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クミコ - ココロの扉をたたくウタ

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2002年10月2日

台風接近という中「竹橋」の「近代美術館」に出かけた。
この日を逃したら、とうぶん見ることができない。
「小倉遊亀」展は6日までだ。

横なぐりにかわりつつある雨の中。
改装された美術館には、それでもずいぶんのヒトたちがいた。
100歳を過ぎても絵筆をとりつづけたこの日本画家は
ドキュメンタリーでもしばしば取り上げられていた。
一見、フツーのおばあちゃんのようなのに、
絵筆から流れ出る線と色彩は自由で力強く、
よく見れば確かに目が鋭い。

一点一点ゆっくり見ていく。
「見事な人生」
これにつきるなあ、と思う。
40、50才は鼻タレよ、といわれているようで身が引きしまる。
多分、ほとんどの観客が、
それぞれに見を引きしめているであろうことは
その顔を見ているとわかる。
20才でも60才でも70才でも。

見事な人生だなあ、また思う。
そしてモノを表現する道を歩むことの幸せをつくづく思う。
「きびしさ」ももちろんだけれど、やっぱり「幸せ」を思う。

夕方、テレビをつけると「横田めぐみ」さんのご両親が映っている。
娘の死因が「自殺」とされたという。
哀しみを穏やかな笑顔にかえて公の場に臨む、
このご夫婦を見てはいつも胸がつまった。

不条理な事件、たとえばサリン事件とかリンチ事件とか、で
相手側と必死に戦うヒトたちを見ても感動していた。
突然起こった不幸にわらわら戸惑う一介の市民だったヒトが
その後、きっちり前を見すえ、堂々と発言していく。
当事者にはたまらない話だが、たしかに
「不幸はヒトを成長させる」のだと思った。

「怒る」ことより「泣く」ことより「笑う」ことは哀しい。
怒りつくし、泣きつくし、笑うことしかなくなることが
世の中にはあるのだろう。
穏やかな口調でほほえむ横田さんを見ていると、
お二人の辛く遠い「来し方」が見えてくる。
また胸がつまる。

「竹橋」は皇居のお濠のそばだ。
飯田橋に住んでいた頃は夜中、
自転車で銀座や大手町の方からよく突っ走っていた。
背中にしょった「銀巴里」の譜面が汗でグタグタになってしまったり、
「なんだっちゅうんだよ」と酔って誰かれの悪口を叫びつづけたり、
二羽の白鳥が雪のお濠の中、浮かんでいるのを見てジーンとしたり、
この「生きとし生けるもの」は若く忙しかった。
怒っては泣いて、泣いては笑った。

先日、覚和歌子さんがアルバムのライナーノーツを書いて下さった。
送られてきた文章の途中、不覚にも泣いてしまった。
今、泣くのは大体「不覚」な時だ。
それまで見えなかった球が突然胸元に飛び込んで来た感じ。
自分の「来し方」を見てしまう時でもある。

でも、まあ、しょせんは40、50才の鼻タレのこと。
先は長い。

2002年10月11日

新幹線の改札を通ろうとしたら上條さんが
キカイに止められた。
「帰り」のチケットを入れていたのだ。
「ハイ、これ」と渡したものが、まさか「帰り」のチケットだとは
思わなかった。
出発まで、あと4.5分でのできごとにあわてる。

3日間、スタジオ作業に明けくれていた。
すでに録音ずみの歌を、「ちゃぶ台がえし」的に
ギリギリのところで入れ直したり、
なかなかしんどい作業でもあった。
こんなことができる、いや、させてもらえることに感謝しながら、
でも、夜遅くなるにつれ、目がうつろになっていく。

大阪は日帰りするのがもったいない街。
でも今回は、「レコードやさん関係」の方々に
ミニライヴをお聴きいただくという「仕事」なので仕方がない。
6曲ほど唄う。

2曲目につまづく。
その前日に唄入れの仕直しをしたばかりの曲だ。
なさけない。
身についてないなあ、と反省するが、
大体、新幹線チケットを1人分まるまる忘れてくること自体
原発のヒビ割れじゃないけど、
どこか「病弊」している感じがする。

