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クミコ - ココロの扉をたたくウタ

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2002年3月4日

上條さんの愛犬、シーズ—犬のシースケが白内障の診察にやって来た。
片目はすでにまっ白だったが、もう片方もいよいよということで
我が家の近くの獣医さんを紹介したのだった。
そこは大久保通り沿いのこぢんまりとした病院で、
よくありがちな飾り立ても一切なく、
いわばドイツっぽい、質実剛健とでもいった雰囲気。
院長先生も、お知り合いのバンドネオン奏者、京谷さんに似た渋い紳士で、
駐車場に止めてあるBMWの趣味といい、かけている眼鏡といい申し分ない。
申し分ないが、問題はシースケの眼なのである。

待ち合い室にいる間、入れかわり立ちかわり
何匹ものイヌとヒトがやって来る。
「シロ」と首輪に名札をぶら下げた中型犬の雑種は
クーンクーンと甘くくぐもった声で、さっきからずっと鳴いている。
連れて来たオバアサンはニコニコしている。

このコはね、今までずっととっても冷たいコだって思ってたんですよ。
甘えないしね。
ところが、2週間スペイン旅行に行ってる間預けといたら
感染症にかかっちゃって。
帰ってきたらもうボロボロ。
モノも食べない。
よっぽど訴えてやろうと思ったんですけど
それより直さなくちゃというところでねぇ。
もうこのコに申し訳なくて。
私たちが遊んでる間にねぇ。
行かなきゃよかったスペイン、あれ、ポルトガルだったかしら。
まあ、それからこんなに甘ったれになっちゃって、
ねえ、シロちゃん。

オジイサンもすぐあとからやって来て、その中型犬シロを
膝にのっけて抱っこしてあげる。
14kgのシロの世話で四苦八苦している日常を話しながら
老夫婦はとってもうれしそうだった。
ふとシロをおんぶして二階に上がるオジイサンの姿がうかんだ。
イヌはどんなになってもヒトに喜びを与えているのだ。
元気なら元気なりに、弱れば弱ったなりに。

シースケはシロの隣にやってきたキャバリエに眼が釘づけだ。
キャバリエはシロをじっと見つめる。
シロは知らん顔であいかわらずクンクンないている。
どの世界も「想い」はうまく届かないらしい。

この病院には以前何回か来たことがあった。
片耳の立たないフレンチブルドッグを飼っていた頃で
おそろしい勢いで体重の増えていくその小犬はちょっと目を離すと
ブヒブヒと病院の床をかけ回り、
その後を追いかけながら、私がつかまえようとしているのは一体何だろうと
おかしくなった。
抱いて立っているとヒトに「ああ、ビックリした。ブタかと思った。」と
いわれる始末なので無理もなかった。

そのコブタのようなフレンチブルドッグは結局訳あって手離すことになってしまったが
今でもその歯型でやせ細ったテーブルや椅子の足を見ると
心がジンとあったかくなる。
それと同時に、いなくなった後の驚くほどの喪失感も思い出す。
ビックリするほど流れた涙も。

父と母が埼玉からこちらに引っこしてきた理由のひとつもイヌだ。
15年間飼っていたイヌが死に
毎日、そいつをふところに入れて散歩していた父親は
もうそれらの道を歩きたくないと思ったらしい。
イヌと二人で見ていた風景を一人では見たくなかったらしい。
「斉藤タンクロー」と書かれた小さな骨の箱の横に母は花を絶やさない。
写真ももちろん飾ってあって、
でもイヌはヒトと違って他人には「ナニナニ犬」としか判別できないのだが
飼い主にはやはり特別な「ナニナニちゃん」なのだと感心する。

上條さんちのシ—スケは結局両目の手術を受けることなった。
「ただ」と院長先生がいう。

イヌの手術がむずかしいのは、本来イヌはヒトと違って
手術されるようにできてないってことなんです。
ちょっとでも体が傷ついたらすぐに直さなきゃという働きがあるから、
またそうしないと外敵にやられてしまうから、
それが時としてヒトの手による手術のジャマをすることが
あるんですね。

そうかお前は「野生の動物」だったんだね、
感嘆の目でちっちゃなシースケを眺めた。

2002年3月11日

週末に美容室に行った。
「AURA」の時からお世話になっているところで
始めは閑散としていたのに、今では予約で一杯。
電話の応対を聞いていると、どうやら新規のお客は
一日に二人ということになっているらしい。
大繁盛だ。

すっかり気心の知れている美容師さんとは毎回いろんな話をする。
新しいシワとり光線の話なんかもしてくれる。
はくだけでやせるストッキングや、お尻がツルツルになるパックなんかも。
彼はそんなことにくわしい。
彼の望みは「やせて、キレイで、若くあること」なのだ。

