クミコオフィシャルサイト - Kumiko Official Site

クミコ - ココロの扉をたたくウタ

茶目子のつれづれ著作権表示

2005年8月13日

「根なし草」

セミが一匹、ジジジーと鳴いてピタリと止まった。私の住む場所では夏のセミもせいぜいがこのくらいのものなのだろう。

夫がいた頃は、夏休みのたび夫の生まれた家に帰っていた。神戸の異人館の立ち並ぶファッショナブルな街、ところが朝の5時になるとジンジンジンと爆発するようなセミの鳴き声で飛び起きた。本当に待ってましたとばかり一斉に鳴き始める。セミは庭の木のどこにでもいるようだった。セミが木になっているようだった。

夫の家は戦前に建てられたもので、重厚な木造のその二階は、夜になっても一向に温度が下がらない。夫の部屋だったという一室でそれこそ汗の中、ほとんど眠れず迎えた朝のセミの鳴き声は、ひ弱な私を笑っているようだ。隣にいる夫は東京と同じようにぐっすりと眠り込み、その姿に呆然としていた私も翌日にはたくましく眠ってしまっていた。前夜洗って手で絞っただけの下着がカラカラに乾いて揺れている。

という訳で、その家にクーラーというものはなかった。開け放たれた窓や縁側から風が通り抜けるだけ。庭に面したおばあちゃんの部屋からは、毎晩聖書に関するラジオが静かに流れ、セミの鳴く頃はもう祈りの時になっているようだった。違う場所の違う生活、夫のせいでそれを経験できたことは幸せだった。なるほど、こういうのを地に足が着いた生活というのだと思った。

私はといえば、若い頃地方から東京へ出てきた両親の下あちこちと居を移しながら育ち、いつのまにか根なし草の感覚を持つようになっていた。どこの地にも足が着いていない。どこにいても「仮」という気がする。あげくは人生そのものが「仮モノ」と思えてくる。

震災があった翌年、夫だった人の家の前に立った。石の塀が少し崩れていたものの家はしっかりとそこにあった。深く一礼した。

2005年8月27日

「ウソの中のマコト」

試写会はこわい。特にその映画についての文章を後日寄せねばならないなどという時はなおさらだ。ギリギリにトイレに行っても、上映後しばらくするともうナンダカという不安な感じになってくる。ワンシーンとて見逃してはならぬと思えば思うほど益々不安になってくる。試写会場が小さい特殊な場所であればもうそれは「監禁」といった趣で緊張は一気に高まる。

そこへいくと、先だっての新聞販売店のサービスによる上映会などは気楽なものだった。真夏の昼下がり、三々五々集まってくるお客さんで大きなホールは一杯だ。北海道開拓をテーマとした内容のせいか年齢層も高め。ところが始まってみると色が変だ。全体がくすんだトウキビ色をしている。 音も悪い。ワンワンしていて、響きのある男優の声など何いっているんだかわかりにくい。でもまあタダだからねと、それぞれが納得するうち物語は進んでいった。

どうも大作らしいとは知っていた。これだけの俳優を集めて大作でなければ困るだろうと思っていた。そしてそれは確かに大作のようではあった。二時間半余りの間、時々は目頭が熱くなったり、北海道に住む友人を思い尊敬したり。が、終盤に近づくにつれどんどん居心地が悪くなってくる。お尻がムズムズしてくる。主人公の母と娘が手を取り合い大空にむかい「希望」といった時には、正直逃げ出したくなっていた。

これって何かに似てる。昔よくあったプロレタリア風芝居、あるいはなぜか偶然が重なって大団円を迎える二時間テレビドラマ。西日の当たる帰り道、表現することの難しさを思った。言葉は悪いが、歌も映画も芝居もしょせんは虚構(ウソ)、だましてナンボってやつなんだろう。ウソの中でどれだけホントを見せられるかが勝負。そのウソがバレるほど居心地の悪い不幸はない。演者にとってもお客にとっても。自戒。