クミコオフィシャルサイト - Kumiko Official Site

クミコ - ココロの扉をたたくウタ

クミコ日記著作権表示

2002年9月6日

「CONTA」と名付けたパソコンがいなくなってから
かれこれ2週間になる。
修理代の上限を5万円としておいたが、
出てきた見積りは8万6千円あまり。
買い換えるよりは、まだマシかと結局そのまま
修理を続行してもらうことにする。
2年ぐらいしか使っていないというのに腹立たしい。

こんなに早くダメになる電化製品なんて他にあるんだろうか。
まったく今日びのキカイときたら、と憤慨するが、
修理に出した「ビックカメラ」の店舗は
ついこの間まで「小田急ハルク」だったところだ。
今も名前は「小田急ハルク」なのだろうが中味は「ビックカメラ」。
「ビックカメラ」になった「小田急ハルク」。
なさけない。

「デパ地下」にも「キカイ」にも興味がない私のようなニンゲンは
このまま時代の風にヒラヒラと干されるように生きていくしかないんだろう。

そういえば、この頃はコンタクトレンズをしたままでは
目の中に入ったゴミが取れなくなってきた。
近くで焦点が合わないということだから老眼の証明といえる。
目の奥の筋肉が弱ってきているのだろう。

カラダのあちこちの筋肉がどんどんユルくなってきていて、
お腹や背中やお尻くらいなら、
日々の訓練で何とかケアできるけれど
目の奥なんてもうお手上げだ。

でも、ホラここも、アラここもと、日々移ろいゆくカラダの変化を
感じることができるのは、
サミシイともいえるけれどタノシイともいえる。
買い換えのきかない、たったひとつのカラダだけで
経験できる年月の楽しみ方は、
たった一台のクルマを愛して、アチコチ直しながら
走らせることを趣味とするヒトと、どことなく
似ているかもしれない。

私のカラダもねえ、8万6千円で元に戻ればねえと、
思ってみたりもするけれど、
世の中には何十万、何百万とかけて
「元に戻す」ことをするヒトもいるのだから、タワイもない。

ヒトとして新品に近い「若いニンゲン」というのは、
大体ゴーマンにできていて、
その中でも「若いかわいいオンナの子」というのは、
電車の中、あたりはばかることなく化粧をしたりするのを見ても
とりわけゴーマンな生き物だ。
「我が世の春」なのだなあとつくづく思う。

昨日は立っている私の目の前2人、後ろに1人、の計3人が
鏡を持ち出していた。
「亡国」というコトバが浮かぶ。
「亡国」はなぜか「切腹」を思い出させ、
目の前の女の子といえば、太くそろえた眉が若武者のようでりりしい。

最近では「若くかわいい女の子」だけじゃなく、
「若いけどかわいくない女の子」や「あんまり若くない普通の女の子」も
セッセと車内化粧にはげんでいる。

でもヒトとして古くなってきたニンゲンも、
それはそれで別のゴーマンに移行していったりするので
ヒトはやはり哀しくおかしい生き物ということなのだろう。

「幽霊」の唄入れが3回目のチャレンジの末やっとできた。
当初の思わくとは違って始めから終わりまで「疾走」している。
いろんなことを考えれば、ここは押さえてとか、ここは優しくとか、
なす術はいくらでもあるのだろうが、
ただもう「疾走」してしまいたかった。
絡みついてくる、すべてのモノを振り払って走ってしまいたい、
99%の論理を1%の感情でくつがえしたい、
そんな気持ちだろうか。

ヒトが中古になっていって、いいことのひとつが、
自分が結局ナニモノでもないと気づくことだろうが、
その性能に難点の多い私などは
どうもすぐ有頂天になるくせがある。
自分が大したものに思えてしまうことがある。

そんなつまらない「うぬぼれ」や「有頂天」のくせのあるうちは
「うぬぼれ」や「有頂天」させる本当の幸運は決して起こらない。
これが神サマの私への思し召しであろうと考えるようになった。

りっぱな「中古ニンゲン」を目指し精進するのみである。

2002年9月18日

楽屋でよしなしごとをしているとコイズミさんの声が聞こえてきた。
隣の事務所でテレビをつけているらしい。
低くかたい声だ。
前の晩見た、ずらっと一列に並んだ核兵器ミサイルの夢を
思いだした。
「これら全部日本に向いてるんですよ。」
オトコの声がする。
夢の中でカラダがグラッとかたむいた。

