クミコオフィシャルサイト - Kumiko Official Site

クミコ - ココロの扉をたたくウタ

クミコ日記著作権表示

2000年7月5日

友だちが死んだ。
ちょうど高円寺のライヴの朝、連絡がきた。
そして今日お通夜。
若いよなぁ、と祭壇の写真を見て思う。

胃がんだった。
手遅れで手術できなかったという。
事情をよく知る、別の友だちがフンガイする。
「医者はサッサと告知だけして、心のケアをしないのよ。
だから、一日一日が長くてつらくて、それが大変だったのよ。」

誰も替わりはできない。
お見舞いに行っても、死んでゆくヒトに、いえることなんて何もない。
その友だちは、とってもつらそうだった。

そのあと、みんなで食事をしにファミレスに入った。
そこで、セックスの話をした。
ヒトは、きっと誰かにさわられたいんだろう。
ふれられたいんだろう。
どんな時でも、ヒトのぬくもりを感じていたい。
だから、さわりたいし、さわられたい。
死と向きあう時でも、体も心も誰かにさわられていたい。

私が歌い手になるなんて、高校の時誰も思ってなかった。
三十才すぎてから開かれたクラス会をきっかけに、みんなが
聴きにきてくれるようになった。
ファンのように何回も聴きにきてくれる友だちもいて、
彼女はその中の一人だった。

面と向かって、いろいろ話すこともなかったから、
私の歌の何が好きだったのかも知らない。
けれど、アンケート用紙に一回だけリクエストをしてくれたことがある。
その当時私の作った、つたないオリジナルで、たしか、
“何にも持ってないけど、明日も見えないけど、私とあなただけ
世界にこうして立ってる”というような内容だった。
今日そのことを思いだして口ずさもうとしたけど、もう
題名さえ忘れていた。
だから、かわりに「鳥の歌」を心の中でうたった。

痛くないでしょう。もう。

2000年7月13日

どうもネズミがいるらしい。
夜明けになると、カラスの声と一緒にガタガタやっている。
はじめは、こわくて身体が凍った。
ネズミなんて、ずいぶん前、
新橋の地下にある店のカウンターを
一瞬走り去るのを、ユメか幻のように見たっきりだ。
どうしたらいいんだろう。ウロウロする。

「都会のネズミと田舎のネズミ」の話を思いだす。
あいつらだって、ああやって、それぞれ生活してるから、
ハナシにもなったんだ。
ということは、このまま住まわせてやるって手もある。

次にネズミにコードをかじられて
全焼した家のニュースを思いだす。
いや、ダメだ。やっぱりコロさなければ、と思う。
コロす…。
血のあるホ乳類をコロしたことは、ナイ。
コロし慣れていない。

今度は「富士日記」の武田百合子さんを思いだす。
生命あるものにかかわる強さや、生きることと死ぬことへの
タフさを思いだす。
そうだった、あれが理想だった。
私もああいうオンナになりたかったんだと、自分を励ます。
でもどうやって…。

今、大詰めのレコーディングをしている。
「歌入れ」というやつで、天王洲にあるスタジオに通っている。
きのう、夜になって外に出たら、フーッと潮の匂いがした。
そういえば、おとといも銀座を歩いていたら、
おんなじ匂いがした。
「海」があるんだ、「水」があるんだ、と興奮する。
ライトアップされた橋の上でゴロンと横になる。
星が見える。大きく息をする。
身体の中の血がゆっくりゆっくり流れている。
何かにつながっていく気がする。

そして、今朝も「ネズミ」だ。
ウーン、やっぱり、ギョーシャだなあ。
寝不足の頭で考える。
ナンとかクジョっていうやつ。
素手でネズミと対決するには、もう少し
コロしの修行を積んでからにしよう。

ア、また歩いてる!!

2000年7月20日

一昨年あたりは、狂ったように歩いていた。
ボーっと、ひたすら歩いていた。
家の近くに「神田川遊歩道」というのがあって、
ちょうど、中野と新宿を分けるあたり
、中野側では「四季の道」ともいっている。
ここを歩くたび、この道のためなら
ゼーキン払っても仕方ないという気になるくらい。
毎日毎日歩いた。

歩くといろんなことが消えていった。
どうにもならないことが、どうでもいいことに変わっていった。
頭がリセットされていく感じ。
心と体のキンコーが歩くことで持ちこたえている気がしていた。

その頃NHKの「小さな旅」という番組で
「神田川」をテーマにしたことがあった。
フォークソングの「神田川」にひっかけて、
青春のキラメキやセツナサが、
光る水面をバックに、
さまざまなヒトを織り込みながら語られていく。
その中で、フォークシンガーをこころざしたものの、
挫折したという、
年の頃も私と同じくらいの、男のヒト二人が登場した。
彼らは今も、音楽へのユメを捨て切れず、
ビルの窓の清掃とかをしながら活動しているらしい。
私がいつも歩く橋の上で、夕陽に照らされ彼らが唄った。
オリジナル曲だといってギターをかき鳴らした。
息をのんだ。ドキドキした。困ったことになったと思った。

ツマンナイ。 すごく… ツマンナイ。

ああ、これじゃあ、ダメだったよね。
何だか肩にやさしく手をかけてあげたい気になった。
まるで哀しい喜劇を見ているようだ。

残酷だけど「過程」なんて、何の意味もないんだろう。
いいものを作ったという「結果」がなければ、
何にもならないんだろう。
「過程」より「結果」これは真実だ。

今朝、早く起きたので遊歩道を歩いた。
また、あの二人を思い出した。

そしてこれから最後の「歌入れ」。がんばらなきゃ。
「もういいよ。」って、肩に手をおかれたりしないよう。

2000年7月25日

本屋にいったら「捨てる技術」とかいう本があった。
モノがあふれる現代で、いかにモノを捨てて快適に暮らすか、
ということなのだろう。

私は引っ越しの達人で、引っ越しばかりしてきた。
引っ越しばかりしたので、達人になった。
コツはただひとつ。「捨てる」こと。

いやいや、ようく考えてみると、それ以前、
私が人並みの「カテイ」を営んでいた時には、
モノは確かに多かった。
ある時、ふとモノがジャマになった。
小さいモノから始まって、次々にエスカレートしていくうち
ヒトまで捨ててしまった。

そこから引っ越し生活が始まった。
ある引っ越しの時には、山積みでモノを捨てた。
その中には、ドレスもあったし、靴もあったし、写真もあった。
ボコンと捨てると体が軽くなる。
きっとモノには、思い出がベットリくっついているせいだろう。
これは快感だ。
捨てフェチとでもいおうか。

黒沢明の戦後まもない頃の映画、
「素晴らしき日曜日」の中に、
ザンザン降りの雨の中、貧しい恋人たちが、
きたない彼の部屋にたどりつくシーンがある。
ぬれた服や、穴のあいた靴下のせいで、
みじめな気持ちの恋人たちは、
よけいみじめになっている。
なあんにもない部屋の、なあんにもない二人。
この貧しい恋人たちは、
最後にはユメを語り合って希望をとり戻すのだけれど、
それは、なあんにもない二人が一つ一つモノを増やすユメ。
そうして得ていく幸せ。

この二人の世代を父母にもった私は、それなのに
今、一生懸命モノを捨てようとしている。

時々、本当に捨ててしまいたいのは、自分自身なのかもしれないな、
と思ったりしながら。