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クミコ - ココロの扉をたたくウタ

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2002年12月2日

鶯谷駅の通路を歩いていると、
まっ黒いロングコートの女のヒトとすれちがった。
一瞬目が合った。
オトコだった。
これから「仕事」なのだろう。
まだ色をあまりのせていないのっぺりと白い顔に長く黒い髪。
お芝居なんかで、さっきまでのオトコが急にカツラをかぶって
オンナになってまた出てきました、
というような様子が許される東京というこの街。

この日は3人、山の手線の中で化粧をする女のコを見た。
100円ショップで売っていそうな大きな鏡が共通で、
コンパクトのちっちゃな鏡でコソコソと、などという者は一人もいない。
堂々としている。

大学生の頃、北千住のホームで「ワンカップ大関」を立ち飲みする
オジサンがいた。
北風の中、背を丸めグイと飲み干す。
あるいは、ベンチで足を組み口をすぼめて一本の煙草を
深々と吸っているオバサンがいた。

みんな、せっぱつまっていた。
せっぱつまって、そうしなければ生きていけない感じに見えた。
ホームでの束の間の酒や煙草が命をつないでいるように見えた。
親がかりの女子大生で、酒や煙草をはじめたばかりの
私は、ひどく自分を恥じた。
生きていかなくちゃならないヒトたちの前で、
生きていかなくちゃならないフリをしている自分を恥じた。

9月の末、大阪に行った時のこと。
新幹線で別の席に座っていたピアニストの上條さんが
降りてきた時には、もう「仕事」の顔になっていた。
聞くと、恥ずかしいけど、時間もないから
客席で若いコみたいに鏡を立てて化粧をしたという。
「終わって回りを見ると、みんな寝たフリしてたのよ。」
大笑いした。
いつのまにか私たちもせっぱつまったオバサンになっていた。

「東京キネマ倶楽部」は鶯谷駅南口を出てすぐの所にあった。
6階のボタンを押し、エレベーターから出るともう空気が変わっていた。
「時代」が混じってしまっている。

弁士がついて無声映画を上映する映画館であるらしい、
この場所で吉田美奈子さんがライヴをする。
何というのだろう、ジャバラのような、緞帳のような、
ステージ後方の上から下まで流れる黒い布は
そういえば昔の映画でも見覚えのあるものだ。

天井にはひからびたようなミラーボール。
二階席の窓からは歓楽街の灯。
そこで展開するエレクトリックサウンド。

もうろうとしながら目を閉じると、
誰もいないナイトクラブのグランドピアノのそば、
石原裕次郎と美女が、チークダンスをしている、
マットな色彩の場面が浮かんだ。
確かその映画ではギャングも出てきてピストルぶっ放し、
都会の右から左、左から右を疾走していたのだった。

ライヴが終わり、階段を降りる途中の踊り場に
男専用と女専用と書かれた箱が3つ並んでいる。
手品のようなその箱はよく見ると更衣室で、
不思議な気分のまま1階に立つと、
色あせたダンスホールのパネルが謎解きみたいにかかっていた。

キネマとダンスホール。
こうなりゃ、この曲。
あがた森魚さんの「最后のダンスステップ」

今宵限りのダンスホール
あなたのリードでステップ踏めば
お別れするのに夜会服が
何とか明日もくうるくると

おいらメトロのつむじ風
ソフトハットをなびかせて
シベリアケーキにお茶でも飲んで
銀座のキネマに行きたいな

パルコでも唄います。

2002年12月14日

八重洲の地下街を歩いていると、
隅っこに「東京ブギ」と書かれた看板を見つけた。

「ハイボール」やら「赤玉ポートワイン」やら、
はたまた「コクテール」というくくりには「赤いランプの終列車」まである。
そこから斜めになって奥まった店先を覗いてみると
木のカウンターらしきものと、
その下に貼られた古びた白いタイルが見える。

ドキドキする。
午後4時開店。
まだちょっと間がある。
それに、私にはこれから2回目のステージがあるのだった。

八重洲地下街でのミニライヴ。
12時15分からの1回目のステージでは
その朝ラジオでこのことを知って、とるものもとりあえず
舞浜から駆けつけたというお客さまもいて、
さすがに東京駅だなあとミョーな感心をする。

先月の水戸での駅ビルミニライヴでは、
同行したエイベックスの男性を「昔のオトコ」と
思い込んだ女性の乱入まであって、
こりゃ、いくら何でも面白すぎると思いつつ、
心臓がバコバコした。

「予期せぬ出来事」が街角にはいくらでも転がっている。
たしかに「街角」は「劇場」なのかもしれない。

「パルコ劇場」はその昔「西武劇場」という名前だった。
ここでは金子由香里さんが「公園通りのシャンソニエ」として
登場し、はじめて聴きにいった私は、
「家に帰るのが私は怖いの」と彼女が唄いだしたとたん
泣いた。

