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クミコ - ココロの扉をたたくウタ

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2006年8月12日

「なぜ戦うのか」

遠くレバノンとイスラエルの間では、無差別な攻撃がつづいている。アメリカという大国を背景にしたイスラエルは、あくまで強気だ。

先だってのボクシング試合の判定をめぐり世の中がもめている。この正否はともかく、物事を快・不快でとらえるとすれば、あの青年が、彼のいう「ブサイクな試合」をしてくれてよかった。でなければ、パフォーマンスと称する、その不快な言動行動を、マスメディアがどれだけ許し、持ち上げたかと思うとゾッとする。

強けりゃいいんだろう、強けりゃ。確かに強くなくちゃどうにもならないスポーツ、ハングリーという、今では死語になってしまったような精神を一番必要とされるボクシングというスポーツ。

私は青年の家族のことに興味がないので知らないが、その「家族愛」が人気であるらしく、だから青年がリング上で「オヤジ」と呼び抱き合う姿が、とても不思議なものに見えた。それまでライオンだったものが急にネコに代わってしまったような。そして、まだ幼顔の残る青年の向こう側に、見覚えのあるヤツが透けてみえた。

「小さな者」が「大きな者」に取り込まれていく、あるいは「個人」がいつのまにか消え「大義」に寄りかかっていく構図。他人にはどんな無礼もする者が、その存在の後ろ盾としているもの。それはあるときは「会社」であったり「組」であったり「天皇」であったり「宗教」であったり。

青年はまだ若い。昨日までアメだったものがムチに、いともたやすく変わる世の中で、何が揺るぎないものなのか。何のために戦うのか考えればいい。

人は愛するもののために戦う。愛するもののために強くなる。でも戦う相手もまったく同じなのだ。燃えさかる戦火を見て思った。「強さ」って何なんだろう。

2006年8月26日

「人生の定点観測」

高校野球が終わると夏も終わり、毎年そんな感じになる。これは誰しも思うことらしく、もう夏の決まり事といってもいい。

とはいうものの、食い入るようにテレビ観戦していたのは学生時代、それも選手たちと同年代位までで、それ以後はよほどのことがない限り見ることもなくなった。

37年前、決勝の再試合という前代未聞のでき事があったときの興奮は、今でも鮮やかに思いだせる。美しい太田投手に胸をドキドキさせ、大体がそうであるように、心を寄せる方が負けてしまい悲嘆にくれたあの日。涙をふいて翌日出かけた学校の朝礼で、校長先生は異例の訓示をした。

昨日の試合のねばり強さを見習い、皆さんもこれからの受験の云々、といったものだったが、普段何のかかわりもない校長先生の口から、選手たちの名前が飛び出すのがとても不思議で、ああ、この人も私たちと同じドキドキするココロを持っているんだとミョーな感動をしたのだった。

高校野球の選手は、いつまでたっても高校生だ。当たり前の話だが見ている方は違う。兄ちゃんがやってる、から同級生が、弟が、子供が、孫が、へ変わっていく。

そうか、今の自分はこんな年になっているのだと球児たちを見て年ごとに確かめる、いわば「人間の定点観測」みたいなところが人気のひとつにあるのかもしれない。目に見えない「人生」をわかりやすく見せてくれるのが高校野球なのかもしれない。

そして今年の決勝再試合。故郷がなくアッチコッチ転々としていた私など、どちらを応援してもいいようなものだが、ここはやはり出身校つながりということで。いや本当をいうと歌舞伎役者みたいな斎藤投手のクールな立ち姿のせいで早実を。

こうして37年たっても、何も変わっていないことが分かった。いつまでたってもミーハーなのだった。