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クミコ - ココロの扉をたたくウタ

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2002年7月1日

暗闇の中、目を慣らし席に着く。
予告編が終わり、さあこれから。

「I am Sam」とスクリーンに文字が出た時、一瞬目を疑った。
私が観にきたのは、これじゃない。
コドモと動物と身障者モノは苦手だ。
何で、こんなことに。

うろたえる頭の中に、お葬式を間違えた友人の話が浮かぶ。
強い近視の、元来アワテモノの、その友人は
あたふたと記帳を済ませ香典を渡した。
やれやれと椅子に座り、祭壇の写真を見ているうちに
それが全くの別人であることに気づく。
一体、これは、としばらくは自分の身に何が起こったのか
わからなかったが、
よーく見ると何と隣りでもうひとつお葬式をしている。
呆然としながらもモンダイは香典だということに気づく。
もうひとつ香典袋があれば良かったのだろうが
予備を持ってくるニンゲンなどそうそうはいない。
まさしく穴があったら入りたいという状態で
彼女は受付にいき先ほどの香典を返してもらったのだという。

ヒトのことは笑えるのだが、自分のことは笑えない。
「泣きました」だとか「愛がすべて」だとかいう
コメントの付いた映画の始まりに身を固くするが、
いざ始まってしまうと、
その巧みなカメラワークや登場人物の面白さに引き込まれていく。
イヤな湿度がまったくない。
お涙頂戴モノじゃなくて良かったとホッとする。
映画の中では、大都会に住む生まれついてのハンディキャップを
持っているヒトや、ココロをわずらっているヒト、
ココロもカラダも疲れ果てているヒトが
それこそゴーヤチャンプルーのように混ざり合って生きていた。

基本的には、どこにも行きたくない怠け者の私が
唯一、行ってみたいと、
急に沸騰したヤカンみたいに思った所がニューヨーク。
ある日、ニューヨークの街角がニュースで流れた時だった。
いろんな人種の人々がグチャグチャ行き交う街角のシーン。
何て居心地がよさそうな街なんだろう。

滞在している間ずっと緊張したままで疲れるから
ニューヨークは嫌いだという友人もいるが、
そのゴチャマゼチャンプルー状態はクラクラするほど魅力的だった。
人種のルツボであることも、ニューヨークの映像もずいぶんと
見知っていることなのに、その一瞬のニュース映像は
直接私の肌に吹いた風のようだった。
ああ、ゴチャゴチャなところで生きてみたい。

ワールドカップ、韓国とトルコが戦い始めた時、
韓国料理もいいけどトルコ料理もいいなあと思い、
そういえばドイツ料理もブラジル料理もいいなあと思った。

新宿三丁目の元スナックがそのまま韓国料理屋に変ってしまったので
低いテーヴルを挟んでソファの向こうとこっちに座ると
まるで客とホステスになってしまう不思議な店のことや、
すぐ虫が飛んできて皿に止まるので、
そのたびにあわてて料理を出し直す、無口なトルコ人の
騒がしいオクサンが日本人だったことや、
銀座でも新宿でも行けば必ず「乾杯の歌」を
知らないヒトと大声で唄いたくなって、
ついでにアコーディオンのオジサンの身の上話も聞きたくなる
古いビアハウスのことや、
食べ放題、飲み放題でメチャクチャはやっていたのに
何がどうなったのかアッという間に消えてしまった
笹塚のエンタテインメント系ブラジリアンの
赤く光っていたネオンサインのこととかが頭をめぐる。

もちろんフランス料理もチュニジア料理もイタリア料理も
中国料理もスペイン料理も日本料理もいい。
イギリスだってビールとマフィンはうまい。

今回ワールドカップで一番感じたのはこのことだった。
ゴチャマゼが一番。
白くても黒くても黄色くてもしょせんヒトはヒト。
そしてヒトのすることは大体おかしい。

ヨソの国の国旗を顔に描いて応援する日本人もおかしいが、
コワモテカーンが美声で、イケメンベッカムがミャーミャー声だったことも
おかしい。

2002年7月8日

今から30年近く前に放送されていた
「太陽にほえろ!」の再放送を見ていると、
あの時代の建物の匂いまでよみがえってくるような気がする。

石原裕次郎扮する「ボス」の机のまわりに集まった
刑事(デカ)たちの息が白い。
見まちがえかとよく見ると誰のも白い。
そうかと思うと、
部屋の真ん中でおっきな扇風機がビュンビュン回っている時もある。

ちょうどその頃、友だちの部屋に大学受験のため
親が「冷房」をつけてくれたと聞いた時は、
みんな心底うらやましがった。
「暖房」と「冷房」は別々。
今みたいに「エアコン」とひとくくりでいえるモノではなかった。
もちろん、ドライも省エネもクリーニングもアルカリイオンも
およびでない。