そういえば、ヒザもここ3週間くらいずっと良くない。
「関節にきたらトシよ」断固として上條さんがいう。
ヘンな話だが、ヒザを痛めてから
洋式トイレのありがたさをいやというほど味わった。
誰が「しゃがむ」なんて考えだしたんだと、
今では「和式トイレ」に怒りさえ感じる。

近頃の子供は洋式しか入らないし、入れない。
時代も変わったもんだと、「和式」の前でたたずむ、
その姿を見ては感心していたが、
思わぬところで自分もそうなった。

東京駅ではほとんど全部が「和式」。
時代を完全に逆行している。

40年近く前、はじめて洋式トイレに入った時はパンツを全部濡らして
濡れたパンツのまま、小学生の私は友人の家をあとにした。
スースーした。
ガイジンがみんなこれで用を足しているとはどうしても信じられなかった.
私に使える日は永久にこないだろうと思った。

それがこれだ。
今は、日本中のすべてのトイレを「洋式」にというのが切なる願い。
そうそう、ミニライヴでつまづいたのは「願い」という曲だ。
江國香織さんの詩に、谷川賢作さんが曲をつけてくれたもの。
「いつまでもいつまでもあなたと寝たい」と始まる。

「すべての女性がこう願っていると思います。」と、
はじめて唄う時、つけ加えたが
そうでもあるまいと今は思う。

オトコのヒトがうっとおしいモノに変っているオンナのヒトも
多いに違いない。
それに、いざという時、こうヒザが痛くては
どうにもならない、という気もしている。

2002年10月17日

永久に終わらない気さえしていたレコーディングが終わった。
最後に録音した曲はバルバラの「わが麗しき恋物語」。
すでに一回録音済みだったものの再挑戦で、
アレンジからのやり直し。
ミュージシャンも変わり、スタジオも変わり、そして唄い方も変わった。

日テレ別館にあるサウンドインスタジオは
「幽霊」と「愛の讃歌」のプリプロ(試作)をしたところでもある。
最初と最後が同じスタジオというのも何かの因縁か。

ダビングの最中、アシスタントの女の子が鼻をグズグズさせている。
風邪かと思ったら、エンジニアの北川さんが
「彼女、ずっと涙が止まらなかったんですって」という。
5年間勤めていて初めてのことらしい。

「あなたのような若いヒトに伝えたくて、わかってもらえるよう
唄っているんです。どうもありがとう。」
とりあえずお礼をいう。

発売されるCDはCCCDという、コピーコントロールされている
シロモノだ。
最終作業のマスタリングを終えた音源は、
これまでのものに比べ高音が耳につく。
工場で行なわれるコピーコントロール作業で
高音域が削られることを見越してのことらしい。

「けれど、実際はよくわからないんです。」北川さんがいう。
この道30年、森田童子や沢田研二など手がけてきた
大ベテランの北川さんも困惑している。
キカイに弱い私など特に、ここ10年間位の
キカイの突っ走り方はジンジョーではないと思う。

今では、数々のキカイの他に「プロテュールス」というキカイを使いこなせないと
スタジオアシスタントはつとまらないらしい。
音程やリズムをちょこっと直してしまうキカイ。
ヒドい歌もソコソコの歌にする秘密兵器。
今回、一回もこれを使わなかったのは自慢してもいいことのようだけれど、
やはり自慢することのほうが恥ずかしい。

これまで「人生」という歌詞が出てくるものがうっとおしかった。
「人生」ってこんなに大変で、苦しくて、でもそれに打ち勝ってこそ、
という一連のチカラの入り方が苦手だった。
ソンナコト、イワレンカテワカッテマスガナ。

