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クミコ - ココロの扉をたたくウタ

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2001年8月7日

灼熱の東京を逃げだしたかった。

旭川の空港に立つと気温16度に雨。
いくら何でも寒すぎる。
ピアノの上條さんの故郷、旭川で
上條夫妻と宴会していると、東京にいる気がしてくる。
が、ふるえながら飲む黒生ビールはやはりおいしい。

翌日、去年に引き続きサッポロビール園に行く。
こうなると年中行事のよう。
できたての黒生ビールは、さすがにもっとおいしい。

そのまた翌日、大通り公園に特設された
ビール会社4社が競うビアガーデンで
風に吹かれながら、また黒生ビールを飲む。
まずい。注ぎ方がザツだ。

「イッショー、イッショにイテクレヤ」
ここのところ耳にこびりついて離れない唄を
DJのオトコのコが自分でもうたいながらかけている。
「いやあ、これはサイコーのアイの唄ですねー。
自分もこんなこといってみたいなー。」
そのDJは、コーフンしたようにしゃべりつづける。

イッショーったって、あんた、そりゃ長いもんでっせ。
棒みたいな少年の足だって、いつのまにか
太くてナマッチロイおじさん足に変っちゃうし、
小生意気にとんがった少女の唇だって
そのうち、あきらめ下がりのおばさん唇に変っちゃう、
でも、まあ、こんなネットリムッチリ迫られりゃ
それはそれでいいかって気にもなる、
オトコとオンナに温度と湿度は重要ってことね、
と黒生ビールでマヒしたアタマで納得する。
ワケがわからない。

小樽にも行く。
これで三度目。
はじめて「オルゴールの館」に入る。

オルゴールを見るたび「トロイメライ」を探すのが
クセになっている。
昔はよくあった曲なのに、今は見つけるのも大変だ。
今年は「TSUNAMI」なんてのもある。

世界で何千台だかしかないという、高価なオルゴールは
ショスタコヴィッチの「ワルツ」。
これにはビックリ。
勝手にさわってもいけない。
結局、聞けずじまい。
「トロイメライ」を店の人に調べてもらうと、特注になるという。

大学の卒業式も出られなかった私は、
小学校の入学式にも出ていない。
ちょうど入学前の春休み、
肋膜炎で入院してしまっていた。

微熱がつづいて、背中が痛いのを、
近くの医者は、このオシッコの茶色いのが薄くなったら
治りますと診断した。
一向によくならないまま、祖父の葬式に帰った水戸で
ヒトにすすめられ、評判のいい医者に行った。
トントンと触診するなり、医者はすぐに入院といった。
背中から大量の水を抜きとられた。
危機一髪。
おじいちゃんが死んで助けてくれたんだね、
みんながいった。
そんな気がした。

寝たきりの私に添い寝しながら父は唄をうたってくれた。
いつもおんなじ唄。
「カッテークルゾとイサマシクー」
軍歌というものだと後で知った。
「マーブターにウーカブー、ハタのナミー」
灰色の海の中、一本の旗が立っていて、
そのまわりを波が静かに揺れるように動いている。
ある時、この光景を父親に話すと、それは違うという。
「これはね、戦争に行くヒトを送るみんなの振る旗が
まるで波のように見えるってことなんだよ。」
説明されても子供にはちっともわからない。
そして、今でもこの唄をきくと、
灰色の海の中の一本の旗が、
それこそ「マブタにウカブ」のだ。

テレビもラジオもない長い入院。
親戚のおばさんがオルゴールを家から持ってきてくれた。
イトコのものらしい。

テレビもラジオもない長い入院。
親戚のおばさんがオルゴールを家から持ってきてくれた。
イトコのものらしい。

退院してからずいぶん長い間
「ララーララララララー」
このはじめにスッと上に上がるメロディーを
何かの時に聞いたりすると、
カラダがしびれるように、息が止まるように、
涙があふれるように、ドキドキした。
口ずさんだりすると、天国が近くなっていくようで
もっとドキドキする。

ようやく落ち着いて「トロイメライ」のオルゴールを
ほしいと思ったときには手に入らない。
何の変哲もない小箱から流れるメロディーを聞いてから
もう40年あまり。

イッショーって、短い。

2001年8月14日

屋上ビアガーデンに行ったのは10年ぶり位だろうか。

いかにも安っぽいイスとテーヴルと人工芝生とネオン。
何も変っていない。
夕暮れから夜にかわる湿った風を受け
黒生ビールを飲んでいると、
昔の東京のヒトになった気がする。

まわりを見渡すと新宿高層ビルが
建ち並んでいるのだけれど、
この古いデパートの屋上には、
たしかに昔の風が吹いている。

4人づれのオトコのコたちがやってくる。
20代くらいだろう。
その横に、やっぱり4人づれのオジサンがやってくる。
40代くらいか。
そして、後ろを振り返ると、
そこには4人づれのオジイサンたちが。
60代くらい。
ヒトの一生の移り変わりを見ているようだ。
小津の映画のワンシーンのようでもある。