その後、やっと取り付けられた私の部屋の「冷房」は
夏になって初めて回すたび、白い粉がバラバラ降ってきた。
夏に白い粉というのもヘンだが、
ああ、これで今年も夏が始まるといった風物詩のようでもあった。

昨日も今日も暑い。
練馬で午前中すでに34度を超えたというニュースでは
日傘をさしたオンナのヒトの腰を抱くオトコの後姿が映った。
「離せよ、暑いなあ」テレビに向かっていう。
抱くというより触れているというような、
そのおずおずとした姿勢が余計暑苦しい。
触るのも、時と場所と天気を考えて、いさぎよくやってほしい。

炎天下、青梅街道を自転車ですっ飛ばしていると、
向こうから、おじいさんとおばあさんが手をつないで歩いてくる。
汗をふきふき歩くおばあさんの足元がおぼつかない。
その目はちょっとアッチ側にいっているヒトのようでもあって
おじいさんはその手をしっかりと握っている。

ふと、知人の老婦人がいっていたことを思いだす。
ちょっとした拍子にヒトに触られると、とっても安心してうれしい。
ヒトというのはオトコのヒトのことで、
彼女の場合は、私と同年代のオカマのヒトのことだが
まあ、オトコであることに違いはない。
手も大きければ、力も強い。
体温も高いかもしれない。

老人を介護するオンナのヒトにとって一番つらいのが
触られることだと聞いたことがある。
まあ、老人になってもねえと、眉をしかめる向きもあるが
これは当然のことだろう。
いや、老人になればなるほど、ヒトに触りたいし、触られたいのかもしれない。

赤ちゃんの頃、コドモの頃、若いヒトの頃、働き盛りのヒトの頃、と
ヒトに触り触られる機会は、それぞれ形を変える。
でも、ヒトの記憶は続いている。
老人というヒトの中の記憶が滅びることなんてない。
動物の本能は変わらない。
ヒトは触って触られるものだ。

そしてそれは「人生」ってやつで、とっても重要なことなのかもしれない。
ちゃんと触って触られることをしないから
ヨソの国に行ってヨソのヒトを買ってしまったりする。
ヨソに行かなくても、ソコココでヒトを買ったり売ったりしてしまう。
あるいは、口先だけのムダな争いに明け暮れる。

よく外人夫婦のインタヴューで、
二人がソファに腰をおろし、夫の手がさりげなく妻の肩に
回っていたりするのを見たりすると、
何だかんだいっても、いいなあと思う。
さっきまで回していた手が、突然張り手になって
相手の顔にとぶようなことがあってもそれはそれでいい。
これは「対話」だ。
「触り触られる」ことはニンゲンの「対話」だ。

対話なくして愛はないなあなどと、テレビをつけると
コイズミさんが、裸のイナモト選手と抱き合ったことが
良かったうれしかったといっていた。
やっぱりね。

2002年7月16日

また台風がやってきた。
梅雨明けもしていないのに、もう二つ目だ。
昨日までは強い南風が吹き荒れた。

風はきらいだ。
おなかの中や頭の中まで揺れてしまうようで
ザワザワと疲れて落ち着かない。
山頭火というヒトだって、
放浪していて一番イヤなのは風だっていってた。
強い風はヒトをからっぽにしてしまう。

ゆであがるような、ここ数日のむし暑さの中、
ガンジョーそうな若者を二人見た。
一人は、茶色のコーデュロイの長袖上着をきちっと着こみ、
首には、なめし皮のようなタイを巻いている女のコ。
髪をうしろにひとつまとめして、
ジリジリの西日の中、ポケットに手を突っこんで歩いていた。

もう一人は、午前中すでに33度を超えているお昼時、
黒の皮ジャンに黒のジーパン、黒のブーツで
自転車にまたがり信号待ちしている男のコ。

ご苦労なことだなあ、と思う。
きっと彼らは冬にはTシャツ一枚になってしまったりするんだろう。
季節の先取りがオシャレというのだろうが、
そんなキレイゴトではすまないような、
自虐にも似た執念をうしろ姿に感じてしまう。
季節を拒否して、世界を拒否する、
自分と自分の周りを隔絶して生きていく、
そんな悲愴感さえ漂う。

ボケ老人の病棟に行ったことがある。
大きなプレイルームのような所に
何十人もの老人たちがうごめいている。
一人だったり、みんなだったり、
歩いていたり、おしゃべりしたり。

看護婦に連れられ入っていった私のまわりを
数人の老人が取り囲んだ。
あるヒトは私に誰かを紹介するといい、
あるヒトは久しぶりねえといい、
あるヒトは家に遊びに来いといい、
お互いに話し出すのだが、かみ合うことはない。
それぞれがそれぞれのことをしゃべっている。

