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クミコ - ココロの扉をたたくウタ

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2004年8月13日

「音が欲しい」

去年の冷夏の時とはうってかわって、今年のセミは元気がいい。窓から見える大きな木でもジンジンだのミンミンだの鳴いている。

音楽をナリワイにしているわりには、音のない生活をしている。一度に二つのことができないので、メールを打つ時も、新聞を読む時も無音のままである。そうすると、こんなザワザワした都会の片隅あたりでさえ、木を通る風の音や、スズメの声、春先には…あれれウグイスの声か…ってな具合に様々な音が聞こえてきて楽しい。

そんな私を最近落ち着かなくさせるのが、テレビ付き携帯電話のコマーシャル。居酒屋あたりで、ケータイに映るゲームに声をあげる若者の図は恐ろしい。それでなくても、若者の多い飲み屋は「禁区」に近いありさまの中、なおこの上、ボージャクブジン人間を増やそうというのか。ますます生きにくくなるなあ、とため息がでる。

そういえば、何年か前、立ち寄ったレンタルビデオ店で腹の立つことがあった。同じ店の中、アッチとコッチで違う音楽が流れている。そのまん中あたりに立つと気が狂いそうになり、モノを選ぶなどという知的作業はまったくできなくなってしまう。これではかえって商売の障りにもなるだろうと、「ねえ、これって頭ヘンにならない」とレジの若者に尋ねてみたところ、キョトンとしている。どうやら質問の意味が飲み込めないらしい。

音のナイのには慣れているはずの私だったが、一昨年の末、ちょうどクリスマスの頃、それまで住んでいた家を出て、ナンにもない部屋に越した時は悲しくさみしかった。
テレビもラジオも、もちろんオーディオもない部屋にポツンと座っていると、徐々にまわりの闇が侵食してくるようで心細い。 ああ、音が欲しい、痛切に思った。早くいなくなればいいと思っていた口うるさいツレアイを、突然なくした亭主の気分、とでもいおうか。ポッカリ空いたココロにこそ音は必要なのだと思ったのだった。

2004年8月27日

「マットウな怒り」

父親が怒っているという。まったくトシをとるとつまんないことで怒るんだからと母親が憤慨している。聞いてみると、まず「長嶋ジャパン」。このネーミングが気に入らないらしい。日本の代表チームでなんで「長嶋」なんだ、というわけだ。確かに世の中に長嶋ファンは多いけれど、そうでない人もいるわけで、うちの父親のように長嶋ギライの人間にいたっては不愉快きわまりないということになる。うーむ、これはマットウな怒りであると感心する。

次に昨今の若い女の子のヘソ出しルック。人前で恥ずかしげもなくヘソを出すなど言語道断、親の顔が見たい。ヘソ出しどころか、後ろから見ると、お尻まで見えそうな女の子もいて、こっちがドキドキしてしまうことを思えば、今年76歳の父親の怒りは、これまたマットウな怒りといっていいような気がする。

理不尽な怒り、というのもある。何であんなことになったのかと後悔する怒り。数年前のこと、スーパーのレジで順番を間違えた女性に一言注意した。すると相手が思いがけず反論してきた。その瞬間、目の奥がシューッとすぼまるような怒りが体を突き上げ、口からは勝手に言葉が出ていた。「これはジョーシキですよ、ジョーシキ!こんなこともわかんないんですか!」

当時同居していた人間との確執に疲れ果ていら立つ毎日だった。自分の口から飛び出す言葉に自分で驚きながら、昔読んだ童話、醜い心を持ったお姫様の口から次から次へと飛び出すヘビやカエルたち、というのを思いだした。そしてこうして憎しみは連鎖されていくのだなあ、と思った。世界を覆う大きな「憎悪」の一端を引っ張ってしまったような重い後悔でスーパーの袋を提げトボトボ帰った。

できることならマットウな怒りだけで生きていきたい。マットウに生きてマットウに死にたい。あのおっきなクジラのように。

あ、ありゃマッコウか。