その時、一人のオンナを包むどうしようもない大きな闇が
若かったオンナの私にもはっきり見えた。
誰もいない闇。
何かを失くした後の闇。
そして多分この「闇」こそが、これから戦っていく相手だと、
漠然と思った。

あれから20年以上たったその劇場。
「幽霊」の最後、手をつき上げ、顔を上げると目をつぶっていた。
体中が伸びろ、伸びろといっている。
伸びたい、伸びたいと思って、
ずっとそのままでいるとグラグラしてくる。
目をあけると、緞帳はまだ膝のあたり。
こらえる。
チキショーと思う。
何だかわからないけれど負けたくないと思う。
またこらえる。
この歌は「闇」と戦っていることを、いつも思い出させる、
「生きもの」いや、「動物」の歌なのかもしれない。

「赤いランプの終列車」は甘ったるい、なぜか青みがかった
お酒だった。
裸電球とトタン板と由美かおるのオロナインの看板を前に
チビチビ飲む。
2日間の疲れが溶けていく。

10時閉店。
あわてて外に出ると、若い女のコ二人が店の掃除をしはじめた。
そういえば制服もオシャレだ。
ちょっとダマされた気になるが、
いやいや、レトロなマスターはきっともう引退してしまったのだと
思い直す。

東中野から家への帰り道、
空を見上げるとオリオン座がキラキラしていた。
「どうもありがとう」と言ってみた。

2002年12月26日

「お客さん、学校の先生ですか。」
電話工事のオジサンが突然聞いた。
「いや、すごくハキハキしててね、いい感じだ。」
ほめられる。

電話とパソコンが開通して、ようやく人心地ついた。
ラジオもテレビも新聞もないので、世の中との接点に飢えていた。
飢えていたのは、それだけではなくて「音」も。

一日前に届いたオーディオでやっと「音」が聴けた時は
音楽なんて、世の中になくてもちっとも困らないといっていたのが、
まっ赤なウソだったとわかった。
「音楽」は本当に「ヒト」に必要なものだった。

CDを何枚も何枚もかけつづける。
体中に音がしみこんでいく。
まっ先にかけたのは自分の「愛の讃歌」だった。
たった一枚持参できるとしたら、というインタヴューに、
他のCDを挙げたのも、まっ赤なウソだったとわかった。
自分の声がいとおしくてならない。

夜一人で部屋にいると、ポッカリとしてしまう。
さみしい。
ヒトは一人の方がゼッタイ快適だ、といっていたのも
まっ赤なウソだったとわかった。
一人で生きて、一人で死ぬことを考える。
「孤独」という言葉でいわれているモノが
つつくように襲ってくる。

年の瀬の引っ越しは、まるで落語に出てくる
長屋の住人の話みたいで、せわしく、哀しく、おかしい。
いかにも「追われている」感じがする。
そそくさと逃げまどっている感じがする。

あれはどこの部屋だったか。
ふと思い立って「スライド書棚」を買った。
同居しているオトコと楽しげに組み立てていくうち、
「スライド書棚」はだんだん破綻していった。
ついにスライドしない「スライド書棚」ができあがった。
ふぬけのように笑い合った。
それから間もなく一人で「引っ越し」をした。

「クミコさん、あと2年したらまた引っ越すわよ。」
昨夜、久しぶりに会った予知能力のある知人が断言した。
モノを集めている途中で、モノを放すことを思うのはつらい。
これまで、どれだけモノを放してきたことか。
今では、最後に自分のカラダひとつのスペースがあればいいと
思うようになった。
横たわる場所さえあればいいと思うようになった。

「これピアノですか、いいウチのコなんだ、
お客さん、おジョーチャンなんだねぇ」
エレピを指して電話工事のオジサンがいう。
ホントのピアノはどの部屋に置いてきたのだったか。
嫁入り道具として買ってもらった三面鏡が、
カートに乗せられどこかに運ばれていく時はつらかったが、
今ではちっちゃな手鏡ひとつで間に合ってしまう。

引っ越した方角が「西」と聞いて、予知能力の知人はいった。
「最悪」
年明け早々に、ヤクバライとホウイヨケにいかなくちゃ、と
こんなことには執着している。

もうすぐ今年も終わり。
プロデューサーの仙波さんが、最初の1枚として渡してくれた
刷り上ったばかりの年賀状には、
きれいな青地の中、白い文字が浮き出ている。
「わが麗しき恋物語」の全歌詞。
それはまるで、どこまでもつづく青い空に浮かぶ白い雲のように
シンと静かだった。