私はええ、ええどうも、といいながら恐縮しているのだが
基本的には立ちつくしているといった方がいい。
ボケという狂気の中で呆然としている。
「ボケたが勝ち」
「泣く子とボケには勝てない」
そんな言葉が浮かぶ。
外界を絶つモノは王様だ。
取り残されたモノだけが悲しむ。

「新宿駅南口からの中継です」といって
レポーターがしゃべり始めた。
「台風の中、改札口付近には、友人や恋人を待つ人々が。」
コイビト?
めずらしいなあ、コイビトなんて言葉、こんな時に。

台風とニュースとコイビト。
三題話にもならなさそうだが、
初めてオトコと旅をした時に、
その台風で足止めをくらった。
川は水かさを増し、やっとのことで着いた飯田駅で
「サイトウさん、サイトウクミコさん、ご両親から
連絡が入っています。」とアナウンス。
しょせん、お釈迦さんの手の平かと、
がっかりしてすごすご家に帰った。

強い雨と風をまぶしそうに見上げる、
まだ二十才そこそこの写真の中の私は
ついこの間のことのような、
遠い昔のことのような。

2002年7月23日

思い込みが激しいタチだ。
他人が唄っているのを聴いて、ああこの曲を唄いたいとまず思う。
詞と譜面を手に入れる。
練習を始める。
泣く。
そしてこの曲は私のために生まれてきたのだと確信する。

「幽霊」もそうした曲だ。
うまくいかない障害の多い恋ほど燃えあがるのと同じように
なかなか手に入らないこの曲への想いはどんどん募った。
やっと高野圭吾さんからイラスト入り直筆の日本語詞をもらい
ポツポツとピアノで唄い始めた時には涙が止まらなかった。
曲もそうだけれど、何よりそのコトバたちを唄いたかった。

つぶれたトマトじゃない、しおれたキャベツでもない
見るたびに形の変わるあの黒いものは何
きっとあれは見果てぬ夢の幽霊
慣れきった暮らしの垢から生まれたもの

高野さんのイラストはペン書きで、
眼下に灯りのともる街角を、窓から見つめるオトコのうしろ姿が描かれている。
茫茫とした心の闇を見つめるような黒い背中。

先週、この「幽霊」のレコーディングをした。
まだ、デモテープの段階だが、初めてちゃんとした録音物の形になった。
今回のアルバムの音楽プロデューサー、谷川賢作さんのアレンジ。
全編いわゆる「ウチコミ」で、コンピュータを使ってはいるが
キカイ臭さはない。
それどころか、後半入ってくるストリングスなど聴くたび泣きそうになる。
これまでの三柴さんのアレンジもうまい具合に生かされていて
ああ、みんなの手を経てとうとうここまでと、
やっと育ち上がった息子を見るような感動と感慨が。

高野さんの詞はおいしい。
精製された水のようではなく、不純物もいっぱい入った
湧き水のようだ。
考えぬいたのかもしれないけれど、まるで考えなかったような、
「情」が先走ってしまったような、勢いのあるコトバたちが生きている。
ホラホラ、ほんとならこっちでしょ、という道からギューンとカーヴしている。
秩序とか技術を超えた「気持ち」が走っている。
だからおいしい。

高野さんの「歌」もいいのだ。
昔、始めて「銀巴里」で聴いた時はブッ飛んだ。
その詞同様、ゴチャゴチャした決めゴトをヒョイと超えてしまっている。

高野さんの歌はリトマス試験紙だと思う。
これをいいと思うか、思わないかでそのヒトがわかる。
独断だけれど、そのヒトのココロの自由さがわかる。

唄っている時の高野さんを見ていると時々うらやましいと思う。
おそらくこのヒトは、このヒト一人にしか見えないモノを見て唄っている。
その輝く目の先にあるモノも、それを見られる高野さんも
うらやましいと思う。

「同窓会なんか行くとね、みんなジジイなのよ」
と、たしか60才になった頃言ったのを覚えている。
何も持たず一人で風のように生きている、
こんなヒトばっかりだったら、たしかに「国」なんかやっていけないだろうけど
こんなヒトが沢山いる「国」って、きっとすごくステキだろうと思う。
自由でいることはきびしいことだけれど、
でもやっぱり自由っていいよねと高野さんを見ると思う。

そして今いくつもの夜と季節やり過ごし
果たしてない約束を戸棚にいっぱいしまったまま
また出かけようとしている
約束を破ろうとしている
また負けそうになっている さすらいの誘惑に
ラララ……

11月下旬、この「幽霊」の入ったCDが出ます。