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クミコ - ココロの扉をたたくウタ

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2003年6月2日

舞台上手にスタンバイすると、甘い香りがする。
香水らしい。
思わず「いい匂い」というと、前にいた天童さんが振り向き
「私、バニラ好きなんですよ」という。
それから、おもむろに私に向き直り、
「クミコさん、いい歌唄われますね。
私、テレビ見たんですよ。
すばらしいです。」

ビックリして
「こちらこそ、天童さんにお会いできるのを楽しみにしておりました。」
トンチンカンな返事をする。

30人入れば一杯の「アダムス」のライヴの翌日、
4000人収容のNHKホール。
ステージに立って手を広げた時、
客席がスッポリ入るような気持ちになるのがいいホールだときいた。

NHKホールはまさしくそんなホールで、
パルコ劇場がグッと広くなったような感じ。
ここが、あの「紅白歌合戦」の舞台、
ライザ・ミネリをナマで見た所、と思ってもどうもピンとこない。

この日の3時すぎ、小雨の中楽屋に入った。
楽屋、といっても大きな会議室のようで
奥にはロッカーが立ち並んでいる。

モニターテレビにはキム・ヨンジャさんの姿。
バイオリニストの女性とのリハーサルがずっと続いている。
一回唄い終えるとバラバラとスタッフがかけ寄って
その中の一人はサッとペットボトルをさし出す。
ううむ、いかにもスターっぽいと感心する。

しばらくして私たちのリハーサル。
とりあえず一回通す。
と、思ったらもうこれでOKという。
キツネにつままれたよう。

前日全員でリハーサルをしていて本当によかった。
していなかったら、と思うと背筋が凍る。
結果がすべて。
テレビから流れるものがすべて。
どんな言い訳もできない。
「備えあれば、憂いなし」なのだった。

東京に住んでいると、もしかしたらパリやニューヨークが「近い」と
思ってしまいそうになる。
でも、そんなことは幻想なのだ、客席を見て思う。
地方から、わざわざ出かけてきたと思われる観客が
一生懸命手を振っている。
横目で一列に並んだ他の歌手のヒトたちを見ると
やっぱりにこやかに手を振っている。
皇室のヒトにも観音さまにもみえて、
「芸能」とか「奉納」とかいうコトバが浮かぶ。

そしてそれらの観客のうしろには、
ポッカリとした段々畑や、殺風景な国道脇の八百屋や、
濡れた石垣の漁師町や、錆びついた線路の残る遠い駅が見える。
パリでもニューヨークでもない、日本の街角。
そんなところに流れるものがきっと日本の「歌」なんだろう。
そして、そんなところに流れる「歌」を唄いたいと心から思う。

「歌謡コンサート」の放送終演後、アトラクションとして再びステージに立った。
「さとうきび畑を唄います」というと
アーとも、フーとも、感嘆とも、ため息ともつかない声がきこえた。
風に揺れる緑のさとうきび畑も、やはり日本の風景なのだった。

2003年6月11日

五時すぎの、まだ明るい宵の口、新橋の立ち呑み屋に向かう。
「クロワッサン」という雑誌の取材で
「アダムス」での撮影の後、あらかじめロケハンしてあった場所への移動だ。

立ち呑み屋といっても、一見カフェ風でなかなかおしゃれ。
奥に背広姿のサラリーマンがいる。
彼にも参加してもらい、三三五五集まるお客さんの中、
立ったままビールを飲むのを撮ってもらう。
仕事ではあっても夕方の生ビールは特においしく、ついグーッと飲んでしまう。
幸せ。

「クロワッサン」の方々は、みな気のいいヒトたちで、
打ち合わせで初めて会ったその日になぜか「打ち上げ」をしてしまった。
ウチはイチゲンの客は入れないの、というハチマキ姿の親父さんに引っぱられて入った
線路脇の鮨やは、
ついこの前までスナックだったらしく、カウンターが白い石張り、
そんなミョーな店内でみんなで酒を飲んだ。
それから一週間後のこの夜だったが
翌日はナマ番組出演もあるので後ろ髪を引かれながら早々に帰宅する。

