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2007年7月14日

「定食屋で人生勉強」

先回、食べ物のことを書いたが今回もまた。というのは、行きつけの店ができたからで。それは「定食屋」。日本の正しいご飯を、と書かれた看板がかかる、まあ、焼魚とかヒジキとか切干大根とか、そんなものを食せる店だ。

駅近くのその店は、ついこの前まで「ジンギスカン屋」だった。メディアにもけっこう取り上げられ、店内にテレビカメラが入っていることもあった。

ところがある日突然「定食屋」になった。いわゆる「居抜き」。内装はほぼそのままで、ということは、やけに大きい排煙ダクトが店の真ん中にぶら下がっていたりするが、慣れてしまえばどうということもない。カウンターに座ると奥に七輪が山積みされているが、それらも、羊から魚に焼くものが変わっただけで、私ら別におんなじですからといわんばかり。なんということもない。

ご飯は白米と六穀米から選べる。私はもちろん六穀米だが、こんなもん今時の若い人は食べないだろうと思っていると、若い人ほど六穀米、メタボオジサンは白米というチョイスだったりする。なあるほど、と社会勉強をした気になる。

それにしても、あんなに流行ったジンギスカン屋から何で定食屋にと、経営者らしいオジサンを盗み見る。何回通ってもお愛想ひとついわず、ありがとうございますの上に「毎度」もつけない不愛想このうえないソッケナサ。このあたりにどうやら何かしらの秘密がありそうだ。そしてもうひとつ、音楽。

店に流れるのは、決まって七〇年代の洋楽。アバとかシュープリームスとか。ダイアナ・ロスの変に甘ったるい声を聴きながら、アジの開きをかじると、あの時代の空気と自分自身の来し方、ここのオジサンの来し方が、だぶってあぶり出されてくる。

定食屋で人生勉強をする。こんなオイシイことはない。

2007年7月28日

「大きい人たち」

これまで誰と会ったとか、誰と握手したとか、そんな話をしていて、誰からも必ず目を丸くされるのが、あの「オシム監督」だ。シャンソン歌手とサッカー監督が、あまりに突拍子もないつながりだからか、ただ驚かれる。絶句される。

「死ぬ時はサラエボと決めている」。そのオシム監督の言葉に、胸の奥がジンと熱くなった。平和の祭典、冬季オリンピックさえ開催されたサラエボ、その後の過酷な内戦、今でも弾痕が残る建物のある街。オシム監督に引きあわせてくれたのが、同じサラエボ出身で国民的歌手でもあったヤドランカさんだ。

日本に滞在中内戦が始まり、そのままこの国で活動を続けている。私を「イモート」と呼んでくれる大切な大切な友人。そのヤドランカさんは画家でもあって、ある時個展を開いた。夜にはそこでライブもするという。本来ならただ楽しい気持ちで赴いたはずが、あろうことか直前にヤドランカさんは故国で二人の妹を失くしていた。どうしたらいいのかオロオロする気持ちで、共通の友人、作曲家の渡辺俊幸さんと出かけた。

ドキドキしながら始まりを待つ。現れたヤドランカさんは、やはり少しやつれ、でも軽い冗談をいいながら唄い始めた。柔らかく優しく深いその声は、より一層柔らかく優しく深い。泣いているのは私たちだった。私と四つしか違わないヤドランカさんは、いろんなものを失って唄っているのだった。「力が抜けて這うような」地獄を見て唄っているのだった。

五十人ほどのその会場では、大使館の人を始め同胞たちが心を寄せ合うようにヤドランカさんの歌を聴いていた。その一人、オシム監督。その手はとてつもなく大きく厚く、まるであったかいグローブのようだった。ヤドランカさんの国の人たちは、みんな大きい。大きい哀しみと苦しみを越えた人たちだから、なお大きい。誇り高く大きい。