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クミコ - ココロの扉をたたくウタ

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2003年4月2日

以前、市ヶ谷あたりを車で通ると、
歩道に黒地にピンクの花びら模様の傘をさしたヒトが歩いていた。
なんてキレイと思ったら、何のことはない、
黒い傘に雨で落ちた桜の花びらがビッシリはりついていたのだった。
しかし、どんな傘もあの傘にはかなわない。
桜には黒い傘、なのに一本も持っていない。

冷たい雨の平日だというのに、有楽町の映画館はヒトで一杯だった。
開演間際に飛び込んだため、座ることができず、
まん中の柱に寄りかかって見渡してみると8割がた中高年。
映画館など、これまであまり来たことのないヒトまで、
せっぱつまって来てしまったという感じさえする。

「戦場のピアニスト」
ポランスキー監督が積年の想いを込めて撮ったという作品。
「感動のナントカ」とか「魂のナントカ」というのが苦手の私だが
時期も時期だけに、ナンとしてもと、こっちもせっぱつまった顔。

物語はナチス占領下のポーランドのユダヤ人ピアニストの実話。
音響システムがいいので、爆撃音がリアルで体がビクッビクッとする。
これじゃあ、やっぱり戦争はいやだと思う。
こんなに音が大きいのはいやだ。
こんなにモノが壊されるのはいやだ。
こんなに殴られるのはいやだ。
こんなに殺されるのはいやだ。
いやだ、いやだと思っているうちに終わった。

終わってみると、何だか落とし物をしたようにスースーする。
忘れ物をしたように心もとない。

とりあえずガードをくぐって西銀座デパートにむかう。
30年近く前、ここの入口の柱付近に絵を描くオジサンが座っていた。
「銀座のお地蔵さん」と呼ばれる、いわゆる「体の不自由なヒト」で
色紙にヒトよりおっきなお地蔵さんを描いては路上に並べ
道行くヒトがそれを見たり買ったりしていた。
私も母親と買い物ついでに足を止めるうち、
どういうわけか仲良くなり、学校帰りに立ち寄っては
一緒に座ってお手伝いをするようになった。

オジサンにはオクサンがいた。
太った天使みたいにニコニコと絵を描くオジサンの脇で
ちっちゃなオクサンは、いつも疲れた顔でしゃがんでいた。

オクサンのいない日の夕方、
仕事を終えるとオジサンは私の肩につかまりながら
二階にあるレストラン「三笠会館」を指さした。
「終わるとね、いつもここでね、ごちそうになるの」
うまく回らない口でゆっくりとオジサンはいった。

オジサンの体は熱く重く、それを支えて階段を上ると、
指定の席でもあるかのように座り、
店のヒトが運んできたかぼちゃのスープを飲んだ。
それはまるで「ほどこし」のようだった。
恥ずかしくて、逃げ出したかった。

でも、オジサンは幸せそうにニコニコしながら、
みんながボクに親切にしてくれるの、といい、
久美子さんはホントにいいヒトだと、くり返した。
息苦しかった。

それからオジサンには会っていない。
心配して自宅に電話もかかってきたが、私が出ることはなかった。
私はもういいヒトではなかった。

その後、銀座に行くと遠い所からオジサンを眺めた。
何年かしてオジサンが亡くなったことを新聞で知った。
オクサンの疲れた顔がまた浮かんだ。
いいヒトというのもツラいなあ。

いい映画もツラいなあ。
文句あっかって感じだしなあ。
でもナニか、違う気がするなあ。
と、夜になっても収まりがつかない。

ま、ピアニストの映画なら
「海の上のピアニスト」の方が良かったし、「ピアノ・レッスン」もね、
だってピアノって楽器がとってもセクシーに見えたからと
ますます訳がわからない。

2003年4月11日

先週末、新宿からJRの「湘南ライナー」に乗った。
桜もこごえそうな冷たい雨の日で、
乗客もそれほど多くはなかったが、
渋谷、大崎、と停車するごとに増えていく。

途中、何かヘンだなあ、と思った。
なんかヘンだ。
それがわかったのは「横浜」の手前からだった。

「ツ、ツ、ツギハ、ヨ、ヨ、ヨコハマ」
「ドモリ」といってはいけない、「吃音者」の車掌さんがアナウンスしていたのだった。
途端に心臓がキューッと緊張した。
タイヘンなことになったと思った。
一体この先どうすればいいのか。
とりあえずこれから停車する駅の名前を頭の中で挙げてみる。
本を開けているのだが、もう目はすべっている。

突然、車内のアチコチで笑い声が起った。
オバサン同士で屈託なく笑っている。
「アレアレ、キンチョーしちゃったのねえ、まだ新米なのねえ、きっと」
確かに車掌さんの声は若いけれど、
でもそれはちょっと違うんじゃ、と思う間もなく、
隣りのオジサンが顔を両手でおおった。
何事かと見ると顔をまっ赤にして笑いをこらえている。
クククと体がふるえている。