ところが「わが麗しき恋物語」には「人生」が何回も出てくる。
まったくオトコ運の悪いオンナの19才の回想から始まるこの歌では「人生」が
「ちょろいもん」「奇妙で素敵」「退屈」「意味不明」「愚かなもの」
と形をかえていく。
咄家さんを夫にもつ覚さんの詞は潔い。
乾きもせず、湿りもせず、奥底にちょっと笑いを含ませ
「人生」を語っていく。

録音マイクから顔を上げると、
西日にあたった洗たくものがひるがえるベランダが見える。
麹町あたりでもヒトの生活はつづいている。
切羽つまった気持ちが緩む。
この歌は哀しいけれど、哀れではない。

ロビーで休憩していると
飛行機から降りてくる5人のヒトが何回も何回もテレビに映った。
顔をグシャグシャにして抱き合うヒト、
キョロキョロと目が落ち着かないヒト、
体中がこわばっているようなヒト。

私とたいして年のちがわないこのヒトたちの
これまでとこれからの「人生」を思う。
哀しいけれど、哀れではない、そう思いたかった。

2002年10月28日

渋谷で「東京国際映画祭」が始まった。
昨日は、主題歌の日本語バージョンを唄ったということで、
「わすれな歌」の上映後、
監督に花束を渡すという役目をいただいた。

「タイのタランティーノ」と呼ばれるペンエーグ監督は
まだまだ若く、いい意味でのヤクザっぽさもあって、
まさに「映画人」というかんじ。
新しいアレンジになった曲が流れると、
下を向いて懸命に覚えようとしている。
気に入ってくれたらしい。

タイのイヌはどれもこれもやせていて、
ヒョロヒョロと歩いては、あちこちで寝そべっていた。
高温多湿という過酷な気候の中で、
絞れるだけ絞られてしまって、ムダなものが一切ない、
タイ、そしてアジアのイヌたち。
ペンエーグ監督を見て、失礼な話だがそんな連想をしてしまった。

ロシアの劇場で公開処刑をされた人質は
太ったオトコのヒトだったという。
「おいしそうじゃないか」と選ばれて撃たれてしまったわけだが
ビデオカメラに映るテロリストのリーダーの顔は、
暗く、寂しく、哀しく、そしてやせていた。

死ぬ時、太っているのはイヤだなあと思う。
柩に入るのも、運んでもらうのも、焼かれるのにも、
ひどく面倒なことになりそうだ。
カスカスに小さくなって死にたいものだと思う。

「私が一番キレイだった時」
茨木のり子の詩ではないが、10代後半のムスメザカリといわれる頃、
私はひどく太っていた。
少年のようといわれた中学時代の面影はどこにもなく
猛烈に襲いかかる食欲の果て無残な姿になっていた。

その頃の日記には、人生で美しいとされるこの時期私は、
と矢印でここがこうで、ここがこうでと、カラダのあちこちに
ひとつひとつ注釈をつけた「私の全体図」が描かれていた。
ヤケになっていた。

ピークは大学受験の頃。
高校は休みに入り、それぞれが自宅学習となった時、
母親が突然「アタマの良くなるドリンク」を作り始めた。
今では目にすることもない「オニグルミ」をすり鉢で念入りにすりつぶし、
それに黒砂糖をたっぷり入れ、熱湯で溶く。

「オニグルミ」は今どきのやわな「ウォルナッツ」とは違った、
筋金入りのやつで、
厚くて堅い殻をカナヅチでボコンボコンと割ると、
中から見るからにチカラのあるクシュクシュの実がとび出した。

机の前に座っているだけで、
朝昼晩の3食の間に、この特別ドリンクを飲み続けた私は
ある日体重計に乗ることを止めた。
そして得意顔の母親に見送られながら
「そのまんまキグルミ」のような私は大学に通い始めた。
まだ学園紛争の火がくすぶる時代に私は脂肪と戦う
ことになってしまった。

やせて精悍なペイエーグ監督に壇上でプレゼントを渡す。
1回のシャッターで同時に何ポーズも写るというインスタントカメラ。
「日本にしか売ってないんですよ」
受けとる監督につけ加えた。
「ロシア製ですけど」