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クミコ - ココロの扉をたたくウタ

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2004年7月2日

「イヌに迷惑な話」

おばあさんに引かれた「おじいさんイヌ」だか「おばあさんイヌ」だかの柴犬が、道のまん中で止まってしまった。その脇をモップみたいなミニチュアダックスが通りかかり、老犬を見るとシッポを振った。ちょっと行った所ではシベリアンハスキーとシーズーが同じ飼い主につき従い、またその先ではトイプードルが黒いラブラドールレトリバーに突っかかっている。

そんな光景を見るたび不思議でならなかった。どうしてあのイヌたちは、お互いがおんなじ「イヌ」だとわかるのだろう。あんなに形態が違っていて、あるものはネコより小さかったり、仔牛ほどもあったり。

これをヒトにあてはめればエラいことだ。全身が黒い長毛でおおわれた、鼻のひどくとんがったヒトや、まったく毛のない耳の折れまがったヒトや、シワだらけでどこに目があるのかわからないヒトや、立つと十メートルもあるヒトや、その膝小僧ほどのヒト…。

これで果たしてヒトは「ヒト」を認識できるものだろうか。イヌのように鋭い嗅覚もないというのに。

ところが、どうやらここでヒトを助けるのが「言葉」であるらしい。まったく違う「言葉」ではあっても、それを使うのは「ヒト」でしかないらしい。十メートルのヒトと、その膝小僧ほどのヒトが、たとえ違う言葉を話していたとしても、それを理解しようとすることこそが「ヒト」であることらしい。

今、世界で起きている、違う肌の色、違う文化、違う宗教の間で起こる戦いは、それだからムナシイ。そのくらいの「違い」で相手を殺してしまおうというのは、もうヒトがヒトを認識できなくなっている、わからなくなっている証明かもしれない。そこに「言葉」はない。

「うちの子、自分がイヌだと思っていないのよ」とは、よく聞く話だが、イヌにとっては迷惑というものだ。ヒトなんかと一緒にされてたまるか、そう思っているはずだから。

2004年7月16日

「寒い!」

「歌い手」としてはヒマな人生を送ってきた。そのツケがまわったというのか、ここのところひどく忙しい。いわゆる「移動」も多い。もうすぐ50歳を迎えようとする身にはこれがけっこうこたえる。

今の時期、怖ろしく、また辛いのは何といっても「列車」である。

寒い。例外なく寒い。外が暑くなればなるほど寒い。親の敵のように寒い。

30分くらいの近場ならともかく東京から大阪までなど、何時間ものあいだ冷気と格闘する、それだけでクタクタになる。土気色の顔でホームに降り立つと猛然と怒りがこみあげてくる。一体、車内温度は誰のためのものなのだ。誰を基準にしているのだ、と引いているキャリーバックをボンと蹴ってしまったりする。できることならそのまま投げつけてしまいたいが、それではこっちが後で困る。これ以上悔しい思いはしたくない。

「しのぐ」とはよくいったコトバだと思う。 襲い来る冷気にジッと息をひそめ、ノドに負担をかけぬようハンカチで口を覆い、シート深く縮こまるように身を沈める。
つくづく「しのいで」いるなあと思う。

「乗車券、拝見いたします」、乗務員の丁寧さも、このごに及んではただただ腹立たしい。 この愛想の良さは「しのぐ」身には火に油である。 こんなのがサービスっていうのか、ほんとのサービスってのは快適な車内環境なんだよ、夏にホッカイロを持たなくてもいいフツーに息のできる車内温度を作ることなんだよ、わかってんのかテメエ、と急にガラの悪いオバサンになっている。

今、私は大阪で乗り換えて一時間、山に向かう列車の中で「しのぎ」ながらこれを書いているのだが、夜には夜で「夜行列車」という“未知との遭遇”が待っている。
一体どうなることやら、コトのテン末を書きたい気もするが、それまで果たして無事でいられるかどうか。こんなのアリか、クソーッ。

2004年7月30日

「真っ赤な爪」

トシのせいかミョーなことが引っかかる。「冬のソナタ」を見ていても、ヒロインのお母さんは、なぜいつも家の中でアンサンブルを着ているのだろうとか、ヒーローのお母さんは、入院している時もなぜ口紅が真っ赤なのだろうとか、恋敵のお母さんの顔、その昔流行った整形の典型的スタイルだとか、お母さんカンケイでもこれだけあるのだから、毎回飽きるということがない。

先だって、30年ほど前の映画「追憶」をテレビで放送していたので、あの頃感涙にむせんだ懐かしさもあってチャンネルを合わせた。若き日のロバート・レッドフォードとバーブラ・ストライザンドのラヴストーリーは「第二次世界大戦」や「赤狩り」をはさんで切なく展開していく。

ふと、ミョーなことが引っかかった。 バーブラの爪である。ボンヤリみていたのでいつからそうなのかは判然としないのだが、手入れの行き届いた真っ赤な爪は、指先よりはるかに長くとがっている。政治に目覚めた「活動家」のオンナという設定にしては、どうも不似合いな気がする。 そしてその赤い爪に気づいてからは、もう目が離せない。愛する男の背に回す時はもちろんだが、声高にスピーチする時も、出産のため入院しているベッドの中でさえ、いつもおんなじカットのおんなじ赤。バーブラという女優を持て余す監督の姿さえ浮かんできて、もう何を見てんだかわからない。

赤い爪で思い出すのが越路吹雪。バーブラの爪にも似たクッタクのない赤い爪でマイクを握る姿は艶やかで華やかだった。今のようなマット感もパール感もない、ただただキラキラと光るその爪は「時代」を映すようにまぶしい。

今月28日、その越路吹雪が唄い踊った、60年代や70年代に想いを寄せたカバーアルバムを出した。タイトルは「イカルスの星」。ジャケット写真で赤いドレスを着た私の爪はというと、これがスッピンのように無色なのである。