってしまったらしいが、
クラス会は続いている。

はじめの頃は、それぞれの子供が小さいせいもあって
みんな、とっても疲れて見えたが、年ごとにどんどん元気になっていく。
生活のパワーを身につけていくらしい。
聞けばタイヘンそうなことばかりだけれど、
そんなこといっちゃいられないというカンジだ。

ハイハイ、3年後は大台、今度は温泉一泊旅行です、と
早くも次の幹事が宣言する。
岐阜県に嫁いだ同級生が、旅館をやっているらしいというだけで
もうそこに行くことに決めてしまっている。
ねえ、でもただの駅前旅館かもしれないよ、
これから温泉掘って、増築してって大騒ぎになっちゃうかも。
ハハハハ、笑いは止まらない。

おムコさんをもらって母親と二人で家業の和菓子を作りつづけているという友人は
髪の毛こそ白いものが混じっているものの、あいかわらずツルンと日本人形のよう。
市松人形のようなオンナのヒトがひらすらアンコをこねる図を想像する。
エロティックな気がする。

同級生では子供のいるヒトが圧倒的に多く、
その昔、何かの用事で訪ねてきた男子生徒を見つけると
窓から「オトコだ、オトコだー」と叫んでいたことがウソのようだ。
ジジババのこと、夫のこと、子供のこと、仕事のこと、カラダのこと、
次々起こるいろんなコトに、みんながウロウロしながら
でも一生懸命立ち向かって生きているのを見たり聞いたりするのはうれしい。
元気になる。
お互いがお互いに元気を与え合っている。
若い頃のとんがった「自意識」がまあるくなって、どんどん居心地良くなっている。

ココロはひらいてるに越したことはないね。
このままここで今夜の流星群見られればいいね。
大きく広がる夕焼けの空を見上げる。
ピーッと新幹線が通りすぎた。

新宿に戻り待ち合わせをしていた友人と夕食に行く。
カウンターごしに若い板さんがピカピカ光ったカツオをまな板に乗せる。
頭をガンと切りおとす。バサッと捨てる。
丸太ん棒みたいなお腹にグイと包丁を入れる。
内臓をとり出す。バサッと捨てる。
赤くなったまな板、包丁、魚をザーッと洗い流す。

板さんはトロンと酔ったように見ている私に気づくと
恥かしそうにフッと笑う。
私もフッと笑う。
おいしく死にたいなあ。
ラップをかけられたカツオの半身は赤くはちきれそうだ。

2001年11月25日

「もしもし、あ、クミコさん? 六文銭の上田です。元気?
つかぬことを聞いてもいい?
あのさ、みんなで『五戸』へ行ったのって何年だっけ。」
小室等さんや伊奈かっぺいさん達と、彼らの作った「村歌」記念コンサートに
ご一緒した時の話だ。

「あれは前のCDを出した時だから、えーと、えーと。」といいながら
引出しをゴソゴソする。
昔の手帳を探す。
「1998年?ちがうと思う。書いてないもん。多分96年だよ。」
それがどうしたのかわからないが、
「今、その五戸にいるんだけどさ」といって、
六文銭ファクトリーの上田さんは元気に電話を切った。

あとに日記帳代わりの赤い手帳たちが残った。
ペラペラめくってみる。
1999年の最後のページがおかしい。
どうやら一年のしめくくりをしているらしい。

『1999年は、
・ やはり売れないながらも唄を唄っていた。
・ 松本隆さんとの出会いがあった。
・ 生理前に声がひどい調子になることがわかった。
・ 少し根性を入れてプロになった。
・ Mさんと決別した。なさけない想いがした。
・ 迷うことなく2000年も唄おうと思った。
・ もっといい唄い手になると予感した。
・ 前髪を上げて人前で唄った。  』

前髪を上げたといっても、単にパーマがかかりすぎてチリンチリンに
なったってことだったり、
どうみても他人には私の根性が入ったようには見えなかっただろうとか、
あるいは長年私を支えてくれたピアニストと、ちゃんと話し合うこともなく
お別れしてしまった寒い夜のことだとか、
いろんなことが思い出されグルグルと頭の中をまわる。
おかしくて、切なくて、そのうち自分がいとおしくなってきたので
手帳をしまう。

この連休初日は街中がヒトでいっぱいだった。
恒例の「上海蟹宴会」に赤坂へ行く。
私以外は、みんなお金持ちで、トシも一回り以上違う。
まさに目がくらむ宝石や時計が円卓を囲み
ガリガリと上海蟹を貪り食う図は壮観だ。

おもちゃ問屋の社長をしているオンナのヒトは
途中から必ず亡くなった恋人のことを話しだす。
酔いがまわってきた証拠でもある。
銀色のマニキュアをした長い爪で髪をかきあげながらテーヴルを見つめ
「食べないのにどうして太るのかしら」とため息をつく。
「食べないから太るんだよ、欲望をおさえるからダメなんだ。」

毒にも近いような濃厚な上海蟹のミソをすすりながら
「赤い橋の下のぬるい水」という映画を思いだす。
水がカラダいっぱいに溜まるとオンナはオトコを呼びだし性交をする。
溜まった水が間欠泉のように吹き上げられるとオンナはまた日常に戻る。
オンナのカラダからあふれだしたぬるい水は、川へと流れ込み川をうるおす。
イキのいい魚が泳ぎ回る。
その魚をオトコたちが喜々として釣り上げる。
赤い橋のたもとの赤い花の咲いている古い家で
川と山にはさまれるようにして、営みあうオトコとオンナ。

新宿でこの映画を観た時には
観客に地味な年配の夫婦が多くてギョーテンした。
どっかから、これを観に行けと指令でもあったのかしらん、とかんぐる。

2002年用の手帳も同じものを買った。
このシリーズでは「赤」と「黒」の二色があるのだが、いつも「赤」。
一回だけ「黒」にしたことがあった。
今年はどうしようか、ちょっと迷ったが「赤」に決めた。
オンナは「赤」でしょう、やっぱり。
納得してみる。