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クミコ - ココロの扉をたたくウタ

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2007年2月3日

「納豆の災難」

夫だった人が神戸の人だったので、結婚しているときに納豆を食べるのは、少し遠慮があった。冗談にしても、そんなモン食べ物じゃないよといわれると、こんな小さな国にも文化の違いはあるのだなあとただ感心してしまったものだった。

私の両親は水戸の人間である。そんな訳で小さいころから納豆には特別の思い入れがあった。天狗の顔のついた納豆は、父や母、祖父や祖母、そしてもっと遥かに繋がる大きな流れのようなものを思いださせた。その地で生まれた食べ物は、その地で生きている人とおんなじ。「ルーツ」といっていいかもしれない。

だから今でも物産店などで、ぶら下がっている「わらづと納豆」を見ると、何十年も昔、帰京する私にいつまでも手を振っていた祖母の姿が重なってしまう。

その納豆が災難にあった。人の災難ではなく、納豆の災難。もっといえば食べ物の災難。

それにしても、人を痩せさせるためにある食べ物なんて、この世にあるんだろうか。そんな風にいわれた食べ物は不幸だ。これこれこうして食べると必ず痩せるなんて、食べ物にすごく失礼な話だと思う。

「いただきます」

他の生物の生命をいただいて、わが身の生命にさせてもらう。人と食べ物の関係だったはずだ。

とはいえ、思春期太りに悩んだ私も肥満の苦しみは理解できる。どうしたら痩せるか。コレがいいといえばコレ、アレがいいといえばアレ、買い求める私に友人が冷たくいった。

「太るのにお金かかってるのに、痩せるのにもお金をかけるなんて」

今、冷蔵庫の中には冷凍室から移しかえた納豆パックがひとつ。賞味期限寸前にとりあえず冷凍させたものだ。あのお、もっとおいしい時に食べてもらいたかったんですけど。幾分茶色を増した豆がそういっている。

2007年2月17日

「スーパー老人」

「老人力」という言葉があった。「老人」を逆手にとってのポジティヴな発想転換の生き方みたいな話だったが、このところ、そんなものをヒョイと飛び超えた「スーパー老人」に圧倒されている。

82歳になるシャルル・アズナブールの公演はすごかった。水も飲まずノンストップで唄い切るその姿は、甘く苦く凛々しく、まさしく歌手の最高級品という感じ。

計算しつくされたそれらの歌たちの、時おりフラットする音程や、速いステップを踏む足元や、深いおじぎの時の膝や腰や、そんなことについドキドキハラハラしてしまうのも、これまた「スーパー老人」の落語家に対するのにも似て、何ともぜいたくな心配を与えてくれる人なのだった。

彼の唄う歌は、50年前のものなどザラでそれこそこれまでに何百回何千回と唄ってきたはずなのに、いまなお、そこに初めて現れたかのように端端しい。カラダよりココロを端端しく保つのは何百倍も難しいことのはずなのだ。伸びた背筋に、こちらも思わず背筋を伸ばす。

そんな私が、今月21日に新しいアルバムを出す。70年代の歌を中心としたもので、私にとっては16歳から25歳までの若者まっただ中、街に流れていた歌たちだ。「十年」というアルバムタイトルは、今回、中島みゆきさんに書き下ろしてもらったオリジナル曲の題名でもあって、たった一人のオトコを思い続け、その人の幸せを思い、アレレ、10年たってしまった、そんな歌だ。

「十年なんてほんのひとつ、恋ひとつぶんね」の歌詞がズシンと胸に落ちる。10年を二つ合わせて20年、もう一つ合わせて30年。アッという間にアズナブールと同じ歳になる。

「スーパー老人」は「老人」ではない。若者と老人をあわせ持った最強の生き物だ。

いつの日か「サフイウモノニ ワタシハ ナリタイ」。