「クロワッサン」といえば苦い思い出がある。
はじめてマネジメントしてくれることになった事務所の女社長に連れられ
行ったところが、赤坂プリンスホテル。
聞けばこれから取材だという。
「クロワッサン」の「情事特集」だという。
じょーじ、ジョージ、情事。
生まれて初めての取材インタヴュー。
カンもコツもわからない。
訳のわからぬまましゃべりつづけた。

アッと思った時にはもう遅かった。
できあがった記事は、親にも、その時いた夫にも見せられないモノになった。
そしてこれが人生最悪の仕事三つのうち、始めの一つになった。

ついでにいうともう一つは、それから二、三年後。
宝塚スターだった知人のコンサートにバックコーラスとして参加した時のこと。
バックコーラスというからにはハモらなくてはならない。
チョロイもんだと参加したものの、これがけっこうむずかしい。
自分の音がまったくとれない。
別のパートを唄う隣りの友人の脇腹を突ついた。
「私って、どの音?」
その友人はあきれながらも私の耳のそばで「その音」を出した。
「ウー」

うん、うん、わかったと思うものの、いざその場所に来ると、もう隣りの友人と
同じ音で唄っている。
終演後、その友人はソファに重く沈みながらうめくようにつぶやいた。
「私の人生最悪の仕事になった」
そして、これが私の人生最悪の仕事の二つ目になった。

そしてもうひとつ。
これは今年に入ってからのこと。
あるラジオ局に呼ばれた。
行ってみると、相手のキャスターがいない。
一人しゃべりだという。

それも二分ずつの一ヶ月分。
一週間にひとつテーマを決めて、それを五回で四回いきましょう、ハイ。
スラスラ説明されるが、もう目が点になっている。

大きな時計が目の前に置かれ、五、四、三、二、一!
「こんにちは!クミコです」
二時間程度で済むはずの収録は、
途中、うつろに目を上げボーッとしている私に、
「クミコさん、何考えてんですか」
「なあーんにも」
という状態で遅々として進まず、とうとう4時間にまで延びた。

こうしてできた収録テープが、火事か盗難にでもあって
この世から永遠に消えてくれることを切に願っていたが、
先日行った仙台で
「今月流れてましたよ、クミコさんのラジオエッセイ」

目の前がまっ暗になった。

2003年6月19日

「公園通りで会いましょう」の総合テレビでの再放送をみて
おどろいた。
落ちついてしゃべっていたつもりが、カラダがユラユラ揺れている。
不審者といわれても仕方がない。
一刻も早くその場を逃げたいというのが、明らかに見てとれる。

「銀巴里」で唄っていた頃、
たまたま外を通りかかったオトコ二人が入ってきた。
越路吹雪好きの一人が、もう一人の腕を引っぱったのだ。
「久しぶりだなぁ、入ってみようよ」
二人とも、まだ20才代後半、
それでも何の違和感もない、そんな時代の「銀巴里」だった。

そこで二人はボソボソしゃべっては、ユラユラ揺れている
ひんまがったようなオンナを見た。
「かわいそうに、カラダ悪いんだね、歌はいいのに」

その越路吹雪好きのオトコが、
今の事務所の代表、あるいは社長、あるいは支配人(茶目子劇場の)
である。

ヒトのめぐり合わせというのは不思議なものだ。
あの夜、「銀巴里」で唄っていなかったら。
あの夜、「銀巴里」を通らなかったら。

「めぐりあう時間たち」というアメリカ映画は
時を隔てた三人の女の一日を描いたものだった。
作家バージニア・ウルフとその作品「ダロウェイ夫人」を軸に
1923年、1951年、2001年と
舞台が入れ替わっては、それぞれの一日がつづられていく。

時代を超えたその三人の女は、同じように
生きることと死ぬことに向き合い悩んで戦っているのだった。
コチラ側からフカンで見る人生たちは、
彼女たちにとっては先の見えない、それこそ「一寸先は闇」なのだ。