「人生の交差点」
よくいった言葉だなあと思う。
いろんな人生がいろんな所で交差する。
ぶつかりあったり、すりぬけたり、肩をよせたり。

まさしくフランス映画みたいだけれど
「銀座かねまつ」の2階バルコニーに立って外を眺めた時
この言葉がまた浮かんだ。

若いヒト、年とったヒト、足早のヒト、立ち止まるヒト、
一人のヒト、二人のヒト、仲間たちのヒト、
下を向いているヒト、覗いているヒト、笑っているヒト、
手を振るヒト、指さすヒト、ネクタイをゆるめるヒト、
うなずくヒト、ペンキを塗るヒト、占いをするヒト、
宝クジを売るヒト、それを買うヒト、赤ちゃんを抱くヒト、
眼鏡を取り出すヒト、リンゴを売るヒト、それを買うヒト、
ケータイで話すヒト、ケータイで写真を撮るヒト。

向かいのビルにこっちのビルが映っている。
あっちこっちのビルにあっちこっちのビルが映っている。
斜め左のデパート「松坂屋」は「MATSUZAKAYA」に
なってはいても、やっぱり屋上にアドバルーンが似合う。

右斜めのビアホール「ライオン」はまわりだけを新しくしたのだったか。
ビルの上にある茶色い給水塔らしきものやら、窓枠やらが
一挙に私を、「舗道」を「ペイブメント」と書いた時代に
逆戻りさせる。

ちょうど正面の工事中のビルは、
初め「RAD」だったシャッターの文字が「PRADA」になった。

右隣りが「東京羊羹」。
「あたし、実は団子ズキなの。本気になれば10本は食べられちゃうかも。」
ピアノの上條さんが顔をしかめる。

銀座の大通りとビルの間に風が吹いて私の歌が流れていく。
毎回、エイヤッと背中を押されるように気合いを入れてはじめるステージ。
「清水の舞台」みたいでオカシイ。
ヒトと風と空気と空のエネルギーをもらいながら
3日間、12ステージが終わった。

楽屋のドアを開けるとまだ雨が降っていた。
前日忘れてきた傘を取りに行く。
「エイベックススタジオ」と「マンダラ」は
裏道を通れば目と鼻の先だ。

スタジオの青年たちはみな明るく礼儀正しい。
もしかしたら一生かかわることもなかったヒトや音楽を前に
テキパキと仕事をする。
私もそう。
まさかこういう状況になるとは思ってもいなかった。

コンサートの打ち上げ、依田会長が「一本じめ」をして下さった。
「クミコ軍団」のこれからを祝して。
同席している20人あまりのヒトの手が一斉に
パン!! と鳴った。

2002年9月25日

渋谷駅南口の歩道橋の途中でたたずんだ。
昔の東京にいるような気になった。
ここからの眺めは20年前とそんなに変わっていないように思う。
東急プラザも駅のまわりも、ほとんど同じ。

忙しい時には忙しいことが重なるもので、
アルバムレコーディングの真っ最中だというのに
もう一曲新たなレコーディングが飛び込んできた。
「わすれな歌」というタイの映画の主題歌。
今月30日にはすべてアップしなければいけないという。
歌詞もタイ語だし、メロディーもあやふやな状態だというのに
一体どうするのだ、という間もなく
とりあえず試写会に出かける。

どうやら「ユーロースペース」のあるビルらしい。
ここでは、以前「ゆきゆきて神軍」なるドキュメンタリー映画を
見た覚えがある。
その後何回か通った記憶もある。

たしか東欧映画だったと思う。
最初から最後までほとんど泣いていた。
別段悲しい話ではない。
のどかな、心優しい映画。
ただ、主人公の一人がいけなかった。
その直前に別れた夫に、あまりに風情が似ていた。
彼が出てきた途端「ウッ」とつまって、何をするのを見ても泣いていた。

あれから15年あまり。
この映画を今見ても多分泣いてしまうだろうと思う。
かげろうのように頼りない「明るさ」ほど「悲しい」ものはないと
年をとったぶんわかってしまった。
「悲しさ」はいろいろに増えていくものらしい。
油断していても、いなくても、どんどん種類が増えていくものらしい。

映画の題名にもなっている「わすれな歌」は
本来、兵隊に行ったオトコが故郷の恋人に向かって
「忘れないで」とひたすら唄う歌だ。
この曲を含めて1960年代のタイの流行歌が全編を流れる。

主人公は人生を「チョロいもんだ」と甘くみたオトコと、
そのオトコを待つオンナ。
アジア映画独特の湿度が、
アジアのくせにアジアを離れたい日本人のカラダに
ねとねとからみつく。
バンコクの暑さがよみがえる。

この歌を「田植歌みたい」と評した賢作さんが
新しいアレンジで「ダル」な都会的要素を加えた。
これからは私の仕事。
詞を作って唄う。
レコーディングは明後日。
クラクラする。

古い歩道橋は、あちこちがぶよぶよしている。
冗談のようにぶよぶよして、揺れている。
数日前から痛めた膝のせいで手すりにつかまりながら、
さっき見た映画のノーテンキな主人公が、
苦労の末やっとこさオンナの元に戻った時、
片足を引きずっていたのを思い出した。

私も痛んでるんだろうかと思った。
情けなくて、でもちょっと気持ちがよかった。