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クミコ - ココロの扉をたたくウタ

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2005年2月4日

「長い髪」

待ち人がなかなか来ないまま、ビルの上を何気なく見上げるとそこにはガラス張りの美容室が。愛想のいい男の人が女性客の長い髪をブローしている。そういえば私もあんな髪だったこともあったなあと懐かしくなる。

大学の頃は「桃井かおり」を気取り、両側にかかる髪の間から斜めに顔を出しウツロな目つきをしてみたり、カーリーヘアのヒッピーもどきの時はギザギザとつっぱって歩いてみたりした。まっすぐか縮れているかの違いはあるが、まあ基本的に「髪の長い女の子」ということだ。

若い時というのは頑固で臆病なものだから、その長い髪をバッサリ切るには、それなりの勇気や動機が要るのだが、私の場合は、たまたま飛び込んだ美容室の「事故」からショートヘアとのつき合いが始まった。 「この髪にしてください」と壁に貼られたパリジェンヌ風の写真を指し3時間後、鏡にはまぎれもないオバサン頭の私が映っていた。
どこをどうすればあの写真からこの頭になるのか教えてほしいと思ったが、切ったものが元通りになるわけもなし、これは「運命」なのだとあきらめるまでの焦りと苦しみは、その美容室をボーゼンと出た足ですぐさまカツラを買ってしまったことからもわかる。ところが人間というのは不思議なもので、オバサン頭でもカツラ頭よりはやっぱり自分らしい。私らしい。仕方なくそのままでいることにした。

こうしてすっかり観念した後は、ひとつの「カセ」がなくなったように頭も心も軽くなり、ある時は刈り上げ、またある時は緑色に染め親からカエルと嘆かれたりと様々なことがあったが、今までは心底あの美容室に感謝している。あの「事故」がなかったらもしかして今だに長い髪にこだわっていたかもしれないのだ。

振り返るとこんな「事故」みたいなことで人生は紆余曲折するのかもしれない。まさに「人生ゲーム」。アガりがさっぱり見えないのも似ている。

2005年2月25日

「鉛色の怒り」

ヒトはヒトを傷つけてはいけないこと、ヒトはヒトの命を奪ってはいけないこと、これだけが親が子に、あるいは学校が子供に教えることのすべてだと思っていた。結局このことだけがヒトとして一番大切なことなのだと思っていた。

新聞を開くたび気持ちが暗くなるなんてよく聞く話ではあるが、まさしく今の私もそうだ。遊ぶ金欲しさにヒトを脅し、揚げ句殺してしまう、この前まで可愛がっていた子供を、同居相手ができた途端うとんじ殺してしまう、こんなニュースが本当に「日常茶飯」になってしまった。ココロの中が鉛色になっていくようで、ああこれはカンケーないこと、こんなの私とはカンケーないんだからと思おうとすればするほど、今度は体中がどんどん鉛色に侵食されていくようでオタオタし力が抜けていく。この世に生きていく意味、生きている意味など何もないような気さえしてくる。

先日、友人が怒った。というよりキレた。青ざめた顔で怒りの言葉を投げつける姿と、冷たく凍りついていく空気は、どうにも悲しかった。たしかに怒りの理由は本人にとってマットウなものではあるが、だから余計に感情をそのまま撒き散らすことの危うさを思った。目の前が真っ白になる怒りというのはある。でも真っ白な時だからこそ、もっと周りをよく見なければならないのだろう。吐いた言葉の行く先のこと、それを受けとめる人たちのこと、そして結局は自分自身のこと。後で一番シンドくなるのは他ならぬ本人なのだから。

「怒り」はヒトとヒトを繋ぐ、分子構造の「手」みたいなものとスパッと切ってしまう。元通りまた繋ぎ合おうとしても、なかなかうまくいかない。ただでさえ気持ちの弱くなりそうな時代だからこそ、ここはもっと力強く手を繋ぎ合いたいと思うのはいい年をした大人のいうことじゃないんだろうか。なんだか悲しい春だ。