誰に出会って、何を選んで、どう生きていくか。
これは壮大な「人生ゲーム」だ。
複雑に入り組んだ「あみだクジ」にも似ている。

やはり「銀巴里」で唄っていた時、
一緒にバンドをやろうと話しかけてきたオトコの、
破れたジーパンの隙間からのぞいた白い肌を見た途端、恋に落ち
それが夫と別れる一因になったことも、
今ではあらかじめ決められていたルートのように思える。

「公園通りで会いましょう」でご一緒した辛島さんは、
まだ少女の香りを残したヒトだった。
彼女の「東横線」という曲も、甘くほろ苦い恋の終わりの歌だった。

別れるオトコの指をじっと見つめるオンナ。
薄まってゆくアイスティのように、ただ無為に流れていく時間。

何も見ていなかったな、と思う。
別れの時、私は何も、見ていなかった。
オトコたちの指も、唇も、もう思い出せない。

2003年6月27日

ジェットコースターのような一週間ではあった。
いろいろなヒトに会い、いろいろな所で唄った。

今度のアルバムのアレンジをお願いする4人の方々、
倉田さん、ネコさん、朝川さん、島健さんと、
あわただしく打ち合わせをしたかと思うと、
日本テレビでナレーションの初体験。

大きなモニターテレビと、話し出すタイミングを示す赤いランプを
目の前に、大きなスタジオに一人きり。

いやあ、沖縄に行ってた時、ラジオから偶然流れてきたんですよ、
あの曲が。
パーソナリティーが、クミコさん、クミコさんて、慣れ慣れしくいってるから、
おい、早く苗字いえよって思ってたら、
「今日のゲストはクミコさんでした」って。
アレ?と思ってあわててネットで調べて。
この前、辛島さんとの番組で、朗読されてたでしょ。
もうこのヒトだって、決めちゃったんですよ。
あんな感じでぜひ。

ディレクター氏がフンフンと大きなカラダを揺らしてうれしそうにいう。
3時間後、汗をふきふき、でも無事終了。

「目がまわる」上條さんがうなる。
それほど、東京国際フォーラムAは大きかった。
NHKホールの1000人増しとは、到底思えない空間の大きさ。

翌日の「エイベックス株主総会」のアトラクションのためのリハーサルだ。
多勢のスタッフが、あれやこれやと動き回るのを見てもクラクラするのに、
誰もいない、広大な青白い客席には妖気さえ漂って、
ますますクラクラする。

出演者は全部で7組。
浜崎あゆみやら、hitomiやら、Do as infinityやらと、
ドル箱スターの中に、
まるで「エイベックス文化部」のように、私と、京胡のウー・ルーチンさんが
混じる。

「場違い」こんなコトバが浮かぶ。
「歌謡コンサート」もそんな感じがしたけれど、ここでも。
「場違い」が私の居場所のような気さえしてくる。

本番はそれでも、すさまじい気持ちの良さだった。
まるで、広い暗い海をどこまでも泳いでいるような。

弦カルとベースとピアノで3曲。
おっきな所っていいなあ、いい気持ちだなあ。
手も足も、もっともっとおっきくなっていくみたいだなあ。

こりゃあ、ヤミツキになるわと、終了後プハプハとビールを飲みながら
上條さんといい合う。
もしかしたら、人生最初で最後のフォーラムAかもね、と前置きはしておく。

次の日が「アダムス」。
5000人から50人。
カラダが伸び縮みしているようだ。

そして「仙台」で500人。
あいにくの雨の中、市のまん中からはちょっと離れた会場で
それこそ、はじめてのヒトばかりが来てくれる。

歌聴いて、こんなに感動したの初めてです、というコトバを聞きながら
サインをして握手をする。
「ありがとう」とお礼をいうが、それ以上にありがたくて、うれしくて、
でも、どうしていいかわからないので、
カラダがウズウズして線香花火の終わりの頃みたいになる。

戻った東京駅で途中下車し、同行した友人たちと、
ステーションホテルで、ビールを飲む。
ネンキの入った赤レンガの壁を見ながら、
私も東京駅みたいな、歌手になりたいと思う。
取り替えのきかない、古くて新しい唯一のモノ。

一生「場違い」でもいいから。