何と言う題名の映画だったか、
戦争から帰ってきた、いわゆる「戦友」たちが
みんなで宴会をする場面がある。
ついこの間までしていた戦争の名残りは
東京の街のいたるところにあって
そんな中でオトコたちは手拍子で唄をうたう。
ふしぎなくり返しのあるその唄を
何の唄だか調べようとしているうち時がすぎた。
気がかりな唄のひとつだ。

やっぱり小津の「東京の合唱」という戦前の映画でも
オトコたちは唄をうたう。
暗い不景気の時代の波に逆らうように
木のテーヴルを囲んで立ったまま唄う。
これも何の唄だったか。

ビアガーデンの風景はすっかり私の眼に、
モノクロームとして映っている。
着古したシャツみたいなハワイアンが流れ、
設置されたテレビには巨人戦が映る。

「年寄りが多いねえ」友人がいう。
そういえばそうだ。
老夫婦もいる。
きっとみんな若い頃からビアガーデンに馴じんできたのだろう。
その頃のOLとサラリーマンかもしれないし、
登山帰りの大荷物の中、みんなで乾杯したのかもしれない。

私が子供だった頃、若者の流行だった「登山」に
そういえば私の叔母もよく行っていた。
戦後の元気な働くオンナだった彼女も
今はつらい病気と戦うトシになっている。
アッという間だ。

大中合わせ6杯あまり飲んだ黒生ビールの勢いで
そのまま新宿西口の路地を歩く。
お盆休みのせいか、開いている店は少ない。
以前、酔っ払って、一晩で二回転げ落ちた
魔の階段のあるジャズバーも閉まっている。
再開発を拒んでいるような、
ゴミゴミしたこの一帯は新宿の街の最後のトリデだ。

きれいもいいけど、きたないもいい。
きれいも正しいけど、きたないも正しい。
フラフラしながら、しばらく行ってなかったバーに入ると
ナニジンだかわからないヒトの店になっている。
出てきたカクテルもナンなのかさっぱりわからない。

酩酊状態で家にたどりつくと
小泉さんが今日、靖国参拝をすませたという。
ふと、あの大鳥居によりかかって
夜中、キスをしていたことを思いだした。

2001年8月21日

台風が近づいているらしい。

昔、「台風一家」というドラマがあって、
「台風一過」にかけているのだろうが、確かテレビも白黒だった。
その一家の大黒柱が「笠置シヅ子」
大阪のコテコテバリバリの元気なオバチャンを
面白おかしくパワフルに演じていた。

その頃「カネヨンでっせ」というコマーシャルにも出ていて
エプロンと洗剤とクルクルパーマとガハハと笑う大きな口、
そんなこんなで
このヒトは生粋の大阪の喜劇女優なのだと思っていた。

その頃「カネヨンでっせ」というコマーシャルにも出ていて
エプロンと洗剤とクルクルパーマとガハハと笑う大きな口、
そんなこんなで
このヒトは生粋の大阪の喜劇女優なのだと思っていた。

「もう全然唄わなくなっちゃったわねぇ。」
「唄えない」のではなく「唄わない」そんな感じに聞こえた。
モノの形が光線の具合で七色にふちどられるように、
このヒトの笑顔のまわりに謎の重なりができた。
このあけっぴろげで明るい笑顔の裏に何かある。

新宿のホモバーで飲んでいたら、妙な音が流れ始めた。
メチャクチャな歌詞がブギのリズムに乗っかっている。
唄い方も破天荒。
眠りかけていたアタマを直撃する。

「誰、これ。」と聞くと差し出されたのが「笠置シヅ子」
その時流れていたのが「私の猛獣狩り」
20年近く前のことだ。

それから、この「私の猛獣狩り」を必死で覚えた。
「銀座カンカン娘」の映画も観にいった。
焼ける前の京橋のフィルムセンターだったと思う。
映画の中で若い笠置シヅ子が確かに唄って踊っている。

あのこかわいや、カンカンむーすめー。
赤いブラウス、サンダルはーいてー。

早速、替え歌を作った。
モアモア娘やらジェイジェイ娘やらキャンキャン娘ができた。
これを無謀にも「銀巴里」で唄ったらウケた。
「どうして銀座に丸井がないのよ」という
オチがきいたのだろう。
キャラクターブランドばかり買いまくるオンナのコが
最後につぶやくコトバ。

「丸井」が銀座にできたら唄えないなぁと思っていたら
それより早く唄えない唄になってしまっていた。
「銀巴里」は消え、銀座は夜10時を過ぎてもタクシーが拾える街になった。
「丸井」より「時代」の方が早かった。

笠置シヅ子は人気絶頂の頃、前座に「美空ひばり」を使った。
「クワれる」かたちになった彼女は、
それから間もなく唄をやめてしまったらしい。

その美空ひばりの「最後の絶唱25曲」というビデオを買った。
亡くなる年のお正月にテレビで放映されたものだ。
動き回ることもなく、じっと同じ位置で
眼に哀しい光をたたえたまま唄っている。
マイクに巻いたハンカチが包帯のように痛々しい。