オジサンといいオバサンといい予想を越えた反応に、
あり得ない社会現象を前にしたようにボーゼンとする。
吃音アナウンスも年配者の反応も、
どちらも、にわかには信じがたい二重のショック。

「横浜」は地獄だった。
「サガミテツドウ」やら「シエイチカテツ」やら乗り換えを告げる膨大なアナウンス。
突っかかるたびに心臓がバコバコして目の前が真っ暗になる。
何が何だかわからない。
ここで乗り換えでなくてホントに良かった。
どこに行っていいかわからない。

横浜を過ぎ、多くの乗客を降ろして、
すっかりカオス化(と私だけが思っているのか)していた車内にも
落ち着きが戻った。

次は「戸塚」
「戸塚」も「ト」が入っていると危惧していたら、
山場を越えた安心感からか「ト、トツカ」程度で済んだ。
良かった。
ググッと肩の力が抜けていく。

次に心配していた「藤沢」の「フ」もとどこおりなく、
私はそこで無事降りた。
ひと仕事したような疲労感。
重い足で階段を上る。

若い車掌さんである男のコは、一番向いていない職業を選んだのだろう。
おそらく自分自身のために。
エライことだなあ、と感心しそうになるが、いや待てよ。
でも、やっぱりサービス業としては、これはまずいんじゃないだろうか。
ちょっと前までよくあった、日本語のわからない外人ウエイターや
ウエイトレスのいる居酒屋みたいじゃないだろうか。

まあ、ともかく今は一日も早く彼の吃音克服を願うしかない。
それと、できることなら二度と乗り合わせないですむこと。
カラダがもたない。

2003年4月20日

店の前の黒板メニューに「天豆」と書いてあったので、
店に入り「ソラマメ下さい」というと
「テンマメですね」と店員の女のコは念を押し、
キョトンとする私たちを尻目に「テンマメひとつ」と
カウンターの奥に告げた。

この店は、この間まで中野でもいわゆる「老舗」と
いわれた店だった所で、
そこでは、そこそこいい値段ではあるけれど
なかなかシブい酒と肴を出していた。

「天豆」に「テンマメ」とわざわざフリガナのついた張り紙のある
壁を眺めながら、
時代は変わるのだなあ、と思った。

ついこの間も、やはり中野では「老舗」の
鹿児島料理を食べさせる店に久しぶりに行ったら、
カウンターに常連らしきオジサンたちがたむろしている他は、
ほとんど客がいない。
いっぱいで入れません、といわれた頃がウソのようだ。

けっこう広い店内なので余計さみしい。
店のオカミさんが、ちっとも変わってなくて、
「これ、染めてないのよ」と黒髪を振るのが、これまたさみしい。
ヒマでヒマで、もう店閉めようかしらと、いいながらも、
「早い時間は団体で一杯だったのよ、
たまに来てもらって、こんなヒマで心配されちゃったんじゃないかしら」
と、説明するのもさみしい。

何年か前には「立場料理」という、江戸の粋な料理を
食べさせる店もあった。
柳に黒塀で、外からは、長唄や三味線のお師匠さんの家のよう。
坂塀をくぐって、土間のような所に腰を落ち着けると、
奥から、縞の着物姿のオカミさんが、
ナマめかしくユルユルと出てくるのだった。

時間がトリップしたような空間の中で、
とうていこの世のヒトとは思えなかったオカミさんだったが、
ある時、書家になるといって店をたたんだ。

その閉店パーティで唄って欲しいと頼まれ、
打ち合せにいくと、何モノかを手渡された。
あったかいのよ、オンナは冷やしちゃダメよ。

家に帰って開けてみると、腰までスッポリと包める
いわゆる「ババシャツ」で、しかもLサイズ。
ワコールの上等なものだったが、
深く襟を抜いた着物姿のオカミさんとどうしても結びつかない。

オカミさんってオバアサンだったんだ。
そんなこと当り前のことだったのに、
急に、これまでモノノケにだまされていたような不思議な気持ちがした。

どの店も知人や友人の男のヒトたちに連れて行ってもらった。
私よりちょっと年上のそのヒトたちは、
それぞれの店に「若造」として出入りを始めたのだったろうが、
今ではみんな「ヒトカド」だ。

「ヒトカド」になってワイン片手に、フランス料理だってイタリア料理だって
何てことはないのだけれど、
時たま、明日のわからなさそうな店で一緒に、
焼酎のお湯割りや熱燗なんかを飲んだりすると
私たちの上を流れていく時間が見えたりする。

「テンマメ」と呼ばれてでてきた豆はどうみても
普通の「ソラマメ」だった。
小ぶりで、少し柔らかかったけれど、
真ん中にちゃんと切り込みも入っていて、
それを外の皮ごとパックリと食べた。
おいしかった。