だって、手に職があって、男なんだから、
そんなこと別にいいじゃない、といってもダメだ。
ステキなオジサンになるっていうのだってアリじゃない、といってもダメだ。
「だってボク、今まで自分より年上でキレイだって思ったヒトっていないもの。
こんなふうになりたいと思ったヒトって見たことないもの。」という。

そんな話を思いだしながらテレビをつけると
ムネオさんの証人喚問。
ムネオさんや、議員のオジサンたちの姿に彼の言葉がよみがえる。
確かにねえ、ステキじゃないよね、このヒトたち。
体型も、服装も、顔も、それに声だって大きいし。

声が大きいことは別に悪いことじゃないけれど
日本人の場合どうもそれがいわゆる「ドーカツ」に聞こえてしまうのは
体格のせいかもしれない。
よく響く声なら大声をださなくても伝わるのだけれど
あいにくそういう楽器としてのカラダも持ち合わせていないし、
発声訓練もしていないとなると、声だけが一人歩きしてしまう。
コイズミさんが、アメリカに行ってブッシュさんを見上げながら
「断固テロと戦う!」と大声でいった時には何だか恥ずかしかった。

そういえば大学には、「雄弁会」なんていうものもあって
そこ出身の政治家がたくさんいるくらいだから、
話し方がどうも明治時代の弁士っぽいのは仕方ないのかもしれない。

このごろはトシのせいか、どうも一刀両断とか単刀直入といった
キッパリしたものが苦手になってきている。
「説教」というやつも苦手だ。
だから色紙にかかれた「説教くさい絵や言葉」やなんかを
そこここで見たりすると、まず逃げるようにしている。
また、押しの強いかんじのヒトがテレビで「説教くさいお話」
なんかをしていたら、すぐ消すようにしている。
サギ師とカリスマは紙一重だと思うので
どちらにもなるべく近よらない。
このヒトたちは声が大きく自信にあふれ、キッパリといいはなつ。
近よらないことにこしたことはない。

小学生の頃、私の後ろの席の女のコが
「クミちゃん、ここテストに出ると思う?」とよく聞いてきた。
「出るよ」「出ないよ」面倒なのでその度にいい加減に答えた。
ある日、そのコがいった。
「クミちゃんて、いつもキッパリ答えてくれるからうれしい。」
無責任でもキッパリって喜こばれることなんだなあと思った。

このクニではマキコさんがいなくなって内閣支持率が一気に下がり、
ムネオさん非難だけで一日が終わる。
ちょっと前まで「あんな能なし大臣クビだ」といっていた
週刊誌が、今日は「マキコを戻せ」といっている。
裏と表、表と裏がキッパリと入れ替わる。

「あれ?その声は」左側に座っていたヒトがこっちを覗き込んだ。
見ると藤原美智子さん。
今日はパーマをかけにきたという。
藤原さんは初めて会った時から初めてっていう気がしなかった。
お久しぶりってかんじで。
前世に会ってたのかなあ。
「たとえば私が漬け物石」というと
「じゃ私がタル?」といって笑い合う。
どんなに忙しくてもゆるやかで美しいヒトだ。
そして「リン」としている。

「キッパリ」と「リン」は違うなあ、当たり前か。

2002年3月18日

水道工事のガーガ—いう音で目が覚める。
ちょうどとんでもない夢を見ていた時だった。
布団の中が、ここのところの暖かさでひどく暑く蒸れているせいか
バンコクが舞台になってしまっている。

そこでの私は「〜っす」というしゃべりかたの伝法な人間で
盛んに「〜っす」「〜っす」を連発している。
「キッスもスキっす」とダジャレを口走っては照れたりしている。

まるでバンコクらしからぬ川口あたりとおぼしき夕暮れの中
夢の中の私はいつものように家へ帰ろうとして角を曲がった途端
街は水びたしに変わっている。
道は水であふれ鉄骨みたいなものがかろうじて残り
そこにつかまったまま途方にくれていると、
なんと「人喰いナマコ」がワンサワンサと押しよせてくる。
アッと思うともう靴がなかった。
足を水にちょっとふみ入れてしまったらしい。
アアア!というところで目が覚めたという訳だ。

それにしても「人喰いナマコ」は怖かった。
海の底でジッとしていて、時々ナマコ投げをされる
ナマコではない。
ヒルが大型になったようなヤツで、何でこんなものが夢にと思ったら
どうやら前日ナマコのお腹をさいて「クチコ」という珍味を
作っている映像をTVで見たせいらしい。

ヒトの意識下の不思議。
ユメかウツツか、ウツツかユメか。
そのうち、その両方がまったく混然一体となる日が来るのかもしれない。
老いつつあるヒトを見ていると、本当にそんな気がする。
そうか、人生は「一瞬の夢」か。

先週、Kさんという「銀巴里」の大先輩が亡くなった。
最後に会ったのは、去年の秋の小さなコンサートの時だった。
13cmは楽にあろうかというハイヒールで、
立っているのもやっとといいながら、
それでも20曲以上を唄いきり観客の拍手を浴びた。

