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クミコ - ココロの扉をたたくウタ

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2005年5月7日

「“クミコ”が気になる」

「ミセスクミコ」という名のアジサイがあるらしいと聞いた。ホントかなあと思って歩いていると、近くの花屋の店先にピンクとオレンジがほどよく混じり合った大きなアジサイの鉢が置いてある。 あまりの見事さに近寄り名札を見ると「ミセスクミコ」。

それからアジサイが気になって仕方がない。これまでこの花は私にとって一番キライな花だった。一年中で一番イヤな季節「梅雨」の到来を知らせる花、みんなで仲良く楽しくやっているのに、その人が来ると何だかすっかり面白くなくなってしまう、という類の人のような花、ややこしいが、まあそういったもんだと思っていた。

よりによってそんな花に自分と同じ名前が、でもミセスがついているからなあと、安心していたのだったが、先だってデパートの花屋で見つけたアジサイには「クミコ」とだけ書いてある。それも初めに見た美しいものとは天と地ほどのみすぼらしさ。ああ、こんな姿になってしまって、きっと水遣りや場所が悪いに違いない、管理に問題がある、かわいそうにと、もう他人事ではなくなってしまっている。それ以後は、日々色あせていくこの花が気になって、どうしてもその店先を通ってしまう。もうこれじゃ売れないなあ、とあきらめた日はさみしかった。それにしてもアジサイが、こんな風に自分の人生と関わってくるとは想像もしなかった。

そうこうするうち今度は「クミコの幸せ」というお菓子があるらしいと聞いた。ほうっておける名前でもないので、早速調べてみると、ある。梅をベースにした「グミ」らしい。なるほど、父も母も梅で有名な水戸の出身だしと、不可解な納得。

たかだか名前ごときでと思うのだが、これも斉藤久美子、高橋久美子、高橋クミコ、クミコと、まるで魚のように変遷してきた「唄い手人生」と、それに関わる様々な人への想い出のなせるワザ、とでもいうべきものかもしれない。

2005年5月21日

「ヘコタレナイ」

コンサートにおける「失敗」、いいかえれば「失敗」とされるコンサートというのは、大体においてそんなには、ない。一応プロたるもの体調が悪くても失恋しても、それなりに何とかまとめ、まあ、そんなに良くはなかったけど悪くもなかったとか、思ってたより面白くなかったとか、このあたりが限界かもねこの人は、とかせいぜいこの位の評価をお客様からいただく程度であろう。

ところがどうみても「失敗」とされるコンサートをしてしまった。オイオイそんなこと自分からいってどうする、とオロオロする人達の顔も浮かぶが、これは「失敗」といい切らないとどうにもならない。前に進めない。それに、歌詞やトークが聴きとれなかったコンサートを「失敗」といわずして何と呼ぶのか。

先月末、有名なクラシックホールでのコンサートには実に2千人近いお客様が来て下さった。これまた有名なオーケストラからの20名余りの方々の響きに乗せて、まるで天国にいるかのような至福の時を、そのお客様方に提供するはずだった。自身もまた、不慣れなクラシックスタイルの中で格調高く、ああやっぱりクミコさんの歌は弦楽器にピッタリね、などと称賛されるべく努力したつもりだった。そしてすべては一年以上も前からの大切な大切な企画だった。

こうして「だった」は延々とため息のように続くのだが、今回、自分の力だけではどうにもならない「失敗」があることを知った。そして責任の所在を追及することがどれだけむずかしいかも知った。色々な要因が複雑にからみ合った「失敗」は、たとえば戦争の原因と責任にも似てモノゴトの成り立ちのむずかしさを教えてくれた。

「悔し涙」を初めて経験した私だが、ここはこのところ登場の機会のなかった座右の銘にまた出てきてもらおう。「ヘコタレナイ」。 こういうことです。