「悲しい酒」と「一人寝の子守唄」と
交互に構成して唄った時、ハッとした。

一人で寝る時はよー。

ルルルルルルルルルー。

突然スキャットになった。
それはあらかじめ決められていたようにも見えたけれど
よくみると、スキャットに移る瞬間、
彼女は眼をウロッとさせ、それからちょっと下を向いた。

忘れちゃったんだ、きっと。

元気な時ならすぐに録り直しをしただろうが
もう彼女にそんな余力はないようだった。

それよりもっと驚いたのは
そんなツラい状況の中で
十八番中の十八番「悲しい酒」のセリフを省き
ふだん唄っていない「一人寝の子守唄」を入れていたこと。
「ああ、未練なのねぇ」
このセリフの途中から必ず涙を流し
なだれ込むように最後のコーラスへ持っていく。
このシーンはいつ見ても、とても悲しいけれど
それだから、イヤだというものでもあった。

この時、美空ひばりは涙を流さず
新しい挑戦をしていた。
そして、これが最後の「悲しい酒」

台風状況を知るためテレビをつけると羽田空港。
両手と背中におっきな荷物をもったオトコのヒトの後ろを
オンナのヒトがショルダーバッグで歩いていく。

ヒトそれぞれの荷物は重い。
かわってあげることは多分、できない。

2001年8月28日

クミコさんの「乙女のワルツ」のことが書いてあると、
友人がコピーを見せてくれた。
演出家で作家の久世光彦さんが
その著書「マイ・ラスト・ソング II」で
「円舞曲(ワルツ)」を取り上げ、その最後にたしかに私が登場している。

「純愛のワルツが頽廃のワルツに姿を変え、
そして、そのうち死にたくなる。」

それにしても私はなぜこの唄が好きなのだろう。
昨夜久しぶりに唄ってみた。

ヒトがヒトを想いつめる唄。
道端の白い花に願いをかけ、
旅立つオトコを駅のホームのはずれからじっと見つめる。
「好き」といえばすむことを、このオンナはいわない。
「好き」といわない限り、物事は始まらないのだが
始まることを拒むように、始まってしまったら困るように
じっと胸に秘めたまま、
一つの恋を終わらせてしまう。
オトコが旅立つ列車に、自分の恋も一緒に乗せて。

埋められない距離、埋めたいけど埋めたくない距離。
ヒトがヒトを想う切なさは、一筋縄ではいかない。
手を変え品を変え、やって来る切なさは、
ヒトの気持ちを、それこそアザナエル縄のように
年を重ねるごとに、複雑にしていく。

「円舞曲(ワルツ)」という曲を唄った、ちあきなおみは
もう唄をうたわない。
唄いたいヒトと唄わせたいヒトは違うのだなぁ、
つくづく思う。
唄いたいヒトは世の中にゴマンといるが、
本当に唄ってほしいヒトは唄わなかったりする。

だいぶ前、新宿の厚生年金ホールの二階のすみっこで
ちあきなおみを聞いた。
いわゆる「歌謡歌手」のコンサートに行くのは初めて。
一人でトコトコ出かけた。
ちっちゃくしか見えないのに、くっきり唄が届く。
ちあきなおみというヒトが届く。
タダモノではない。

次にグローブ座の芝居じかけのコンサートに出かけた。
途中マイクが故障するというハプニング。
登場人物も多く、仕掛けもある大がかりな虚構の中
彼女は困ったように「フフ」と笑った。
「ちあきなおみ」になっている。
みんなが緊張して困っている中、
一番困っているはずのこのヒトは、本当はちっとも困っていない、
そんな気がした。

幸いマイクはすぐに復活し、何事もなかったように
芝居はすすんでいった。
ヒトの唄で泣くことは、そんなにないがこの時は泣いた。
このヒトが唄うと劇場中の湿度が上がる。
しぼればポタポタ落ちるほど「情感」がつまっている。
こんな唄は初めてだった。
「情感」を入れこんでも入れこんでも
決して下品にならず、リンとしている。

このヒトは一体どういうヒトなのだろう。

その後、ダンナさんが病気で倒れ、
その看病を必死にしているとつたえられた。
しばらくしてダンナさんは亡くなり、
ちあきなおみも一緒に、この世から消えるように
唄をやめてしまった。

こういうヒトだったのだ。

「なんにもなくなっても、ホラ、あなたには唄があるじゃない」
というヒトじゃなかった。
人生にとって一番大切なのはアイするヒトだけ。

本当にそうなのかもしれない。
だから「中年歌手」になった私は、
今でも「少女歌手」の「乙女のワルツ」を唄う時はやっぱり切ない。
ヒトがヒトを想う切なさにボーゼンとする。
駅のホームのはずれから、そっと別れをいって、
それで愛が哀しく消えてしまう「乙女のワルツ」は
私の今の「純愛」。

「純愛」を唄っているつもりが「頽廃」に
聞こえてしまうのは、
それこそ年の功といばってみるしかない。