苦痛で苦痛でしかたないのよ。
唄っててもちっともうれしくない、楽しくない。

みんなの賛辞をうけながら、見開いた眼で彼女はポツリといった。

「古いパリの岸辺で」小さな可愛らしい三拍子のシャンソン。
Kさんというとこの歌を思いだす。
コロコロころがるような甘い声で、目をキラキラさせながら
楽しげに唄う白いドレス姿も、
古びた茶色い楽譜も思いだす。

「銀巴里」では、一番下っ端の歌手がワンステージごとに
全員の楽譜を集め、それをバンドに配り、
唄い終わると回収して、歌手ごとに分別して手渡すという
システムになっていた。
ただでさえ無器用な私は唄うことの緊張も手伝って
手も体もガタガタふるえながら、
こうすればいいのよ、と教えられたように
左手を全開にし指と指の間に一人一人の譜面を挟み
悪戦苦闘していた。

「古いパリの岸辺で」は何百曲という先輩の楽譜の中で
唯一思いだせるもの。
なぜなんだろう。
ところどころ破れかかっているペン書きのシンプルな楽譜は
Kさんと共に永久にこの世から消えてしまった。
銀座の地下で見た古いパリの岸辺をもう二度と見ることはない。
それこそ「一瞬の夢」のようだ。

そして「一瞬の夢」をヒトに見せる「歌」は、
その「歌」を唄うヒトを救うことができなかった。
Kさんの訃報のあと、ずっとこのことを考えている。

2002年3月26日

今年の桜はかわいそうだった。
セカセカと急ぐように咲いてしまったと思ったら
強風にあおられ、また寒くなって雨に打たれる。
「中野恒例さくら祭り4月5日6日7日」
と書かれた立て看をみても気の毒だ。
花に浮かれる間もなく散っていく。
何だか落とし物でもしてしまった気分で落ち着かない。

友人夫婦と連れ立って花見に出たものの
あまりの寒さに「ちゃんこ鍋屋」に飛び込む。
「花より団子」とはよくいったものだ。
フーハーフーハー食べながら友人がいう。
「私、桜の下で宴会ってしたことない。クミちゃんある?」

あるある、私の頭がカーリーヘアだったころ、
ピアノ弾いてた店のコックさんやウエイターのヒトや
その家族と一緒にゴッタ煮みたいに。
たしか井の頭公園で。
その時も寒さにふるえて。
ビール飲んではオシッコに行って、帰ってくるとまたビール飲んで、
またオシッコにいって、そのくり返し。
特設のトイレは遠くてヒトでいっぱいで。
何回も往復しているうち、何が何だかわかんなくなっちゃう。

その時のナントカいうコックさんは北島三郎みたいなヒトだった。
キップのいい、でもどこかさみし気な。
奥さんに逃げられたらしいと誰かがいっていた。
グラグラ煮えたぎる大鍋からスパゲッティを1本取りだすと
それをピョンと天井に向かって放り投げ、
ピタッと張り付くと「OK!」
これが一番おいしいゆであがりだ、覚えときな。
そういわれても、自分の家でスパゲッティなんか投げられないよ。
張り付いたスパゲッティは、干からびると落ちてきた。

「クミコ、一発やろう」そういってそのコックさんは
私のクシャクシャ頭を犬のように撫でた。
「一発」やりたいヒトでは全くなかったが、
やさしい、いいヒトだったので、頭を撫でられるのはいやでもなく
どちらかというと気持のいいことだった。
やさしい気持ちが手の平から伝染してくるみたいだった。

ヒトがヒトを追及したり攻撃したりする時に
「やさしさ」もへったくれもないといえば確かにそうだが
今、急に話題のヒトになった「ツジモト」さんを見ていると
これまでもう少しやさしい素振りをしていれば良かったのにねと
つい思ってしまう。

「あなたは疑惑のデパートじゃなくて疑惑の総合商社ですよ!」
このセリフを一気にいいきったのはすごかった。
私ならギワクのソーゴーショーシャの「ソーゴーショーシャ」の所で
必ずつまづいている。
もしかしたら、このヒトはこのセリフを事前に練習してきたのでは
ないかと思った。
怖いヒトだなあと思った。

これらは勝手な憶測ではあるけれど
「敵に塩を送る」的なフトコロの大きさを見せない攻撃は
ヒトの心を寒くする。
今は、手負いの犬のようになった「ツジモト」さんの頭を
やさしく撫でてあげるヒトが彼女のそばにいますようにと、
余計なことを祈るのみだ。

ギネスブックに最長寿として認められた、
鹿児島の114歳のおばあちゃんは2日寝て2日起き、
起きたおばあちゃんを、ベッドのかたわらのヒマゴがやさしく撫でた。
そして桜の中、お祝いに訪れた市長を迎えるおばあちゃんの胸元には
かわいい花の刺しゅうがしてあった。